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10月8日礼拝「69篇とイエス様の十字架」

詩篇NO.69「69篇とイエス様の十字架」69篇18~21節 

                   仁井田義政牧師

この詩篇は、キリスト誕生のおよそ千年前に書かれたものです。驚くべきことに、その詩篇が千年後のキリスト十字架の大切な部分に、多数引用されているのです。今日は、そのことを中心にお話し致しましょう。

★もちろん第一義的には、ダビデの苦しみの詩篇であることは言うまでもありません。第一義的にとは、ダビデがこの詩を書いた時の理由のことです。この詩の1節にあるように、ダビデが強い敵の攻撃にあって、死さえも予感し苦しんでいます。ダビデはその中で、3節にあるように神様の助けを求めて祈っていますが、その祈りに神様の助けがないと言うのです。しかしダビデはその苦しみの中で、神様に感謝しています。そして「神様は苦しみの中での感謝の祈りを喜ばれる」と自覚し、告白しています。それは、ダビデの素晴らしい信仰でした。

★この詩篇の9節が、ヨハネの福音書2章の「宮清め」の時に引用されています。イエス様は、エルサレム神殿を「神の家」として愛しておられました。しかしイエス様がそこに行かれると、そこは物の売買場所になってしまっていました。イエス様は激しく怒り、商売人を追い出されたのです。その結果、イスラエルの有力者達から迫害されるようになりました。純粋な神様への愛が、人からは憎まれることもあるのです。

★当然、ダビデが千年後のイエス様のことを知ってこの詩を書いたのではありません。それなのに十字架のイエス様の苦しみと、状況が完全に一致したのです。69篇20節のダビデへの「そしり」と、裁判時のイエス様への「そしり」と同じでした。また69篇21節の「渇いた時には酢を与えた」という言葉が四福音書に記されており、キリストの十字架に成就した御言として、全て引用されているのです。

★ダビデもイエス様も、激しい苦しみにあいました。ダビデもイエス様も、その苦しみの中で感謝の祈りをささげたのです。神様はその祈りを「何にもまして喜んでくださる」と、69篇31節に記されています。

私達も、苦しみの中でも感謝の祈りが出来る人になりましょう。神様は、その祈りを最上の祈りとして、喜んでくださるからです。

10月1日礼拝「重荷を担われる主」 

                   仁井田義政牧師

今日の詩篇68篇の内容は、祈りあり、感謝あり、イスラエルの歴史に言及するところありで、多岐にわたっています。そこで68篇の中心的な御言を探し出し、お話しましょう。

★私達の人生には、負い続けなければならない重荷があります。重荷とは、悩みのことだけではなく、責任としての重荷もあります。会社員は仕事に対しての責任があり、親は子に対しての経済や教育に対して責任があります。そしてその重荷からは逃げられません。それに加えて、それらの問題からくる取り越し苦労という重荷もあります。この詩篇では、敵が重荷となっています。

★この詩篇の偉大さは、人間の様々な重荷を担って下さる主(神様)がおられると示しているところです。自分一人で担う重荷は、文字通り重荷ですが、御言のように「主が日々重荷を担って下さる」ことを知れば、重荷も軽くなるはずです。イエス様は、マタイ11章28~30節で「全て疲れた人、重荷を負う人は、私の所に来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」と言われました。その条件は、謙遜になってイエス様の言葉を信じることです。

★私達の人生の最大の重荷は、「地上の命の死」と「霊的命の死」です。「地上の命の死」は、寿命による死です。その他には自死があります。

それに加えて、日本人には霊的な死の問題も解決していないで生きている人が多いのです。

★重荷を担われる神様は、私たちの重荷を日々担って下さいます。そればかりか、霊的な命までも救ってくださるのです。まさに「死を免れるのは、私の主、神による」と20節にある通りです。それではどのようにすれば、私達の重荷を主に担っていただけるのでしょうか。それは、謙遜になって神様を信じることです。私は19歳でそのことを知りました。神様はその時からずっと私と一緒に歩いて下さり、重荷を担って下さっています。

神様はあなたの重荷も日々担って下さいます。謙遜になって神様を信じて、平安な人生を歩き出しましょう。

9月17日礼拝「私達が祝福を受ける意味」

詩篇講解NO67「私達が祝福を受ける意味」67篇1節~7節  

                                  仁井田義政牧師                      

 この67篇はわずか7節からなる詩篇ですが、その内容は壮大です。それは、世界の国々や全ての民族が祝福されるという素晴らしいメッセージが記されているからです。しかしその世界の祝福は、まずあなたが祝福されることによって始まります。それでは、どのようにして世界は祝福されるのでしょうか。今日のメッセージは「私達が祝福を受ける意味」です。

