1月22日礼拝「生ける神を求めて」

詩篇NO42「生ける神を求めて」42篇1~11節

                      仁井田義政 牧師

 42篇は、詩篇第二巻の最初の詩篇で、それにふさわしく霊的なものです。またコラの子ら(合唱隊)のマスキール(教訓の意味)」との説明が記されています。実はコラの士族は、民数記16章32~33節で、モーセとアロンに、「私達も民の指導者になりたい」と言って、逆らった歴史が記されています。この詩自体は、ダビデがその子アブシャロムに命を狙われ、イスラエルの北方に逃げた時の詩であろうと言われています。

★この詩には有名な「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」との御言が1節に記されています。この鹿は、喉も体も渇ききっている状態です。その渇いた状態を「あえぐ」という言葉で表わしているのです。詩人は絶対に必要な水に例えて、私は「生ける神」を求めているのだと言っているのです。「生ける神」とは、死んでいる神の反対語です。

★生ける神を求めるダビデに、人々は「お前の神はどこにいるのか」と言ってあざ笑います。この礼拝のメッセージを聞いている人の中にも、キリストへの信仰を反対され涙を流している人がおられるかもしれません。しかし、イエス様も十字架上で反対され、血を流されたのです。詩人は、そのような激しい攻撃の中で、かつての礼拝の様子を思い起こし「我が魂よ、なぜうなだれているのか、神を待ち望め」と自分を励ましているのです。

★次に、ダビデが書いた「ヨルダン。ヘルモンの地。ミツァールの山から私はあなたを思い起こします。」という言葉に目を向けましょう。ヨルダンはヨルダン渓谷のことであり、ヘルモンは万年雪のある高山。ミツァールは低い山の意味です。それは、どんな水の豊かな地にあろうとも、私の魂は生ける水である生ける神を慕い求めると言っているのです。

★ダビデは自分の子供アブシャロムに王位を狙われ、神の都エルサレムから逃げて、イスラエルの最北端にまで逃げて来たのだと思われます。悩みの中でダビデは「わがたましいよ・・なぜお前は、私の前で思い乱れているのか」と語り掛けています。私達もうなだれ、思い乱れることがあるでしょう。そのような時には、ダビデのように、自分を励まし信仰を貫く道を前進しましょう。どんな時にも、死んだ神ではなく、生ける神を求めましょう。

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