3月9日礼拝「幾度もの危機から」

詩篇講解(NO.124)「幾度もの危機から」124篇1~8節

                         仁井田義政 牧師 

私達の人生は、幾度もの危機に遭遇します。この詩にも、数多くの危機的な状況が記されています。詩人は巡礼の末にエルサレム神殿で礼拝し、自分の人生とイスラエル民族の歴史を振り返っています。そして「もしも主が私の味方でなかったなら」と、この短い詩の中で二度も記しています。

★詩人も、彼の民族も幾度もの危機に遭いました。その様子を「人々が私達に逆らって・・・彼らの怒りが・・燃え上がった時」(2~3節)と記しています。また「大水が押し流し、私達を越えて行ったであろう」(4~5節)とも記しています。また獰猛な敵からの危険を「歯の餌食にされなかった」(6節)と記し、「罠にかかった鳥のように」とも記しています。しかし神様が助け出して下さったのです。

★詩人は上述の色々な困難の体験を、個人のそして民族全体の体験として「もし主が私達の味方でなかったなら」と感謝しているのです。私達の信仰も、過去の神様の数々の守りと祝福を思い起こすことによって強化されるのです。私達は、礼拝で悩みばかりを神様に訴える者であってはならないのです。

★私達の味方の神様は、将来においても私達の味方として、いつも私達のそばにいてくださいます。ローマ書8章31節に「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とあります。35~37節には「患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣…から圧倒的勝利者となる」と記されています。人々がなぜ人生の中で困難に遭う時、絶望し敗北してしまうのでしょう。味方になる神様を信じていないからです。

★旧約聖書の詩人は「もし主が私達の味方でなかったなら」と仮定法で言っています。しかし、それは「主は私達の味方であられる」ということを、強調するための仮定法なのです。新約聖書の使徒パウロは「主が私達の味方であるなら、だれが私達に敵対できるでしょう」と未来形で言っています。

神様の守りを信じる人となるなら、この詩人やパウロの言うように「圧倒的な勝利者」となるのです。神様が私達の味方であることを信じる者となって、危機や困難も恐れない勝利者となりましょう。

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