3月21日礼拝「むしろ感謝しなさい」

エペソ人への手紙(N0.20)「むしろ感謝しなさい」5章1~5節 

                            仁井田義政牧師

 当時、エペソの町は道徳的に堕落していました。パウロは、クリスチャン達もその影響を受けてしまうのではないかと心配しました。むしろクリスチャンは、社会に道徳的影響を与えなければならないのです。どうすれば社会に影響を与えることが出来るのでしょうか。

★第一は、神にならう者となるということです。神に愛されている者として。愛のうちに歩むのです。キリストの愛の中にあることを忘れると、堕落するのです。その為には、「私達の為にささげもの」となってくださったキリストをしっかりと見続ける生活をすることです。

★第二は、みだらな話や下品な冗談を避けることです。これは性的な話や、それに関する下品な冗談を避けることです。避けるとは、自分がしなくても友人や家族がその話をするかも知れない時に、同じ話の中に加わらないことです。そのような話が出たら、席を外すとか「避ける」のです。

★第三は、「むしろ感謝する」ことです。みだらな冗談は、信仰にも悪い影響を与えてしまいます。また「私の人生には全く希望がない」と否定的な言葉を繰り返し言っている人で「すごく元気な人」を見たことはありません。

聖書は、「感謝しなさい」と教えています。どんな時にも感謝することが出来るように、自分を訓練するのです。神様に感謝することを心掛けた生活をする人に、誘惑はその力を失うのです。

★パウロは、5節で「不品行な者、汚れた者、むさぼる者」は偶像礼拝者なので、神の国を相続することが出来ません」と言っています。なぜ、そのような人達は偶像礼拝者なのでしょうか。それは、神様の言葉よりも自分の欲望や自分の考えを優先させる人だからです。自分の欲望や自分の考えを優先させる人は、自分を神様よりも上だと思っている人であって、自分を礼拝しているのです。私達は、そのような愚かな人になってはなりません。

堕落した社会に影響されてはなりません。愚かな話や下品な冗談から離れましょう。クリスチャンは、社会から影響を受けるのではなく、社会に影響を与えるのです。そして自分自身を救うために「神様に感謝する」生活をしましょう。

3月14日礼拝「聖霊を悲しませてはならない」

エペソ人への手紙(N0.19)「聖霊を悲しませてはならない」4章25~32節 

                            仁井田義政牧師

 今日の御言の中心は「聖霊を悲しませてはならない」です。聖霊様が、どのような時に悲しまれるのかを知りましょう。
★第一は「嘘をつかない」ことです。嘘をつくのは、カルトの常套手段です。嘘も神の為には善となると教えられるのです。イエス様は、悪魔に支配された人を「彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)と教えておられます。モーセの十戒にも「嘘をついてはならない」(出20:16)と記されています。

★第二は「怒っても罪を犯してはならない」ことです。不正に対して怒ることは、クリスチャンにとって必要です。しかし怒りは、自分の損得でのことが多いのです。ですから怒りは、早く鎮めることが大切です。「それは悪魔に機会を与えないように」と記されています。家族間においてはなおさらのことです。悪魔という言葉には「中傷するもの」という意味があります。家族が中傷し合う間柄になってしまうなら、悪魔は喜び、聖霊は悲しまれます。ですから「日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません」と教えられています。そうしないと、ダムの水漏れのように、最初は小さくても一気に崩れて修復不可能になってしまうのです。

★第三は「盗んではならない」ことです。これは、金品だけのことではありません。仕事をサボる人は、労働時間を盗んでいるのです。経営者がサービス残業を強いるのも、同じです。自分がしたのではないことを、自分がした結果のように言うのも、名誉を盗んでいるのです。

★聖霊を悲しませてはなりません。洗礼を受けたその日から、聖霊は私達の内に住んで下さっています。そのことを意識しない人がいるのです。ですからパウロが、「あなたがたは知らないのか、あなたがたは聖霊の宮であって」(Ⅰコリント6:19)と言っています。聖霊は悲しまれるのです。先週の御言にあった「新しい人を着る」ということを徹底しないと聖霊は悲しまれるのです。

★私達は、聖霊が悲しまれないように注意しなければなりません。悪魔は、小さな隙間を狙っています。そして家族崩壊にまでつながるのです。ですから無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどの一切を捨て去るのです。お互いに親切にし、心の優しい人となるのです。聖霊が悲しまれることを脱ぎ捨て、新しい人となって、聖霊に喜ばれる人生を生きましょう。