★67篇は、収穫感謝祭に用いられた賛美であろうと言われています。この詩人は「祝福」という言葉を3回使って、物質的祝福を求めています。それでは、ご利益宗教になってしまうのではないでしょうか。自分の為にだけ物質的豊かさを求める宗教は、ご利益宗教です。

★この詩篇の偉大さは、2節に「それは、あなたの道が地の上に、あなたのみ救いが、全ての国々に知られるためです」と記されているところにあります。それは、個人が欲望のままに豊かさをむさぼる為の祈りではなく、世界宣教の為であることが分かります。ですから、その祈りに神様の「御顔を照り輝かせて下さるように」と、大胆に祈ることが出来ているのです。

★神様は、アブラハムに「あなたの子孫によって全世界を祝福する」(創世記22:18)と言われました。アブラハムからおおよそ二千年後に、アブラハムの子孫であるイエス様がお生まれになりました。イエス様の「あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と言われて、弟子達による世界宣教が開始されたのです。

★もはやどの国の人であるとか、どの民族であるとかは関係ありません。ローマ書10章12~13節にあるように「ユダヤ人とギリシア人の差別はありません。主の名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。」という時代が来たのです。世界の人々の救いの為に、私達の経済が祝福され、神様がそれを用いて下さるようにと祈るのです。神様が、その祈りに御顔を照り輝かせて下さるようにと祈りましょう。それは神様が、満面の笑みで私達の物質的な祝福を求める祈りを聞いて下さるようにということです。私達は、祝福を信じて祈りましょう。

9月10日礼拝「火の中、水の中を通るとも」

詩篇講解NO66「火の中、水の中を通るとも」66篇8~20節  

                                仁井田義政牧師                      

 今日の詩篇は、神様への賛美の招きですが、大きく分けて二部構成になっています。第一部は、1~12節までの全世界の人々へ礼拝と賛美への招きです。第二部は、「私」という個人的な感謝の礼拝と賛美への招きです。

★第一部では、「私達」という言葉が11回出て来ます。第二部では、「私」という言葉に変わって12回出て来ます。それから見て、第一部は明かに全人類へ神様を賛美する招きであり、第二部は個人的な礼拝での神様への感謝と賛美です。旧約聖書は、あらゆる民族を礼拝に招いており、決して排他的ではありません。

★一部の5-6節の中に「さあ、神の御業を見よ」「海をかわいた地とした。人々は川の中を歩いて渡る」と記されています。その「海をかわいた地とされた」は、モーセによってイスラエルの民が紅海を渡った時の事であり「川の中を歩いて渡る」は、ヨシュアよってヨルダン川を渡った時の事です。そのように、イスラエルの歴史には多くの苦難がありました。しかし神様はその苦難によって「私達を練られました」(10節)と記されています。つまり苦難に遭ったことは、決してマイナスではなかったと言っているのです。

今日は敬老のお祝い会があります。その方々の長い人生の中には、苦難も多くあったことでしょう。まさに12節あるように「火の中、水の中」を通ったのです。しかしその苦難はマイナスなことではなく、純粋な信仰を持つための神様の訓練であったと考えるべきです。

★13節から「私」に変わります。詩人は、私が火の中、水の中を通った時に、神様に誓ったことを忘れず実行すると言っています。私も癌の手術で入院した時、病室で4篇の詩を書きました。それは、病気が癒された後にはこのようにしたいという誓いの詩です。私達は気をつけないと、苦しい時が去るとそのことを忘れてしまいやすいのです。しかし神様は、苦しい時に私達の口から出た言葉を忘れません。苦しみの中で私達を精錬し、純粋な信仰者としてくださっていたのです。

私達も公同の礼拝で神様を賛美し、また苦しい時に個人的に告白した誓いを実行しましょう。

9月5日礼拝「本当に幸福な人」

詩篇講解NO65「本当に幸福な人」詩篇65篇1~4節  

                           仁井田義政牧師                      

 最近お話ししました詩篇は、苦しみの中での祈りの詩篇でした。今日の詩篇は、一変して感謝と賛美の詩篇になっています。人間にとって何が一番幸せなことなのか、人間にとって何が一番感謝なことなのかを教えています。

