詩篇NO25「主よ。御名のために」25篇1~11節
仁井田義政牧師
今日の詩篇は、アルファベットの順に書かれています。つまりヘブル語の「アーレフ。ベート。ギメル」という順に作られているのです。作者自身はもとより、この詩篇を読む人々が、すぐに覚えやすく、繰り返し口ずさむことができるように作られたと考えられるのです。それだけに、重要な内容が込められた詩篇ということが出来ます。その内容は、この詩篇に多く出てくる「恥・罪・咎」という言葉に表わされています。その重大な問題を、どのように解決することが出来るかを、この詩篇は教えています。
★恥について。
アメリカ人ルース・ベネデクトは「菊と刀」という本の中で、日本の文化は「恥」の文化であると書いています。武士の世界では、人に切られるよりは切腹を。兵隊では、捕虜になって恥をかくよりは玉砕を美としたのです。この「恥」の文化は、人の目を気にすることです。それが多くの人を生きづらくしてしまっているのです。
★咎と罪について。
咎とは、人に対する悪い行為を指すと言われています。また罪は、神様に対しての不従順のことであると言われています。7節でダビデは「若い時の罪」のことを言っています。聖書では、「咎と罪」は区別されていないことが多いです。順序立てて言うならば、罪が咎を生むということが出来るでしょう。
★11節に「主よ。御名のために、私の罪をお許しください」と記されています。それは「御名によってだけ」と訳せる語です。罪や咎の代償となりうるものは、この世に存在しないのです。解決は、「御名によって」以外はないのです。それは使徒4章12節にも記されています。これが初代教会からの救いの真理なのです。
★恥、咎、罪を持ったまま、自分を騙し、人の目を騙し逃げ続けている人生には、平安がないのです。犯罪者が「逮捕されてほっとした」と言うことが多いのです。人が死ぬ時に一番心配になるのは、人生の罪の問題だと言われます。どんな罪もイエス様が許してくださると信じましょう。
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