3月7日礼拝「新しき人を着なさい」

エペソ人への手紙(N0.18)「新しき人を着なさい」4章17~24節 

                            仁井田義政牧師

今日の御言には、「新しい人を着なさい」という御言があります。その前には「古い人を脱ぎ捨て」とあります。「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」とは、どういうことなのでしょうか。

★聖書は、「異邦人が空しい心で歩んでいるように歩んではなりません」と記しています。異邦人とは、真の神様を知らない人達のことです。しかしここでは、エペソのクリスチャンに語られています。パウロがエペソに伝道してから十数年が経ちました。その教会には熱心な信徒だけではなく、世の人と変わらない生活をしている人もいました。かつて洗礼を受けてクリスチャンになったのに、洗礼前と何ら変わらない生活に戻っている人のことです。知性において暗くなり、神様の命に包まれた状態を失って、道徳的に無感覚で痛みを感じない状況になっているのです。

★続いて「あなたがたは、キリストをそのようには学ばなかった」とパウロは言っています。洗礼を受ける決心をした時には、イエス様を信じて新しい人生を生きようと決心したはずなのです。しかし、今や洗礼を受ける前と何ひとつ変わらない生き方に戻ってしまっている人もいるのです。なぜそのようになってしまったのか。「キリストに聞く」と言う礼拝をしていないからです。「キリストに聞く」と言うのが礼拝なのです。

★続いて「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ことが記されています。キリストを信じなかった時の生き方は、汚れに満ちた古い人の生き方でした。それを再び着てはならないのです。それを完全に脱ぎ捨てるべきなのです。そして心の霊において、新しき人を着るべきです。その新しき人とは、真理に基づく義と聖という神のかたちに似せて造られた新しき人のことです。新しき人を毎日着るべきなのです。

★パウロがエペソの町に伝道してから既に十数年が経っているので、信徒の中にも、信仰年数が十年以上経つ人もいました。もちろん最近救われた人もいたでしょう。信徒の中には、せっかくイエス様を信じ洗礼を受け救われたのに、新しい人生を歩き出したのに、神様から離れクリスチャンになる以前の生活と変わらない生活をしている人達がいたのです。

古い人を再び着てはなりません。神様の命に生きる新しい人をしっかりと身に着ましょう。 

2月28日礼拝「悪賢い教えに騙されてはならない」

エペソ人への手紙(N0.17)「悪賢い教えに騙されてはならない」4章14~16節 

                            仁井田義政牧師

今日は「悪賢い教えに騙されてはならない」と言う題でお話し致します。

★子供のままのクリスチャンに忍び寄る悪賢い策略とは、異端的な教えのことです。異端は、決して異端だと分かる姿で近づいたりはしません。今日の御言が記しているように、「悪賢さ」に満ちているのです。つまり騙す為の計画をもって、近づいて来るのです。大人になっているクリスチャンであればそれを見抜けますが、子供のままの人はその餌食になってしまうのです。

★それでは今、日本で活動している異端にはどのようなものがあるでしょうか。ものみの塔、モルモン教、統一教会、全能神等、その他多くあります。嘘を公然とつくものも少なくありません。今日の御言は「そのような教えの風や波に、もてあそばれたりすることがない人になりなさい」と教えています。「風や波」とは、押し寄せる力を現わしています。つまり流行に影響されるなと言うことです。現代はこれらのキリスト教系の異端に加えて、他の宗教、占い、企業カルトまで、風や波を起こして騙そうとしているのです。

★真のキリスト者は、「愛をもって真理を語る」人とならなければなりません。ただ「真理」を語るのではなく、「愛をもって真理を語る」のです。ある人が「愛とは時間を使うことだ」と言いました。真理を伝えるには「時間と忍耐」が必要なのです。

★キリストは、今も教会を通して時間と忍耐を用いて働いておられます。教会は、キリストの体だからです。先週も話しましたが、クリスチャンはばらばらに生きてはなりません。ばらばらに生きている人は、成長が止まってしまっている子共のようです。そのような人が、悪賢い教えに騙されるのです。

★しかしキリストの体である教会に、あらゆる結び目によってしっかりと結び合わされる時、その人のクリスチャンとしての歩みはしっかりし、悪巧みから作られた宗教などに影響されない人となるのです。皆さんが、大人になったクリスチャンとなる時、教会は「しっかりと組み合わされた」教会となり、「愛のうちに建てられた」教会となるのです。神様は、異端の風や波にも揺るぐことのない教会を望んでおられます。私達が神様の前に、一人残らずしっかりと教会に結びついた大人のクリスチャンになれますように祈りましょう。