★1節に「神よ、あなたの御前には静けさがあり」と記されています。どんなに私達の生活が忙しく、心がいら立っていても、神の家には私達の心を静める神の静寂があるのです。そこには神様の赦しと愛があるからです。神様は、その愛の中に私達を「選び引き寄せてくださった」のです。そこに私達の幸せがあるのです。

★私達を礼拝に引き寄せてくださった神様は、人間の教祖などではありません。世界の創造者なる神なのです。ですから神様は「地の果て果てに」(5節)にまで、礼拝者を起こされます。「朝と夕べの起こる所」(8節)、つまり朝には希望を、夜には感謝をもって生きる人を起こされます。

★神様は祝福するために「地を訪れ、水を注ぎ、これを豊かにされる」と、ダビデは記しています。人間はみな農業に依存しています。多くの人は直接農業をしているわけではありませんが、お金を払って農業をしてもらっているのです。神様は牧草地には「羊を衣のように、畑のある谷間は穀物の麦が黄色く衣のように覆っている」(13節)と記しています。それは、経済的な祝福を現わしています。それが、私達の信じ礼拝する神様なのです。

★この神様を礼拝できているということは、なんと幸いなことでしょう。しかも神様が引き寄せてくださったのです。「私達には咎と罪が圧倒していた」(3節)にもかかわらずです。なんという恵みと祝福に満ちたことでしょう。さらには、引き寄せてくださっただけではなく「神の家の大庭に住む」(4節)ようにして下さったのです。それは神様の家族にしてくださったということです。家族は良いですね。冷蔵庫にある物も何でも自由に食べることが出来ます。ですから4節の後半に「私達は、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう」と言っているのです。それは、神様の全ての祝福に満たされるということです。万物の創造者、支配者であられる神様に引き寄せられ、神様の家族とされたことに感謝しましょう。また本物の神様の礼拝者とされたことに感謝し、その幸せを感謝しましょう。

8月20日礼拝「自滅と救い」

詩篇講解NO64「自滅と救い」詩篇64篇1~10節

                       仁井田義政 牧師

 今日の御言の表題には「指揮者の為に、ダビデの賛歌」とあります。それは、この詩が公的な礼拝の場で賛美されたものであることがわかります。つまり一人で祈る時に、指揮者の率いる聖歌隊はいないからです。そうしてみると、礼拝者全体に語り掛ける内容であることがわかります。つまり私達にも「このような教会となるように」と、語り掛けている詩篇なのです。

★この詩篇で、ダビデは「私の嘆く時」と記していますが、王として代表して祈っていると考えて良いのです。「恐るべき敵」「悪を行なうもの」とは、神を神と思わず不信仰な人々のことです。彼らは目に見える武器ではなく「舌の剣」「苦い言葉の矢」で攻撃してくるのでした。蔭口です。しかも彼らは、それを悪いことだと思っていないのです。

★5節~6節に「悪者たちは悪事に凝っています」と記されています。現代のネット社会も、詐欺に満ちています。私の所にも毎日最低でも10通は詐欺メールが届きます。詐欺者達は頭が良いのでしょう。凝った内容のメールが届くのです。しかしダビデの受けている「苦い言葉の矢」は、そのような詐欺とは種類が違います。信仰の共同体を破壊するように企む集団からの攻撃でした。その攻撃は巧みで、「誰が見破ることが出来よう」と確信し、「うまくいった」と勝ち誇っているのです。

★それに対して、ダビデは「私が嘆く時、私の声を聞いてください」(1節)と祈る以外、手の打ちようがありませんでした。しかし、神様による「しかし」があるのです。7節に、悪者達が不意に神様によって裁かれ、悪者達の攻撃の言葉が、悪者達の命取りとなるのです。

  ★そして9節~10節には、こうして神様の正しさに生きる信仰者達は、誇りに満ちて生活するようになることが記されています。神様は正義者に勝利を与えられ、人々は正義の神がおられることを知るのです。また礼拝者たちは「主にあって喜び、主に身を避ける」礼拝をするのです。 

★どんな悪者の策略にも、神様は勝利され、礼拝者たちは喜び礼拝をすることが書かれています。クリスチャンには、悪の世に生きる勇気が必要です。神様が悪に勝利されるからです。私達も神様の勝利を信じて、神様をほめたたえる礼拝をする教会となりましょう。

