詩篇講解NO97「光は種のように」詩篇97篇1~12節
この詩は「主は王だ」で始まっています。つまり、主は世界を支配しておられると告げているのです。
★この97篇は、おそらくバビロン捕囚期間後と、出エジプト記の荒野での生活が重ね合わされて記されていると思われます。イスラエルの歴史は、その二つの歴史が忘れられない体験として、イスラエル人の心に彫り込まれているのです。神様は初めから歴史の王として君臨していたのですが、イスラエルの民には、その事が明らかには見えませんでした。その原因は、人間の罪と限界の為に見えなかったのです。むしろ「神を見た者は死ぬ」とさえ恐れられていました。1-7節までは、神様は、歴史に自然界を統べ納める支配者なる王として記されています。
★8-9節は、真の偉大な神様が世界の王として君臨されている事を聞いて、シオンの民が喜ぶ姿が記されています。もし捕囚期間後すぐの詩であるとすれば、まだ再建もままならぬ暗い時代でした。しかし、自分達の神様は世界の王の王であるという事を知って、勇気百倍の賛美をしたのです。礼拝とはまさしくそうでなければなりません。どんな問題にとり囲まれていようと、神殿において「主は王だ」と聞いて、勇気に満たされなければなりません。
★神様が王だからこそ、神様を信じる者達は、悪の時代に悪に染まらず、正しい生き方を求めるのです。神様が悪を憎まれるので、神様を信じる私達は悪を憎むのです。そして悪に染まらないのです。11節に「光は、正しいものの為に、種のように蒔かれている」とあります。その「種のように蒔かれている光」とは、御言と考えても良いでしょう。
★太陽の光がなければ、植物は育ちません。また日陰では弱々しい植物となってしまいます。力に満ちた王なる神様は、御言の光を私達の心に種のように蒔かれます。その光を心から信じて受け入れるならば、受け入れた御言は芽を出し成長し、その人の人生を喜びと感謝に満ち溢れさせるのです。光である御言に照らされると「感謝と喜び」に溢れ、生活にも力がみなぎってきます。神様は、全世界の人々に光を種のように蒔くために、世界の王となられました。その王を「こおどりし」(1節、8節)て、礼拝しましょう。
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