詩篇講解NO98「主は御救いを行われた」詩篇98篇1~9節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、「新しい歌を歌え」との招きの歌です。この詩も、バビロン捕囚後に書かれたものだろうと言われています。なぜ新しい歌を歌えと書かれているのでしょうか。現代においては、私達ペンテコステ派の中から、新しい歌が続々と作られています。今日の詩篇のように、新しい歌を歌うように奨められているのは、神様が日々奇しい御業を行なってくださっているからです。その奇しい御業とは何かをお話し致しましょう。
★まず1節にある神の「右の御手」とは、神様の全能の力を表わしています。その力は、破壊的な力とは違います。神様の力は、聖なる秩序ある力です。ビックバンという爆発が宇宙の始まりであったとしても、この宇宙は無秩序ではありません。数学的に秩序づけられているのです。数学こそ、神の真理に次ぐ真理だと言われている理由なのです。
★その奇しい御業とは何でしょうか。それは、歴史の中に表わされた「救いの御業」なのです。旧約聖書にあるイスラエルの歴史は、ノアの箱舟やエジプトの奴隷からの解放、バビロンの奴隷からの解放等いくらでもあります。エジプトでは、悪い王の代で過酷な労働の時でした。ノアの箱舟の時は、艪も舵もないものでした。バビロンの時は、巨大化するハビロン帝国で、人間的には解放の希望が全く持てない時でした。その敵にペルシャ王クロスが起こされ「自分達の国に帰って、自分達の神殿を作りなさい」と、お金まで持たせてくれました。これが主の御腕なのです。
★神様は、二千年前に究極的な人々の救いを、キリストの十字架によって開始されました。現在では世界人口の3分の1ほどが、クリスチャンになりました。しかしまだ3分の2はクリスチャンではないのです。地の果て果てに近づいてはいますが、「地の果て果てもが、みな我らの神の救いを見る」はまだ実現していません。
★それゆえに、この詩は、これから起こる預言的なものということも出来るのです。神様の強い「右の御手」の働きによって、「地の果て果てまでも主の救いを見る時」が来るのです。ですからクリスチャンは、古い歌だけではなく、新しい希望の歌を心から主に向かって歌おうではありませんか。
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