詩篇講解NO144 「人とは何者なのでしょう」144篇1節~8節
仁井田義政牧師
この144篇も「ダビデによる」という表題がついています。その内容は、ダビデが人生の様々な戦いの中を生きて行くものです。70人訳聖書には「ゴリアテと戦う」という表題が付け加えられています。巨人ゴリアテとの戦いの時のことです。私達にも人生の戦いは数多くあります。今日は、そのダビデの信仰の真髄を見て行きましょう。
★1節に「主は、戦いの為に私の手と指を鍛えられる。」と記されています。ダビデがこの詩を書いた時、既に王様となっていたと思われます。ダビデがここに至るまでには、幾度もの戦いがありました。そしてこの詩を書いている時にも、外国人と戦っています。ダビデはそのような中で、少年の頃のゴリアテとの戦いを思い出しています。その時に用いたのは、小さな武器の石投げ器でした。それによって勝利したのです。
★その時の事を思い出しつつ、ダビデは「こんな息に等しい自分を、なぜ愛し守って下さるのだろう」と記しています。自分の弱さ、はかなさを自覚する者にとって、「神様の愛の不思議」なのです。それはどう考えてもわからない愛なのです。神様の愛の深いミステリーなのです。
★1~11節までは、「私」という言葉だけが13回出てきます。ダビデ自身が神様を信頼している証拠です。その信頼があればこそ、12節からの「私達」という祈りに移っていけるのです。「私の」そして「私達の」と祈れる者が「幸いなことよ、主をおのれの神とする民」と祈れるのです。
★ダビデは幾度も襲い掛かる人生の戦いの中で「ほむべきかな、我が岩である主。主は戦いの為に私の手を、いくさの為に私の指を鍛えられる」と祈り出しています。「手」「指」は、明らかに巨人ゴリアテとの戦いの思い出であると思われます。神様は、少年ダビデの小さな手と細い指を用いて、3メートル近くのゴリアテに勝利を与えられたのです。「人はなに者なのでしょうそして「私は何者なのでしょう。私を主が顧みられるとは」と、ただ驚くばかりなのです。それが信仰です。
私達も、息のような存在でも人生の戦いに勝利しましょう。
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