9月4日礼拝「永遠の戸よ。上がれ」

詩篇NO24「永遠の戸よ。上がれ」24篇1~10節

                        仁井田義政牧師

 この詩篇は、ダビデがエブス人の地であったエルサレムを占領し、ダビデの町とした時のことです。そのエルサレムに神の箱を運び入れた時のことが第二サムエル記5~6章に記されています。その時ダビデは、嬉しさのあまり裸になって、喜び踊りながらエルサレムに入ったと記されています。当時、神の箱は神の臨在そのものでした。7節の「門よ、お前たちの頭をあげよ」は、まさにエルサレムの城壁の門なのです。

★ダビデは、「世界とその中に住む者は主のものである」という言葉で、それまでのイスラエル民族の神を世界の神として示しています。その世界の神を礼拝できる人は、「手がきよく、心が清らかな者」と4節に記されています。完全に「聖」人などいません。ですから「その人は、主から祝福を受け、救いの神から義を受ける」人であると記されているのです。

★7節に「門よ、お前たちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ」と記されています。イエス様のエルサレム入場の場面が思い浮かびます。しかしイスラエルは、イエス様をエルサレムから排除しました。それと同時に、黙示録3章20節にあるイエス様が私達の心の戸を叩いておられる様子を思い起こします。また、ヨハネ14章1~3節には、私達を天国に迎えるために、天に帰って行かれたイエス様のことも思い起こします。

★「永遠の戸」は「手が汚れ、心が清らかでない人」の為にも、「救いの神」の義によって、聖くされて入ることができるのです。イエス様は心の戸を叩いておられるのです。

★イエス様がエルサレムの門を入られた時、群衆はイエス様を取り囲んで「ホサナ・ホサナ=主よ、いま救ってください」と叫んで迎えました。しかしその群衆は、一週間もたたない内にイエス様を門の外に追い出し、十字架に付けてしまったのです。しかしイエス様は、三日目に復活されて、天国に向かわれました。それは、私達のために救いの扉を永遠に開けて下さるためでした。この救いの扉は、誰も閉じることができません。なぜならこの扉の開放を命じられたのは、「万軍の主」イエス様だからです。イエス様の救いを信じましょう。そして感謝の人生を歩き続けましょう。

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