マタイ講解NO19「キリスト教の美学」マタイ6章1~6節
仁井田義政 牧師
イエス様は、信仰の行いでも人に見せるための善い行いと、神様と人とを愛しての善い行いとでは全く違うと教えておられます。イエス様はまさに、美しいキリスト信仰を教えて下さっています。
★今日の聖書の御言には、神様に喜ばれる善い行いのことが教えられています。人に喜ばれることを目指すのか、神様に喜ばれることを目指すのかということです。クリスチャンにも、気を付けないと落とし穴があります。それは、人から称賛されることを求めてしまいやすいことです。イエス様は、そのような行いは神様には喜ばれないと教えられました。
★どうしてイエス様は、このような教えを人々にされたのでしょうか。それは、人に喜ばれようとすることは、自分を神様の位置につけてしまっているようなものだからです。教会の奉仕は、人から賞賛されることが少ないでしょう。ですから気を付けなければなりません。神様にお仕えするよりも、人に賞賛される奉仕を選んでしまう落とし穴があるからです。
★イエス様は、祈りについても同じであることを教えられました。人に見せたり聞かせたりするための祈りは、偽善者のすることだと教えられました。それは、心が神様に向かっていないで、聴衆に向かっているからです。隠れた所での祈りは、真摯な祈りです。神様は、そのような隠れた祈りを聞くために、そこに待っていて下さるのです。
★今日の御言には、人に知られない行ないと、人の目に見えない所での祈りが記されています。両方とも人の関心を買おうとするのは「偽善です」と教えられました。偽善とはギリシャ語の「ヒュポクリシス」で、「演技する。ふりをする」という意味です。イエス様が教えられた「キリスト教の美学」は、人の目には見えなくても、神様に喜ばれるように善い行いをすることです。私達は、イエス様の教えられた美しい生き方をしていく人になりましょう。
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