詩篇講解NO133「ひとつになる幸せ」詩篇133篇1~3節
仁井田義政牧師
今日は父の日です。午後には、南地区の壮年合同集会がズームで行なわれます。さて、この詩は短い詩でありながら、読む者をほっとさせます。
先週はペンテコステの日でした。この詩篇は、ペンテコステの日と直接関係はありませんが、ある意味、充分に関係の深い詩であると思えるのです。
★まず「兄弟達がひとつになる幸せ」のことが記されています。兄弟と言っても、血縁関係にある一家族のことではありません。様々な悩みや問題を抱えながら、色々な地方から礼拝に集まって来た礼拝者達を意味しています。どこから来ても、どんな問題を抱えていても、父なる神様をひとつになって礼拝する主の兄弟達なのです。
★新約時代はさらに兄弟の範囲は拡大し、パウロはピリピ3章1節で主を信じる全ての人々を「兄弟」と呼んでいます。もちろん教会は天国ではありませんし、信徒達は天使達でもありません。ですから人間関係で問題が起きたりすることがあるのです。新約聖書の多くの手紙はその為に書かれました。主にある兄弟達は、それを乗り越えなければなりません。主にある兄弟だからです。違いを認め合いつつ、主の家に共に住み、主を礼拝するのです。
★「ひとつになって」とは、調和することです。英語では「ハーモニー」と言う語が使われています。音楽会には様々な楽器が用いられます。それぞれの楽器は、作られた国も音色も違います。そのそれぞれがハーモニーとなる時、そこに集う人達はその音色に酔いしれるのです。礼拝者は、主のもとにある兄弟姉妹達です。ですからひとつ心となり礼拝する時に、幸せと楽しさがあふれるのです。
★その幸せは「なんという幸せ」「なんという楽しさ」という感動なのです。「それは祭司アロンに注がれた油のようだ」と。神様にお仕えするための特別な聖別された油のことです。その油は、新約においては聖霊を現わします。兄弟が違いを認め合いながらも、互いに主を礼拝する者として和合する時、聖霊の油がその上に注がれるのです。そこに私達の幸せと楽しさがあります。私達も主を礼拝することにおいて、ひとつとなる幸せを頂きましょう。
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