2月21日礼拝「建て上げる奉仕」

エペソ人への手紙(N0.16)「建て上げる奉仕」4章7~13節 

                            仁井田義政牧師

今日は、イエス様が与えて下さっている賜物についてお話し致します。

★今日の御言は、私達にキリストの賜物が与えられていることを示しています。アメリカの家庭にホームステイをしますと、家族の一員として受け容れられます。しかし家族なので、庭の掃除などの奉仕も与えられます。私達はキリストの家族、つまり神の家の一員とされたのです。そしてキリストによって、賜物としての奉仕も与えられました。

★その賜物は、イエス様から与えられたものです。イエス様は、過去・現在・未来に生きておられる大宇宙の存在者です。その御方から、クリスチャンの全てに賜物が与えられているのです。このことをしっかりと理解すると、霊的に成長した人になります。

★またイエス様は、御言に仕える者として、使徒・預言者・伝道者・牧師・教師を立てられました。役職であって、偉いわけではありません。賜物として、その役職を与えられている奉仕者なのです。今日の御言には、牧師の働きが記されています。その働きは、「聖徒達を整えて奉仕の働きをさせるため」とあります。そのことによって、「信仰の一致と、神の御子に関する知識の一致によって、完全に成長するため」なのです。

★今日の御言の大切なひとつは「建て上げる」と言うことです。当時、建物の主な材料は石でした。山から切り出された石はそのままでは使えず、形を整えて建物の適材適所に積み上げられるのです。そのことによって、建築主の望むような建物が完成するのです。バラバラであった石達は互いに力を出し合い、関連し合って大きな建物となります。

★また「キリストの身丈にまで成長する」とは、キリストの愛が完全で、キリストの存在が永遠なので、大きな建物となった教会は、キリストのように永遠の存在となるのです。

そのようなことがどのようにして実現するのでしょうか。それはクリスチャンの一人ひとりが、神様から与えられている賜物をキリストの体である教会を通して実行することによるのです。賜物は、全ての信徒に与えられています。「私は年寄りで何もできません」と言ってはなりません。体を動かせない人には「祈り」の奉仕があります。私達全てに与えられている奉仕の賜物を用いて、イエス様の偉大な働きに参加しましょう。

2月14日礼拝「御霊による一致」

エペソ人への手紙(N0.15)「御霊による一致」4章1~6節 

今日の御言には、クリスチャン倫理道徳について記されています。クリスチャン倫理道徳は、学んだから実行できるというものではありません。祈りによって、はじめて実行できるものです。今日のクリスチャン倫理道徳の教えは、皆がひとつとなると言うことです。
★パウロは、「主の囚人である私は」と述べています。確かにパウロはこの手紙を書いた時、ローマに囚人となっていました。しかし単なる囚人ではなく「主の囚人」と記されていることを見逃してはなりません。主の為の囚人という意味です。

★そのパウロは、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と記しました。パウロは、私は召された者として、キリストの為に牢獄に至るまでも召しにふさわしく生きて来ました。そのようにあなたがたも、召しにふさわしく生きなさいと教えているのです。それと同時に、クリスチャンになった時の「今の生活」にふさわしく歩みなさいとも教えています。クリスチャンになった人の中には、奴隷も主人も金持ちも貧しい人もいました。それぞれの生活の状況が違っても、その召しは「ひとつになることです」と教えているのです。

★そのためには、「柔和と寛容の限りを示し、御霊の一致を熱心に保ちなさい」と教えました。私達は、それがなかなかできないのです。ですから「謙遜と柔和の限りを尽くそう」との強い決心が必要なのです。何のためにそれが必要なのでしょうか。キリストが、教会はひとつになるように願っておられるからです。小手先ではなく、「御霊による一致を熱心に求める」のです。

★パウロは4~6節ので、神様と神様が定められた聖礼典はひとつであることを記しました。聖礼典は、ギリシャ語の「奥義=ムステリオン」を用いました。それは、神様の見えない恵みを見える形にして執行するからです。私達は、コロナの為に聖餐式が長い間出来ておりません。感染の危険があるからです。会堂において賛美し、御言を聞き、一緒に祈ると言うことも出来ておりません。ですが、今日の御言にあるひとつになることをおろそかにしてはなりません。このような状況を嘆くだけではなく、祈りましょう。御霊によって祈りましょう。謙遜、柔和、寛容、愛を持って互いに忍び合い、信仰をひとつにしましょう。今日の御言にあるように、「御霊による一致を熱心に」祈り求める人になりましょう。

