詩篇講解(NO.123)「私はあなたに向かって目を上げる」123篇1~4節
仁井田義政 牧師
今日の詩篇は、僅か4節だけのごく短い詩です。しかしこの詩には、神様と人間との壮大なドラマが記されています。
★詩人は、当時の最高の神殿を目指して旅を続けて来たのです。そうして神殿での礼拝を心から喜んで、この詩を書いたのでしょう。しかし詩人は、その素晴らしい神殿に目を奪われてしまってはいないのです。詩人は、神殿で礼拝しつつも、その信仰の目は神殿をつらぬき「私はあなたに向かって、目を上げます」と祈り「天の御座についておられる方よ」と祈っているのです。礼拝とは、そうでなければなりません。礼拝者の信仰の目は、教会の礼拝堂を突き抜け、天におられる神様にまで目を上げることが大切なのです。
★また詩人は、「奴隷の目が主人の手に向けられるように、私達の目は私達の神、主に向けられています。」(2節)と言っています。これは奴隷制度の中の主人の厳しさ、恐ろしさを表わしているのではなく、神様の御指示のことなのです。それは、神様である主人の手の動きを、ひとつも見逃さないということなのです。また神様の手が動き指示命令が出た時には、「それは無理です」とか、「私はそうしたくありません」とか言わないということです。それは、主なる神様への従順な姿勢が込められているのです。
★この詩は 1節では「私」で始まったのですが、2節からは「私達」と記されています。つまり詩人は、自分の住んでいる人々の代表として祈っているのです。その故郷の人々は、3~4節にあるように「あざけりとさげすみ」とで「もういっぱい」の状態でした。
★私達も今、巡礼者のように礼拝に来ているのです。私達の住んでいる所にも、いろいろな問題を抱えて「いっぱい、いっぱい」になっている人達がいます。その人は家族かもしれませんし、友人かもしれません。ですから今日の詩人のように、たった一人で礼拝に来たとしても、目を上げ、教会堂を突き抜けて、全能なる神様に目を上げ「主よ、私達を憐れんで下さい」と、とりなしの祈り手となって祈りましょう。諦めて下を向いたままではいけません。私達も、天の御座に信仰の目を上げて、そこにおられる主に祈りましょう。
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