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3月11日礼拝 マルコNO20「百倍の祝福」

(礼拝メッセージ)マルコNO20「百倍の祝福」4章1~9節 

                         仁井田義政 牧師

 マルコの福音書の4章に入りましした。3章の終わりの所で、イエス様は「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟姉妹、また母なのです」と言われました。そして4章でイエス様は、その「神の御心に従う人」とはどのような人かを話されました。

★イエス様の何者をも恐れぬ物言いと、病気の癒しの奇跡の連続に狂喜して、多くの人々がイエス様のおられたガリラヤ湖岸辺に集まってきました。その人々の多さの為に、イエス様が浜辺にいるスペースさえなかったのです。人々は、この魅力的なイエス様について行こうとして集まって来たのです。しかしこの狂喜してイエス様に従おうとしている者達の多くが、ご自分を裏切る者になることを、イエス様は知っておられたのです。

★そして熱狂的にイエス様を求めてきた者達全てが、御心を行なう人となるのではないこともイエス様は知っておられました。イエス様は種まきの譬えを話されました。種をまく人はイエス様です。種はイエス様の真理の言葉です。土地は聞く人たちの心のことです。踏み固められた道に落ちた種は、エルサレムから来た律法学者達のようにイエス様に敵対する心で聞く人のことです。土の薄い岩地に落ちた種は、多くの頑張りのきかない心の人です。棘の根のある土地に落ちた種は、欲望の心を持ったまま従おうとした人のことです。

★イエス様は「 聞く耳のある者は聞きなさい」と譬えの最後で言われました。聞く耳のある心で聞くということが「良い地に落ちた種」で「百倍の実を結ぶ」と言われた人の心なのです。この譬えは神の国の例えです。来週お話しします4章11節を見て下さい。そこには「神の国の奥義が知らされているが」と、この譬えの後に弟子達にイエス様は話されています。神の国とは神の支配のことです。イエス様の支配を、現実の社会と生活において聞く耳を持って聞き実践する者は「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」と言われたのです。 

★イエス様の御言には、百倍の実を結ばせる力があります。聞く耳を持って聞き実践さえすれば、絶対に多くの実を結ぶのです。少なくとも三十倍、普通でも六十倍、多ければ百倍、それ以上の実を結ぶのです。イエス様の真理は、私達を豊かにします。イエス様は真剣に私達の心に種をまかれます。私達も、喜んでその種を良い心で受け止めようではありませんか。

 

3月4日礼拝 マルコNO19「神の家族」

(礼拝メッセージ)マルコNO19「神の家族」3章31~35節 

                         仁井田義政 牧師

 イエス様の活動は、あまりにも革新的でした。その結果ユダヤ教の当局者にとがめられ、「彼は悪霊につかれている」という噂を流されたのです。そのためイエス様の家族が、ナザレの村から連れ戻しにきました。そのことを知ってイエス様は、「神の家族」について重要な話をされました。

★イエス様の家族が連れ戻しに来た時、イエス様のおられた家には大勢の人達が「イエスを囲んで座って」いました。「座って聞く」ことは、当時の正式な聞く者の姿勢でした。しかしイエス様の家族は「外に立って」イエス様を自分の所に呼び寄せようとしていました。家に入って行こうとはしなかったのです。

★弟子のひとりが、「あなたのお母さんが、外に来ています」とイエス様に伝えました。当時の社会は、血のつながりが全てに優先しました。しかしイエス様は「私の母とは誰のことですか。また、私の兄弟とは誰のことですか」と答えられ、そして「群衆を見回して、神の御心を行なう人は、誰でも私の兄弟、私の母なのです」と言われたのです。この言葉は家族にとっても、聞いていた群衆にとっても、ショッキングな言葉でした。ですから、この言葉が聖書の中に残っているのです。

★それではイエス様は、家族を無視されたのでしょうか。そのようなことはありません。イエス様は十字架に着かれた時、その苦しみの中で五十歳くらいの母親を弟子のヨハネに託しています。ほかの兄弟も、イエス様が十字架に着かれ三日目に甦られた後、エルサレム教会の初代牧師となっています。「主の兄弟ヤコブ」がその人です。

