10月31日礼拝「キリストにある成人」

コロサイ書講解(NO7)「キリストにある成人」1章26~29節

                          仁井田義政牧師

 今日の御言1章28節の中に「全ての人を、キリストにある成人として立たせるためである」と言う言葉があります。キリストにある成人とは、どのような人を言うのでしょうか。そのことを知って、私達はキリストにある成人つまり大人となりたいと思います。

★キリストにある大人になる第一は、「隠されていた奥義を知る」ことです。今日の御言に「この奥義は多くの世代にわたって隠されていた」と記されています。それは、神様が全ての人を救われるという真理のことです。ユダヤ人だけが神の民であると信じてきたユダヤ人には、その真理が隠されていたのです。またこの奥義は、異邦人にも隠されていました。あれはユダヤ教の神だと思っていたからです。異端のグノーシスにも、その奥義は隠されていました。救いに与るためには、深い知識が必要であると信じていたからです。

★キリストにある大人になる第二は、キリストの内在を信じることです。

パウロは、特別な人にキリストが宿るのではなく、信じる全ての人に宿るということを教えました。一般社会では、優れた人に真理が分かると考えられています。最近、反田恭平さん(27歳)がショパンピアノコンクールで、世界第二位になられたと大反響を呼びました。日本では、優勝者の名前が消えてしまっていますが、カナダのブルース・リュウさんでした。リュウさんには、ショパンの心が一番宿っていたということなのでしょう。しかしイエス様は、そのような特別な人にではなく、誰にでも宿って下さるのです。

★キリストにある大人になる第三は、キリストの力を信じることです。  パウロもまた「自分の内に力強く働くキリストの力」を体験しながら、労苦、奮闘しながら伝道してきたと記しています。自分はどのような者であっても、キリストが私の内に生きておられると信じて、どんな時にもキリストに祈る。その時キリストの御業が現れると信じる人です。

★今までの私の50年に亘るクリスチャン生活の中でも、私の中に生きておられるイエス様は、祈りに答えて数々の奇跡的な御業を行なって下さいました。私達も「力に満ちたイエス様が、私の内におられる」との信仰に立ち、キリストにある成人となろうではありませんか。

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10月24日礼拝「苦しみをも喜びとして」

コロサイ書講解(NO6)「苦しみをも喜びとして」1章24~25節

仁井田義政牧師

今日の御言の初めに、パウロは「私は、あなたがたの為に受ける苦しみを喜びとしています」と記しています。なぜパウロは「苦しみを喜びとしている」と言っているのでしょうか。「あなたがたの為に受ける」ということばに、今日の御言を解くカギがあります。

★今日の御言には「私」という言葉が3回出てきます。それから見て、これは自己紹介文と見ることができるでしょう。しかし自己紹介ならば、1章1節で既に終わっているはずです。どうして再度、自己紹介文が出てくるのでしょうか。それは、パウロがコロサイ教会を指導するのを嫌う人達がいたからです。それは、ユダヤ主義者やその他の人達です。

★「あなたがたの」とは、コロサイ人という異邦人のことです。「異邦人もユダヤ人と同じくキリストによって救われる」ということを見たのは、十二弟子のひとりペテロでした。その時のことが、使徒9:36-11:18に記されています。そこにはヨッバと言う町で、多くの異邦人がペテロを通してキリストを信じたことが記されています。しかし、本格的に異邦人救済の真理を示したのは、パウロでした。そのために捕えられて、いま獄中にいるのです。

★パウロはさらに「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言いました。十字架のキリストの苦しみに不足した部分があったというのでしょうか。そうではありません。救いに関する身代わりとしての十字架の苦しみは、完結して不足などひとつもないのです。しかし世界宣教のために、その使命に選ばれた使徒が痛み苦しみつつ伝道しているのです。これがキリストの苦しみの欠けたところで、キリストの体である教会が、痛み苦しみながら伝道している姿であると言うのです。

★パウロは、異邦人の救いが神の御心であると宣言したことによって、ユダヤ教徒やユダヤ主義的キリスト教徒達から迫害され、その人々からローマへの反逆者として訴えられ、今ローマの獄中で鎖に繋がれているのです。その苦しみは、私利私欲のためではありません。全ての民族の救いという神様の真理を広めた為の苦しみなのです。イエス様も「迫害される時、喜び踊りなさい」(マタイ5:10-12)と教えられました。私達も、キリストの為に、信仰の仲間達の為に、迫害されるようなことがあれば、キリストの為の苦しみと心得て、苦しみをも喜びとするクリスチャンになりましょう。