「内なる人を強く」

エペソ人への手紙(N0.14)「内なる人を強く」3章14~21節 

仁井田義政 牧師

 今日のメッセージは、「内なる人を強くしてください」というパウロの祈りです。

★内なる人とは、私達の霊や心のことです。それが強くなるようにとパウロは祈りました。この時、パウロの足は鎖で繋がれていました。そのような状況では、解放されるようにと祈るはずです。しかしパウロは、内なる人が強くなるように祈ったのです。私達は今、コロナからの解放を祈っています。しかしそのことばかりを祈っていると、「内なる人」が弱くなってしまいます。むしろ内なる人が強められるように祈ることによって、魂に力がついてくるのです。

★この手紙が書かれたのは、パウロがエペソの町に伝道してから10年以上経っています。エペソの町には、アルテミス神殿などがあり、また教会狩りの迫害もありました。パウロ自身も今、獄中にいるのです。信徒達の間に「本当に神は全能なのか」との疑問が出ても当然の状況でした。しかしパウロは、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることが出来ますように」(19節)と祈りました。

★「内なる人が強くされる」とは、どういうことでしょうか。それは、どのような状況に置かれても、神様は全能であると信じる強い心にされることです。辛子種のような存在であっても、祈り信じる者には、願うところ思うところを越えて、神様の全能が導いていて下さるのです。迫害され続けている当時の小さな教会が、そこから人類を席巻する世々の影響、とこしえの影響が始まると確信していたのです。

★パウロは、内なる人の強い人でした。それと同じようにエペソの教会の人々にも「内なる人」が強くなって欲しかったのです。逆境の中にあると、身の安全や健康のこと、生活のことなどだけに心が捕らわれかねないのです。そうして外側のことを優先させやすいのです。礼拝よりも生活優先。キリストよりも自分優先。キリストの栄光よりも自分の栄光優先。自分が主人となってしまい、キリストが心の内から出ていかれてしまうのです。ですからパウロは「キリストが心のうちに住んでくださいますように」と祈っているのです。私達も、人知をはるかに超えて働かれる神様を信じて、「主よ、私の内なる人を強くして下さい」と祈りましょう。

「一番小さな私に」

エペソ人への手紙(N0.13)「一番小さな私に」3章8~13節 

仁井田義政牧師

パウロは、異邦人の救いについて2章の終わりから3章の7節まで記してきました。そして今日の御言の3章8節で、感極まるようにして「全ての聖徒達のうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは」と記しました。今日は、パウロの自己認識についてお話しいたしましょう。

★パウロは、自分を聖徒達の中で「一番小さな者」と考えていました。人と比べるのは、相対的な自己認識のように見えますがそうではありません。 それは、神様の前に「私は最も小さな者だ」という絶対的な自己認識なのです。パウロは、他で「私は罪人の頭」とも言っています。それは、キリスト教徒を迫害し、ステパノを殺し、エルサレム教会の信徒達を国外に散らす原因を作った張本人なのです。さらには、その信徒達をダマスコまでも追って行ったのです。ですから「一番小さな私」には主の恵みを受ける資格など全くないのに、イエス様は私に奉仕を与えて下さったと感謝しているのです。

★そのような私に「測りがたい富と奥義を宣べ伝える偉大な働き」を与えて下さったと記しました。その「測りがたい富」とは何でしょうか。それは神様が全人類を愛しておられ、救って下さると言うことです。世界のあらゆる民族を救って下さるということです。これは神様の御心でした。パウロに示されたこの奥義によって、キリスト教はイスラエルのユダヤ教の一派から世界宗教へと扉が開かれたのです。

★世界に開かれたキリスト教の教理は、「全ての人々の為の十字架の救い」でした。イエス様の十字架によって、全ての人の罪が赦され、「大胆に神に近づく」ことが出来るということが分かったのです。かつては年に一度、大祭司が身を清めて細心の注意を払って、神殿の至聖所で神様に近づきました。しかし、イエス様の十字架の赦しによって、誰でも大胆に神様に祈ることが出来るようになったのです。しかも個人の日毎の食事のことから、世界情勢に至るまで、大胆に祈ることが出来るようになったのです。

★パウロは今日の御言で、かつては聖徒達を殺していたような「一番小さな私」に、そのような新しい時代を知らせる働きが与えられたと感謝しているのです。パウロは、獄中でも奉仕の感謝に溢れていました。私達も「一番小さな私に与えられた奉仕を感謝します」と祈り、奉仕する者になりましょう。