★イエス様が「神の御心を行なう者が私の家族なのである」と言われた言葉の上に、教会は立っています。教会で男性を「兄弟」と言い、女性を「姉妹」呼ぶのは、神の家族だからです。今日は聖餐式があります。神の家族は、イエス様を中心に食事を共にするのです。欠けたことの多い群衆を見回し、「神の御心を行なうものは誰であっても、私の家族なのです」と言われたイエス様の言葉を噛みしめながら、神の家族の絆を確かめる聖餐式をうやうやしく頂こうではありませんか。私達は神の家族です。

2月25日礼拝メッセージ「心配してはいけません」

(礼拝メッセージ)「心配してはいけません」マタイ6章25~34節

                                                                               楠 亜紀子師

 今日は、マタイの福音書6章から御言葉をお分かちします。

★マタイの福音書5章から7章は山上の説教と言われ、イエス様は山の上で

大勢の人々に教えられました。そこに集まっていた多くの人々の関心事と言えば「食べる物」や「着る物」でした。そのような人々にイエス様は、そのようなことだけに心がとらわれ、心配してはいけませんと教えられました。

★そして次に、自然界を通して「心配してはいけない」ことを教えて下さいました。空の鳥は種を蒔いたり刈り入れをしませんが、神様が養って下さいます。また野に咲いている花も自分で紡ぐことをしませんが、神様が装って下さいます。空の鳥も野の花も神様が養って下さるのですから、ましてやご自身の子供である私たちを養って下さらないわけがありましょうか。

私たちはイエス様のお話を聞いていた大勢の人々と同じように、無用な心配をしていることはないでしょうか。私たちのことを愛して下さるイエス様は、私たちが必要とするもの全てを与えてくださいます。

★それでは、私たちが求めなければならないものは何か他にあるのでしょうか。33節には「だから神の国とその義をまず第一に求めなさい」とあります。私たちが求めるべきものは、神の国と神の義です。神の国とは神様のご支配であり、その義とは神様の聖さです。私たちの心を神の国とし、神様を第一として生きなさいということです。私たちがいつも神様を第一とし、神様との関係が正しいものであるなら、私たちが生活していく上で必要なものは全て、天のお父さまが与えて下さるとの約束です。

★私たちは、明日のことを先取りして心配してしまうようなことはないでしょうか。私たちには明日のことが分からないので不安に思ってしまいますが、イエス様は私たちの明日をご存知です。今日も明日もいつまでも、私たちと共にいて下さり、私たちを愛し、守り、助けて下さるイエス様に、明日のことをおゆだねしましょう。そして、今日一日を精一杯生きましょう。

2月18日礼拝メッセージ「赦される罪と赦されない罪」

(礼拝メッセージ)マルコNO18「赦される罪と赦されない罪」3章20~30節

                          仁井田義政 牧師

 

イエス様は山の上で十二弟子を選んで、いつもの町へ帰って来られました。すると「また」大勢の人が家に押し寄せてきました。そこでイエス様は、赦される罪と赦されない罪について話されました。

★今日の御言には「家に戻られると」とありますが、現代の原語研究によると「帰られると」であり、共同訳はその方を用いています。その家は、おそらくペテロとアンデレの家であり、そこを活動拠点にしておられたと思われます。ペテロの奥さんと熱を癒していただいた姑が、御馳走を用意していたことでしょう。しかし群衆はイエス様に食事をする暇さえ与えず、自分たちの要求を続けました。

★イエス様の所に来た人々は、癒しや奇跡を求めて集まってきた群衆でした。自分の必要が満たされることが第一でした。そのような人達が熱心にイエス様の所に来ることを、エルサレムの律法学者達は妬みました。そして律法学者達は、イエス様と群衆を分断する為にエルサレムからガリラヤに来て、「イエスは悪霊につかれている」との噂を流しました。イエス様の「身内の者」も「イエスは悪霊につかれている」との噂を聞いて、イエス様を連れ戻しにやって来たのです。

