2月23日礼拝「さあ、主の家に行こう」

詩篇講解(NO.122)「さあ、主の家に行こう」122篇1~9節

                         仁井田義政 牧師 

 この詩篇は、神殿に来た巡礼者がその庭で記したものと思われます。どれくらい長い旅をして、神殿のあるエルサレムに来たのでしょうか。困難を乗り切って、ようやく着いたエルサレム。そうして数日間を礼拝三昧に過ごし、夢を見ているような幸せな気持ちをもって神様の恵みに感謝している光景が、ありありと浮かんできます。

★まず1節で『人々が私に、「さあ、主の家に行こうと言った時」、私は喜んだ』という言葉で始まっています。詩人を巡礼に誘ってくれたのは、友人達でした。遠いエルサレム神殿までの礼拝の旅路を思うと、心のどこかに躊躇する気持ちがあったのかもしれません。友人達の誘いがあったからこそ、いま礼拝に来ることが出来ているのだと感謝しているのです。

★神殿には、多くの人々が来ていました。しかし、その多くはイスラエル人でした。当時は、礼拝場所も異邦人の庭、イスラエル人女性の庭、イスラエル人男性の庭と、分離されていました。教会は、礼拝場所からそのような差別を一切取り払ったのです。

★巡礼者は「主の御名に感謝するために」(4節)エルサレム神殿に来ました。礼拝で最も大切なことは「主の御名に感謝する」ことでした。これは教会の礼拝でも、最も大切なことです。

★6節には「エルサレムの平和の為に祈れ」という言葉があります。エルサレムは、西暦70年にローマ軍によって、西暦637年にはイスラム教徒によって、その支配下におかれました。西暦688年には、今も残るイスラム教の寺院が建てられました。そのドームは、今日まで1337年も建っています。

★ある教会は「エルサレムの平和のために祈れ」というこの御言を、イスラエル人がエルサレムを支配し、神殿を再建することだと信じています。イスラエルがエルサレムを支配しても、ユダヤ教の神殿が建つだけなのです。そこでは異邦人とユダヤ人の差別、男と女の差別が行なわれます。

★イエス様によって、全ての礼拝者を教会は平等な民とされたのです。それが教会の礼拝です。私達も「さあ、主の家に行こう」と言う互いの言葉に励まされて、真の礼拝場所である教会に喜びと感謝を持って集まりましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です