「神の啓示による差別の撤廃」

エペソ人への手紙(N0.12)「神の啓示による差別の撤廃」3章1~7節 

仁井田義政牧師

 今日からエペソ3章に入りました。3章は「こういう訳で」という言葉で始まっています。それは2章と繋がっていることを現わしています。差別撤廃のメッセージは、既に3週続いていますが、今日も差別がいかに神様の御心に反するものであるかをお話しいたします。

★パウロは、今ローマの獄中にいます。それは、異邦人にキリストの救いを伝道したからです。パウロは、囚人となるような人ではありませんでした。それどころか、ユダヤ人達の宗教的指導者となる人でした。しかも異邦人と交流することを最も嫌うユダヤ教の差別主義のパリサイ派に属していました。

★パウロは復活のキリストに出会った時、「主よ、私は何をしたら良いでしょう」と聞いたのです。クリスチャンになったら、そう聞くべきです。イエス様は、パウロに「あなたを異邦人に遣わす」と言われました。その使命は、苦難の連続でしたが、パウロは「恵みによる私の務め」と獄中で感謝しています。(2節)

★差別の撤廃は神の奥義であり、人間の中からは出てこなかったのです。それは、神の啓示によることだったのです。5節の「前の時代」とは、旧約聖書時代のことです。その時代には、異邦人への差別が罪であることが人々に知らされていなかったのです。しかし今の時代は、聖霊によって、使徒達と預言者達によって、神の奥義を知らされるようになったとパウロは記しています。そしてパウロは、その働きの最初の使徒として自分が「この福音に仕える者となった」と誇りに思っているのです。ローマの獄中においても、悲壮感を持っていませんでした。獄中にいると言うことは、明日をも知れない命であるのに、神様に仕えて来たことの喜びに溢れていたのです。

★この手紙を書いた数年後に、伝説ではパウロは斬首で殉教したと言われています。この手紙がAD61年頃に書かれ、殉教が65年頃と言われています。差別を取り払うためには、イエス様の十字架処刑と、パウロや使徒達の殉教がかかっているのです。そのことから見ても、民族間の差別は絶対に取り払わなければなりません。私達は、差別をなくすことと、神様の使命に生きることとを目指しましょう。

「私達は神の家族です」

エペソ人への手紙(N0.11)「私達は神の家族です」2章17~22節 

仁井田義政牧師

今日の御言の19節には「神の家族なのです」という言葉が出て来ます。それは、教会を現す言葉でもあります。今日の御言によって、いよいよ私達は神の家族として互いの愛を強くしていきたいと思います。

★キリストは、遠くにいた人達にも平和を宣べ伝えられました。「遠くにいたあなたがた」とは、エペソの人々です。神からも遠く、ユダヤ人からも遠かったのです。「平和を宣べ伝え」の「宣べ伝え」は、「ユウアゲリオン」というギリシャ語が使われています。それは「福音」と言う意味です。

★パウロは「私達は」と言って、エペソ人もユダヤ人も一緒であることを示しています。さらに「キリストによって」の「よって」ギリシャ語の「イン」と言う言葉です。それは「~の中で」という意味です。私達は、皆キリストによって初めて神様に近づけるのです。キリストの御霊が、私達を包んで下さるからです。その結果、神様は私達の「父」となって下さるのです。

★その結果、国籍や肌の色による差別はなくなったのです。聖書時代の世界は、差別と区別の時代でした。自由人と奴隷人の区別もありました。しかしキリストはそのような時代に、「教会」と言う新しい共同体「コミュニティ」を人間社会に投入されたのです。

★ですから教会は、どのような国民も、どのような民族も、平等にしなければなりません。つまり「神の家族」として尊敬し合うのです。キリストとキリストの教えが、礎石・頭石とならなければなりません。そうする時、教会はがっちりと互いに組み合わされ、成長し、聖なる宮となり、神の住まいとなるのです。

★皆さんは、教会が成長することを願っておられると思います。今はコロナ禍に私達の教会もあります。だからこそなお一層、神の家族としての信仰が必要なのです。そのためには様々な違いを越えて、互いに神の家族としての愛を強めてひとつにならなければなりません。キリストは、愛を強め合う所をご自分の住まいとして下さるのです。そのためには一切の差別や区別を取り払って、神を父として、キリストを長男とした神の家族としての愛を強めましょう。