★イエス様は律法学者達の悪意を知って、「悪霊は悪霊を追い出すなどと言う馬鹿なことはしない」と言われました。「聖霊」がこのことを行なっているのだと主張されました。そしてイエス様は「アーメン」と言って話されました。「アーメン」とは「真実」という意味です。そして「赦される罪と赦されない罪」を宣言されました。赦されない罪は「聖霊を汚す罪です」とイエス様は言われました。今日の御言の前の19節に「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」のことが記されているのが気にかかります。

★イエス様が十字架に着けられた時に、群衆はイエス様に対して悪口雑言を浴びせ続けました。その群衆に対してイエス様は「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られました。ユダはイエス様を裏切った後「罪を悔いた」けれども「罪を改め」なかったのです。罪をその人に示すのは聖霊です。その聖霊の働きに逆らうことは赦されないのです。私達も「アーメン=真実です」と言って、そのことを教えられました。ですから私達は、罪を犯してしまった時には聖霊の罪の示しに従い、聖霊を敬うクリスチャンになりましょう。

 

2月12日礼拝メッセージ「主の任命に応えよう」

(礼拝メッセージ)マルコNO17「主の任命に応えよう」3章13~19節

                        仁井田義政 牧師

イエス様は、二千年前に御自分の計画を成し遂げるために、山において十二人を任命されました。

★山は、旧約聖書の出エジプト記の出来事と関係しています。モーセは、シナイ山に登りそこで神様から十戒を受け取りました。十戒が与えられ、十二部族からなるイスラエルが建国されたのです。しかし後のバビロン捕囚で、イスラエルは十部族を失いました。イエス様の時代には、イスラエルに二部族しかいませんでした。イエス様は新しい神の国の建国に、イスラエル十二部族を象徴して、山に登り十二人を世界宣教の為に選ばれたのです。

★クリスチャン達は、皆その新しい神の国の国民なのです。神の国の国民であるクリスチャンには、弟子達と同じ使命があります。第一の使命は、「身近に置くため」と記されています。イエス様と共にいることです。自分のことを優先させて、時々イエス様の近くに来るではいけません。第二は「彼らを遣わして福音を宣べさせるためである」と記されています。イエス様は、身近に置いた者を福音宣教のために遣わされるのです。

★十二弟子達は、どのように優れた人達だったのでしょうか。イエス様に従う前の彼らの職業や教育水準もまちまちでした。ペテロのように漁師だった人達が数人います。熱心党員シモンのように、いつでもテロリストとなりうる国粋主義者もいたのです。そうかと思えば収税人マタイのように、お金の為に体制にべったりの人もいました。またヤコブとその兄弟ヨハネように、「ボアネルゲ=雷の子」というニックネームをつけられるほど感情沸騰型の人もいました。最後にイエス様の「身近」から離れ、イエス様を売る裏切り者となったイスカリオテのユダの名が出てきます。

★弟子の中に優れた人は一人もいませんでした。それをイエス様は「御自分のそばに置くため」に選ばれたのです。なぜそばに置くのでしよう。イエス様ご自身から学ぶためにです。そして私達クリスチャンには、全ての人に「福音を宣べ伝える力」と、「悪霊を追い出す権威」が与えられるのです。あなたが今、イエス様のそばに生きているならば、今まで自分を見ていた以上に、あなたには力が与えられています。イエス様があなたを呼び寄せ、あなたを福音の為に任命されているのです。主に信頼され主から宣教の為に任命されているのですから、その任命に応えるクリスチャンとなりましよう。

2月4日礼拝メッセージ「イエス様に触ろうとして」

(礼拝メッセージ)マルコNO16「イエス様に触ろうとして」マルコ3章7~12節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書には、イエス様を求めて集まる大群衆の姿が記されています。その群衆は外国からも集まって来ました。大群衆の力は指導者たちの力に優るのです。イエス様にとって天下を取るための最大のチャンスが到来したのです。しかし、イエス様は「群衆が押し寄せてこないように小舟を用意しなさい」と弟子達に命じられました。その真意はどこにあるのでしようか。