8月13日礼拝「神への渇き」

詩篇講解NO63「神への渇き」詩篇63篇1~8節

                       仁井田義政 牧師

この詩篇は、ダビデが我が子アブシャロムに命を狙われて、荒野に逃げていた時の詩であろうと言われています。自分の愛する子に命を狙われるということほど、辛いことはないでしょう。それが1節に記されている「神への渇き」なのです。

★砂漠では水が一番必要です。人は苦難の中で、人生で一番必要なものを見つけることがあります。ダビデは、アブシャロムとの親子の家庭問題で、荒野にいます。現代も、多くの人が家庭問題で潤いを失った砂漠にいるような体験をしているのではないでしょうか。砂漠の中では、水だけが必要になります。それと同じように、ダビデは苦しみの中で、イスラエルの神としてではなく「私の神」として、神を渇き求めました。それは、ダビデと神様との強いつながりを表わしているのです。

★砂漠の水のように、ダビデが求めていたものは、神様の「力と栄光と恵み」でした。砂漠に「聖所」などあるはずがないのに、ダビデは「聖所」と言っています。粗末なテントの中での苦しみ「神に渇く」所が、神様の臨在する聖所になるのです。ダビデは祈りの中で、「あなたの恵みは命にもまさるゆえ」と言っています。命に優る恵みなどあるのでしょうか。しかし人間は、その命を粗末にすることがあります。ですから神様の恵みは、命に優るのです。苦しみのゆえに死さえ願うようなその時にも、神様の存在と恵みを知ったダビデは、神様を賛美するのです。

★それは、どんな厳しい砂漠のような家庭問題の苦しみの中にも、ダビデは祈りの中で「私の神」を感じました。ダビデは「生きている限りあなたをほめたたえる」と神様を賛美しました。これは、ダビデの信仰と同時に決心です。ダビデは、祈りの中で「私の神」に「両手を上げて祈った」のです。しかし現実には、アブシャロム問題はひとつも解決していませんでした。ですから6節に「眠れない夜」と記しているのです。

★ダビデの詩篇は、机上の空論ではありません。生身の人間が、家庭問題で苦しんでいるのです。ダビデは祈りの結果、この家庭問題は生ける神様の守りによって、私の勝利に終わると確信したのです。あなたも人生を放り投げたりしないで、ダビデのように「私の神」を求めて祈りましょう。

8月6日礼拝「私はただ神を待ち望む」

詩篇講解NO62「私はただ神を待ち望む」詩篇62篇1~12節

                       仁井田義政 牧師

 今日の詩篇の中心聖句は「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」という御言です。ダビデは信頼していた友人に裏切られ、命を狙われています。ダビデはその辛い体験の中で、揺るぎない信仰の道を見出しました。私達も、信頼していた人に裏切られて辛い体験をすることがあります。ですからこの詩篇が、私達に強く迫ってくるのです。

★ダビデは、その解決に私達が陥りがちな人に頼って解決しようとしました。そして身分の低い人に頼って傷を舐め合おうとしても、解決になりませんでした。また身分の高い人に頼って助けてもらおうとしても、助けにはなりませんでした。結果は、かえって失望と不安が増すばかりだったのです。むしろ人に頼ろうとするそのような姿勢こそが、友に裏切られる結果になっていると気付かされるのです。(そのことは、9~10節に記されています。)

★ダビデは、「人に頼る生き方が虚しいことだと知りなさい」と、神様が「一度告げられた。私はそれを二度聞いた」と言っています。それは、神様が一度教えて下さった言葉を、私は反復したということでしょう。神様に頼ることが確実なのだという考えは、決して人間からは出ないのです。人間から出る考えは、「人に頼れ!富に頼れ!」ということが多いのです。しかし神様は、新しい生き方を天から啓示されたのです。

★ダビデは、ついに揺るぐことのない信仰の境地に立ちました。それは、「私のたましいは、ただ黙って神を待ち望む」という境地です。それは、希望は神から来るからです。神こそ、敵や問題から身を守る「岩」、泥沼から救う「救い」、敵から身を守る「やぐら」だと言っています。私達の問題を解決する力は、人間からは決して来ないのです。

★今日の中心的な御言は、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」であると最初にお伝えしました。この「ただ」は、何もしないことではありません。ダビデは一度聞いたことを、二度聞くという信仰の大切なことを苦難の中でしたのです。「神様が私を愛し、守り、私の遭遇しているこの困難の中から必ず助け出して下さる」と信じ、心の隅々にまで、魂の隅々にまで、こだまさせたのです。そして襲い掛かる不安から、主にあって脱出したのです。私達も、御言を魂の奥底まで響かせて強くなりましょう。

