9月18日礼拝「誤解されて心が痛む時」

詩篇NO26「誤解されて心が痛む時」26篇1~12節

                        仁井田義政牧師

 この詩は、ダビデが人から誤解された時の祈りです。私達も生きていく中で、誤解されて苦しむ時があります。詩人は誤解されて、それを解くための反論も出来ずに苦しんでいます。私達は人から誤解された時、どうすれば良いでしょうか。

★ダビデは、自分は神様の御前で潔白だという確信がありました。しかしそのことは相手には伝わらず、誤解されたままでした。ですから神様の弁護を求めて祈っているのです。しかし詩人は「私は潔白だ」とどんなに思っても、人間ですから自分の知らない落ち度があるかも知れません。それゆえに「あなたの恵みが私の目の前にあり」(3節)と祈りました。つまり自分の正しさの限度をも、神様の御前に自覚しているのです。

★6~8節に出てくる「祭壇の回り」も「主の家」も、神様の幕屋のことです。現代で言うならば、教会のことです。悩んで家に閉じこもっていては、解決になりません。教会に来て、主を礼拝し、賛美し、主の御業を語ることが大切なのです。イエス様は、人々を愛し完全に正しいお方だったのに、誤解され極悪人として十字架につけられて殺されたのです。そのイエス様が、あなたの誤解されている心の痛みを、必ず理解してくださいます。

★9節の「血を流す」とは、暴力のことです。10節の「両手の放らつ」とは性的な罪のことです。また「右の手のわいろ」は言うまでもなく「賄賂」のことです。11節で、そのような怒りから来る罪の誘惑に身を委ねることなく「しかし私は誠実に歩みます」と告白しているのです。そのようにして12節で「私の足は平らな所に立っています」と、安全な安定した生活をしていることを証言しています。

礼拝において、イエス様が誤解され嘘の証言によって十字架に付けられたことを明かに見ることによって、その心の痛みも消えていくのです。

皆さん、人生においては誤解されたり、悪口を言われたりすることもあるでしょう。しかし、その時に腐るのではなく主に信頼して祈りましょう。その結果、ダビデが12節で「私は数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」と感謝にかえられたように、私達も人から誤解されることがあっても、主をほめたたえる生活を奪われないようにしましょう。

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