詩篇NO38「主よ、私の救いよ」38篇18~22節
仁井田義政 牧師
アドベントの第三週に入りました。今日の詩篇は、「悔い改めの詩篇」と言われています。この詩篇の作者ダビデは、思い病気の中にありました。その病気のために、家族や友人は去り、近づいてくるのは敵ばかりでした。ダビデは、孤独の中でこの病気と闘っていました。しかし病気は悪くなる一方でした。ダビデはこの詩の表題に「記念のためのダビデの賛歌」と記しました。それはダビデが病の苦しみの中から救われたことを決して忘れないために、記念するための賛歌であることを表わしています。
★ダビデは、この病気は「罪のため」(3節)「咎のため」(4節)と言っています。人間は病気になると突然、神の前の罪を意識するものです。そして「私は何も悪いことをしていないのに」などと言うものです。ダビデの病気は、火傷のように皮膚がただれる病気だったようです。(5節、7節)
★ダビデは、離れ去っていく友人や家族にも、またダビデの病気を悪く言う敵にさえも、反論しませんでした。ただ黙って「耳が聞こえない人のように」「言葉が話せない人のように」黙って耐えと記されています。「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神主よ、あなたが答えてくださいますように」と祈っています。それは、病気の中でも神様への信仰を貫いていたからです。その信仰は、すさまじく強いものでした。
★ダビデは、「咎」も「罪」も神様の前に原因となっていると思われる全てを告白し、悔い改めました。(18節) それに対して、ダビデの敵はそのようなことは無駄だと罵りました。しかしダビデは「私を見捨てず、遠く離れず、主よ、私の救いよ」(21~22節)と祈っています。
★ダビデは「私の罪と咎の結果、この病気がもたらされた」と思って、罪を悔い改めて祈りました。この病気が罪咎の結果であったかどうかは分かりません。たとえそうであったとしても、「イエスは・・・御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直され」(マタイ4:2)るために来てくださったと記されているからです。イエス様は、病であっても悩みであっても、どんなことであっても、私達を救うために来て下さったのです。私達も状況はどうであっても、ダビデのように神様の救いを信じて祈り求める人となりましょう。
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