5月31日礼拝「見えるようになるまでの恵み」

(礼拝メッセージ)「見えるようになるまでの恵み」マルコ8章22 ~26節

                            高間智浩師

★マルコ7章31節~8章30節の区切りは、イエスが盲人の耳を開き、舌のもつれを解かれた記事と、盲人の目を開かれた記事が出てきます。2つの感覚器官のいやしの記事に挟まれるように、目がありながら見えず、耳がありながら聞えない、パリサイ人と弟子たちの姿が描かれています。マルコは8章にもう1つ、「パン」という題材をからめました。ヨハネでパンと言えば命のパンであるキリストを、ルカでパンと言えば共に食する主の愛餐を連想させます。マルコでは、パンという題材は、イエスが誰であるかをなかなか悟らない弟子たちの霊的に鈍いことと関係しています。

★人の目は聖書の中で、無法状態を表していたり深い悲しみを表していたりします。霊的に無力であったり、鈍い状態である事も表現されます。〈目〉は身体に光を取り入れるような働きをします。身体全体が目を通して光の恩恵を受ける事ができます。だから目が健やかであれば、全身が光を享受して明るいが、もし悪いなら全身も光を失うことになります。なので、地上の宝によって心の目が曇らされ、内なる光が暗くなるなら、その暗さは致命的なものとなると教えてくれています。盲人の目を開くことには、救い主のあかしとして特別な意味が込められていて、マルコ8章11節でパリサイ人が求めた「天からのしるし」が表されました。またこの記事は、18節の「目がありながら見えない……耳がありながら聞こえない」と言われた、弟子たちの霊的な目も開かれねばならないこと、そして開かれる希望があることを示しています。キリスト自身が御自分を指して「世の光」と言われました。

★26節で「村に入って行かないように」と命じられました。これは、以前の価値観・理解に戻るな、古い「見えない世界」に戻るなと訴えているのではないでしょうか?古い生き方から脱却し、キリストを「命のパン」として受け取る決断が求められます。キリストが見えているかが問題です。私達もこのように、まだ盲人である人、失われていく魂をイエス様の元へ連れていき、癒され、解放され、救われ、人生に真の光が入るように、祈り、証言し、伝えていきましょう。

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