★イエス様の噂を聞いて、町や村やツロやシドンという外国からも人々が集まってきました。ずいぶん遠くからも来ました。イエス様の癒しの力を信じて集まってきた人達です。イエス様は「大勢の人なので、押し寄せてこないように、弟子達に命じられた」と記されています。共同訳や詳訳聖書は、「押し潰されないように」と翻訳しています。イエス様が群衆に「押し潰される」などということがあるのでしょうか。いざとなれば、湖の上を歩くことさえ出来たはずです。

★イエス様は、群衆が目的のためには「イエス様さえ踏み潰す」ことを見抜いておられたということが出来るでしょう。この三年後には、このような群衆が「イエスを十字架に付けよ」と叫び、ついに十字架につけてしまったのです。イエス様の本当の力を知って恐れたのは、汚れた霊だけであったことを聖書は記しています。人間だけが知らなかったのです。

★さらに「イエスはご自身のことを知らせないようにと、厳しく彼らを戒められた。」と記されています。次々に病気を治して「この事を出来るだけ多くの人々に言い広めよ」とご自身の癒しの力を誇示して扇動するのが、イエス様が成功者になるためのチャンスだったでしょう。しかもすでにパリサイ人とヘロデ党が手を組んでイエス殺害の計画に入っていたので、その計画を粉砕するためにも群衆の力こそ必要であったはずです。しかしイエス様はそのようなご利益だけを求める群衆には、何の力もないことを知っておられました。ですから私のことを知らせてはいけないと厳しく戒められたのです。

★イエス様が「全ての人々に私のことを伝えよ」と信頼して命じられる人々とは、どのような人々でしょう。それはイエス様が「私達の罪の為に十字架について死なれたこと。三日目に死人の中から復活し、今もなお私達と一緒におられること」を信じる人々です。ですからイエス様は、復活後に「全世界に出て行って福音を伝えよ」(マタイ28:19)と弟子達に命じられたのです。私達は今も生きておられる復活の主を心から信じる者になりましょう。

1月28日礼拝メッセージ 「イエス様の怒り」

(礼拝メッセージ)マルコNO15「イエス様の怒り」マルコ3章1~6節

                            仁井田義政 牧師

今日の御言には、ユダヤ人の会堂でイエス様が片手の萎えた人を癒されたことがもとで、パリサイ人とヘロデ党の人が、イエス殺害に団結する様子が記されています。そこに人間に対するイエス様の愛と、私達人間の持つ強情な罪が記されています。

★イエス様は安息日の度ごとに、礼拝の為に会堂に入られました。町には会堂があり、パリサイ人はそこでイエス様を待ち構えていたようです。「片手の萎えた人」が、その会堂の隅にうずくまっていました。パリサイ人は、イエス様の行動をじっと監視していました。それは、またイエス様が安息日の掟を破ってこの片手のなえた人を癒すのではないかと思ってのことでした。安息日違反の現場を押さえて、法的に処罰するためでした。

★片手のなえた人は、会堂の片隅にいました。当時このような病気の人は、神の罰を受けた人と言われ、軽んじられていたのです。イエス様は片手の萎えた人を会堂の中央に呼び出されました。礼拝において、このような人にこそ神様が恵みを与えたいと思っておられることを示す為でした。

★人々は、イエス様が律法を破ってその人を癒すかどうかを見ようとしていました。その人々にイエス様は、「安息日にして良いのは善か悪か」と問われました。しかし、彼らは「黙っていた」と聖書は記しています。その沈黙は人間のずるさを現わしています。「安息日にふさわしいのは善か悪か」という誰でもわかる真理の前にさえ、黙ってしまうのです。イエス様はそのような人間を見て、「嘆きながら」人を救うという正しい行ないを実行されるのでした。私達は、イエス様の前にそのような頑なさを持っていないでしょうか。

