詩篇NO49「悟りがなければ獣に等しい」49篇16~20節
仁井田義政 牧師
詩篇49篇は、1節に記されているように全人類への勧めです。国や民族が違い、考え方が違っても、人間は49篇に示されている3つの錯覚に陥って生きている人が大半なのです。それはどのような錯覚なでしょうか。
★第一の錯覚は、「富が、幸せの一番の保証となる」という錯覚です。創世記の3章17~19節を見て下さい。そこには、世界の資源の乏しさが記されています。そこで砂漠の旅人が水の乏しさに幻覚を見てしまうように、富が幸せに至ると錯覚してしまうのです。その錯覚を利用して、詐欺師が横行します。
★第二の錯覚は「自分が死ぬべき存在である」ということを見ないようにして生きる人生の錯覚です。自分が死ぬべき存在であることは誰もが知っていますが、それを見ないようにして生きているのです。それは特に日本人に多い特色です。それは日本人が死を「穢れ」と見ているからです。死の話などすると「縁起でもない」と叱られてしまうようなことが起きるのは、そのような日本の文化的な要素があるのです。しかし自分が死ぬべき存在であるということを悟って初めて、それではどう生きるかということを考えることが出来るのです。
★第三の錯覚は「聖書の真理などを知らなくても私は幸せになれる」(20節)という錯覚です。聖書の真理によって見えてくる人間の本当の姿を「そのとおりです」という確信がなければ、「富が幸せの全て」と思い込み「自分が死ぬ存在である」ことからも目を背けて生きる人生になってしまうのです。死から目をそむければ、当然死後のことも考えなくなります。それが「悟りがなければ」という意味なのです。
★もちろん神様は、私達人間が全て貧しくあるべきで豊かになることは罪であると言っておられるのではありません。「人はその栄華の中にあっても滅びうる獣に等しい」(20節)と言っておられるのです。貧しくあっても豊かであっても、悟りがなければまさに獣に等しいのです。詩篇49篇は全人類に向けて「悟りを得よ。悟りがなければすべてが虚しい」と叫び、宣言し、宣告しているのです。私達は聖書の言葉によって、ますます真理を悟っていく者になりましょう。真理の神様への信仰を強くしましょう。
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