6月16日礼拝「心が衰え果てる時」

詩篇講解NO61「心が衰え果てる時」61篇1~8節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書箇所には、「私の心が衰え果てる時」という言葉があります。それはどういう状態なのでしょうか。それはあまりにも辛くて心が衰弱してしまっている状態で、立ち上がる力を失っている状態です。

★ダビデの祈りは、「叫び」と記されています。また「私は地の果てからあなたに呼ばわります」と記されています。それは、誰も助けに来られない状況を表わしています。

★ダビデは「心が衰え果てるような」状況にありながら、「私の及びがたいほど高い岩の上に私を導いて下さい」と祈りました。私達人間には、自分の力では万策尽きた時にも、天の窓は開かれているのです。ですから神様は私の「避け所」敵に対する「強いやぐら」「神の幕屋」「御翼の陰」と、記されているのです。これが、ダビデの神様への信仰でした。ダビデは、自分が地の果てで「心が衰え果てる状態に」なっていても、神様への信頼を失わず、神様に助けを叫び求めているのです。

★ダビデは、呻き叫ぶほどの苦しみの中で祈っていました。(1~4節)

しかし次の5節からは、神様によって道が開かれ、希望と感謝の体験が記されています。神様は、「心が衰え果てる」程に衰弱してしまった人の祈りも「地の果て」からの祈りも、「苦しみ叫ぶ人」の祈りも、聞き漏らすことなど絶対にありません。

★「白洋舎」の創業者・五十嵐健治さんは、ある従業員の裏切りによって営業停止状態になった時に、猛烈に腹を立てて怒り、復讐心に燃えたそうです。しかし教会の礼拝に行き祈っていると「復讐してはならない。復讐は私のすることである」(ローマ12章19節)と「神が味方であるならば、だれが敵対することができるでしょう」(ローマ8章31節)という聖書の言葉が聞こえてきたのです。五十嵐健治さんは、その神様の言葉に従いました。すると会社が、成功に向かって動き出したのです。

★私達の神様は「心の衰え果てる時」の助けです。「避け所」です。「強いやぐら」です。あなたを守る「御翼の陰」です。

あなたも「心が衰え果てる時」、神様の救いの力を信じましょう。

7月9日礼拝「神には力があり、救いがある」

詩篇講解NO60「神には力があり、救いがある」60篇5~12節

仁井田義政 牧師

今日の詩篇は、第二サムエル記8章などがその背景と言われています。両方に「塩の谷の戦い」が記されているからです。そこには偉大な王であったダビデの戦いが連戦連勝で記されています。しかしこの60篇には、ダビデの敗北とその苦悩が記されています。そこにはダビデ自身が書いた解決の道が記されています。それはまた、私達が苦悩の中からどのようにすれば立ち上がることが出来るかの、神様からの啓示なのです。

★1~4節に、ダビデは戦いに負けて失望状態にある様子が記されています。それはまさに悩みで足に力が入らず、地がぐらついているような感覚でした。2節に、しっかりと立っていられない状態が記されています。それは、神様に信頼しなかった結果であったとダビデは反省しています。

★5~8節には、ダビデの祈りと神様の答えが記されています。ダビデは「あなたの愛する者が助け出されるために、答えてください。」と食い下がる祈りをしました。神様は、ダビデの祈りに聖所から答えられ、東西南北は私のもので「ユダ族は私の杖だ」と言われました。杖は支配権を現わします。神様は、イスラエル12部族の中のユダ族を用いて世界を支配すると言われたのです。ダビデはユダ族です。

★9~12節には、「人の救いや助けはあてにならない。神様の助けによってのみ勝利できる」と記されています。まさに敗北という苦しみの体験の中で到達した信仰の奥義でした。偉大なイスラエルの王であったダビデには、なおさらのことです。

★会社の問題において、家庭の問題において、学校の問題において、経済的な問題において、ありとあらゆる問題に打ち負かされそうになり、地盤が揺れ、基盤が崩壊し、途方に暮れてしまうことがあります。しかし幸いなことに、私達にも聖所から最高の知恵の言葉あります。「神には力があり、救いがある」という言です。私達はダビデのように、神様を信じ、神様を信頼する道を選び、苦悩の中からでも人生の勝利者になりましょう。