★イエス様は、安息日に片手の萎えた人を癒せばパリサイ人から命を狙われることを知っておられました。8時間くらい待って癒すなら、安息日が終わるので問題なかったのです。しかし差別され会堂の隅に追いやられている人も、神様に愛されている人であることをみんなに知って欲しかったのです。だからこそ「会堂の真ん中に」来るようにと言われたのです。しかし会衆は沈黙したのです。なんという人間の自己保身と強情さでしょうか。イエス様は、その強情さに怒りを感じられたのです。この日イエス様殺害を目的に「パリサイ人とヘロデ党は手を組んだ」ことが記されています。その強情さは、イエス様殺害を選択するのです。私達はイエス様の前に、強情と自己保身を捨て去りましょう。そして素直な心でイエス様をお迎え致しましょう。

 

1月21日礼拝メッセージ「疲れからの解放の日」

(礼拝メッセージ)マルコNO14「疲れからの解放の日」マルコ2章23~28節

                             仁井田義政 牧師

 安息日のことでした。イエス様とその弟子達が、麦畑のある道を通っている時に空腹を覚えて、ひとくち麦の穂を取って食べました。するとそれを見ていた律法学者・パリサイ人から「安息日破りである」と非難を受けました。するとイエス様はその非難に対し、安息日が何のためにあるのかを教え始められたのです。その教えは、私達の日曜日の礼拝にも関わる大切な教えです。

★空腹で安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子達の行為は、パリサイ人の目には許されない律法違反行為でした。当時、安息日には一日に歩く距離さえ決められており、その距離は800メートルまででした。さらには煮炊きまでも禁止されていました。律法が神様から与えられた本来の目的は、本人だけでなく奴隷や家畜まで、労働から解放し休ませる為でした。それが長い年月の間に、人々を束縛する戒律となってしまっていたのです。

★イエス様は、千年前にダビデが安息日に祭壇の供えのパンを食べた事(第一サムエル21章)を話し始められました。それは、王になる前のダビデがサウル王に命が狙われ、逃げ回っていた時のことでした。ダビデと家来たちが安息日に空腹になったため、祭司にお願いして聖なるパンを分けて頂き食べたのです。それを非難されることはありませんでした。王でなかったタビデがそうしたならば、真の王であるイエス様とその弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べたからといって、律法違反にはならないと言われたのです。

★さらにイエス様は「安息日は、人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。・・・人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27-28)と言われました。安息日にこそ、大いなる解放の御業を行なわれるのです。ですから私達は礼拝において、大いに主イエス様の解放の御業にあずかれるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)という御言は、マタイの福音書では、この麦の穂を摘んだ安息日論争の直前にあるのです。

★イエス様は安息日の主です。人間は肉体の休養と同時に心に休養が大切です。いや「たましいに安らぎ」(マタイ11:29)とあるように、心に休みがなければ本当の休養にはなりません。いつも礼拝に集って、安息日の主であるイエス様に、全ての重荷と苦労から解放して頂き、活力に満たされましょう。

 

1月14日礼拝メッセージ「喜びをいっぱいにする」

(礼拝メッセージ)マルコNO13喜びをいっぱいにするマルコ2章18~22節

                                                                                    仁井田義政 牧師

  今日から、マルコによる福音書の連続メッセージに戻ります。イエス様は人々と楽しく食事をしていたことで、パリサイ人や洗礼者ヨハネの弟子達に非難されました。その答えとして、あの有名な「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさい」という有名な話をされました。     

★パリサイ人達は、一週間に二度断食していました。月曜日と木曜日です。 バプテスマのヨハネの弟子達も、彼らの先生が蜂蜜とイナゴを食べて生きている人でしたから、当然のように断食もしていました。イエス様も決して断食を排除してはいません。イエス様の四十日の断食は有名です。

★それではイエス様は、断食をどのように考えておられたのでしょうか。イエス様は、断食を自分達の信仰の立場を誇示するために用いるべきではないと考えていました。私達は週に二回しているのに、あなたは何故しないとか言うのはもってのほかであり、すべき時に自由にするのが断食だと考えておられたのです。だからイエス様は断食そのものを否定しておられるのではなく「花婿が取り去られる時がくる。その時、彼らは断食する」と言われているように、どうしてもしなければならない時にすれば良いのです。

