7月24日礼拝「主はわが力なり」

詩篇NO18「主はわが力なり18篇1~8節

                        仁井田義政牧師 

 この詩は、表題に記されているように、ダビデが敵とサウル王に命を狙われていた時の歌であることが分かります。ダビデの生涯の前半は、毎日が戦いの日々でした。今、戦争下にあるウクライナの市民のように、毎日、死の危険に身をさらして生きなければならない状況でした。そのダビデの姿勢が

1節の「主はわが力」に記されています。

★ダビデは、困難な時にいつも「主を慕い」祈りました。「慕う」と言う言葉は、非常に強い言葉です。それは、通常、神様の強い愛を現わす「ラハーム」というヘブル語だからです。ダビデはその言葉を用いて、困難に遭って祈る自分の信仰の姿を「慕う」という語で現わしたのです。

★困難の中でダビデが祈ると、「神様がこうして下さった」という体験が与えられました。それは神様が巨大な巌のように、敵の矢から身を守る砦のように、あるいは盾となって守って下さったという体験です。つまりダビデは敵の攻撃により死を予感し、主に祈ったのです。

★その祈りは、「主を呼び求め」「叫んだ」というものでした。それは必死な祈りでした。ダビデは、「主はその宮で私の声を聞かれた」という体験をしました。ダビデは、その祈りに神様が「主は、天を押し曲げて降りて」救いに来られたと言っています。「天を押し曲げて」という意味は、どのようなことなのでしょうか。それは、絶対的聖であられる神様が、私の祈りにその常識を押し曲げて来て下さったということです。

★その究極的な神様の降臨は、イエスキリストによってはっきりと歴史の中に刻まれました。それは、地球歴史上最大の出来事でした。その為に歴史は二分されました。キリスト誕生以前BCと、キリスト誕生以後ADです。イエスキリストは、罪人を救うために天を押し曲げて人間の世界に誕生して下さったのです。そして私達を罪から救うために、ご自分の命さえ十字架の上で与えて下さったのです。それ程までに私達を愛して下さっている神様は、私達が助けを求め祈る時、その祈りを聞いて下さるのです。「それゆえ、主よ。私は国々の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌います。」とダビデは賛美しました。主は、主を信じて祈る人の祈りを聞いて下さいます。そのことを信じて祈りましょう。

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