★イエス様は、食事に招かれると何処にでも喜んで行かれました。罪人の家にでも、パリサイ人の家にでも、喜んで行かれたのです。イエス様の食事の記事は数多くあります。十字架に付けられる最後の夜にも晩餐をもたれました。イエス様は復活後も、エマオの弟子の家で食事をし、ガリラヤ湖で弟子達の為に魚を焼き朝食の準備し、使徒の働き1章4節に記されているように「一緒にいるとき」(シュナリドメノス)も食事をしているのです。今も花婿なるイエス様が一緒におられるのです。修行的な断食や宗教的格付けの為の断食は、無用です。

★イエス様は、硬い顔よりもイエス様と一緒にいる喜びに爆発している顔を喜ばれます。旧約時代の考えのままに生きている人は、断食を好みます。イエス様は「花婿が自分達と一緒にいる時は、断食できないのです。」(19節)と言っておられます。今の時代は、花婿なるイエス様が私達と一緒にいて下さる時代なのです。「新しい葡萄酒は新しい革袋に」(22節)入れましょう。イエス様と一緒であることを喜び、その喜びで教会をいっぱいにしましょう。その喜びに満ちて、クリスチャン全員で今年の計画を立てましょう。

2018年1月18日礼拝メッセージ「霊に燃え主に仕えよ」

(礼拝メッセージ)「霊に燃え主に仕えよ」ロ-マ12章9~21節

                          仁井田義政 牧師

  新年第一回目の主日礼拝の朝を迎えました。牧師にとって、この第一回目の礼拝にどのような御言をお伝えするかは、非常に大切なことであると思っています。教会の中には、黙示録3章に出て来る「生ぬるい」教会もあるかもしれません。神様が望んでおられるのは、熱く燃える教会であり、熱く燃えるクリスチャンです。その神様の御心を、今年最初の礼拝の御言として、「霊に燃え主に仕えよ」という題でお話しいたします。

★今日の御言には「勤勉で怠らず」とあります。どの社会でも、勤勉さが成功の鍵であることは明らかです。学生は勉強に、社会人は仕事に勤勉さが求められます。勤勉とは、たゆまぬ努力のことです。「たゆまぬ」とは忍耐強い努力のことです。「よーし!今年こそやるぞ」と決意しても、私達は三日で終わることが多いのです。今日は7日ですから、もう終わっているかもしれません。御言が私達に勤勉であることを求めています。

★続いて「霊に燃え」とあります。人間は、努力や単なる決心で「勤勉で怠らず」という生活を続けられないことが多いのです。それで聖書は、「霊に燃え」と教えています。霊に燃えるとは、聖霊に心が燃やされ続けることです。聖書の中の「燃えた」という事件を拾ってみると、①出エジプト3章のモーセと消えない柴。②第1列王記18章のエリヤの祈りにより祭壇に下った火。③ ルカ24章32節のエマオの途上における弟子達の心に燃えた炎などがあります。聖霊に燃やされ続けるクリスチャンになりましょう。

★続いて「主に仕えなさい」とあります。主にお仕えするということは、クリスチャンにとって最高の幸せです。ところが主に仕えるということは、そう簡単ではないのです。まずお金に淡白(13節)にならなければなりません。敵をも愛する(14~20節)という自分との戦いもしなければなりません。悪に対して善で勝つ(21節)生き方をしなければならないのです。

★モーセもエリヤもエマオの弟子達も、あるいは使徒の働き2章に出て来る弟子達も、信仰が生ぬるくなった時に、神の火を体験して信仰の炎を熱く燃やしたのです。信仰のリバイバルです。単に「勤勉で怠らず」と言っているのではなく、「霊に燃え、主に仕えなさい」と言っているのです。「勤勉で怠らず霊に燃え、主に仕える」2018年、信仰の炎を燃やしましょう。