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10月17日礼拝「福音から離れてはならない」

コロサイ書講解(NO5)「福音から離れてはならない」1章21~23節

仁井田義政牧師

和歌山県のある川に架かっていた水道橋が劣化の為、崩落してしまいました。塩分や鳥の糞が長年にわたって少しずつ蝕み、ついに崩落してしまったのだろうといわれています。鉄で出来た建造物があんなにも簡単に崩れてしまう姿に驚きました。経年劣化は、信仰においても起こりうることです。まさにコロサイ教会のある人々には、そのことが起こっていました。パウロは今日の御言の中で、信仰の点検を促しています。

★コロサイの人は「神から離れていたのであり」とパウロは言っています。人間はなぜ死を恐れるのでしょうか。それは神様に裁かれるという共通の恐れがあるからです。そのことから見ても、全ての人間は漠然とではありますが神様を知っているのです。ですからパウロは、コロサイ人は「神から離れていたのであり」と言っているのです。

★神様は、そのような人間を旧約時代から心を痛め続けておられました。エレミヤ書には、神様の御告げとして「私は彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、私のはらわたは彼の為にわななき、私は彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と言う御言があります。その神様の愛は、変わらずコロサイ教会の信徒達にも注がれ、現代の私達にも注がれています。それは、イエス様の十字架の激しい苦しみとなって現わされました。神様に裁かれ捨てられる死の恐怖を意味しています。

★私達の身代わりとなられたイエス・キリストの十字架の救いこそ、唯一無二の救いであり、死を前にして生きる人間の唯一の希望です。パウロは「すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と記しました。パウロは、キリストを伝えたということで捕らえられ、明日にも処刑されるかも知れない獄中からこの手紙を書いています。それは福音が唯一の真理であるために、私は殺されても福音を伝えているという生活に裏打ちされた訴えなのです。

★初めに「信仰の劣化」と言うことを話しました。コロサイ教会のある人達は、すでに教えられた福音が不足しているかのように感じて、異端に心がひかれていたのです。信仰からそれると言うことは、神様の愛を叩き落とすことなのです。それを一生涯拒否続けるならば、神様の裁きが待っているのです。信仰の劣化に注意し、確信をもって信仰に立って行きましょう。

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10月3日礼拝「主に喜ばれる生活」

コロサイ書講解(NO3)「主に喜ばれる生活」1章9~14節

                           仁井田義政牧師

 今日の聖書箇所は、パウロのとりなしの祈りの部分です。そのとりなしの祈りの中から「主に喜ばれる生活」を学びましょう。

★パウロは「あなたがたの霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされるように」と記しました。この教会に差し迫っていた危機は、グノーシス主義という異端でした。グノーシスとは「キリスト教知識派」とでも訳した方が良い言葉です。その異端は、分かりやすく言うと「あなたがたの信じている教えは、そんな簡単なもので良いのですか」というものです。パウロは、そのような言葉に騙されないで「真の知識に満たされますように」と記しました。

★その異端の教えがコロサイ教会に影響を与えていると聞いてから、パウロはいつもとりなしの祈りをしていました。不安をかき立てるような異端の教えにより、不安になってふわふわした生活にならないようにと祈ったのです。主に御心にかなった歩みとは、毎日の生活のことです。その秘訣は「主に喜ばれる」ことを求める生活です。決して自分を喜ばせることではありません。主に喜ばれる生活がおろそかになる時、クリスチャンは誘惑に弱い存在になってしまいます。そして異端の思う壺になってしまうのです。

★「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して下さった」とパウロは記しました。暗やみとは何でしょうか。それは何も見えないことです。グノーシス主義の神秘体験の話などに不安になるのは、暗やみの圧制に取り込まれている証拠なのです。神様には、グノーシス等の到底及ばない権能と力「デュナミス」があることを忘れてはなりません。そのことを確信して生活することが、「光の中にある」(12節)クリスチャンの姿なのです。

圧制とはなんでしょうか。それは霊的な圧制のことです。私達はどんな中にあっても、「愛する御子の支配に移されている」ので、「喜びをもって神に感謝を捧げることが出来るのである。」と言っています。そのような強い生き方は必ず実を結ぶのです。主に喜ばれる生活とは、十字架によって救われているという教えに感謝して、力に満たされて生きることです。

私達は、教えられている真理に100%信頼し、喜びと感謝をもって生活しようではありませんか。

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9月26日礼拝「教会の勢い」

コロサイ書講解(NO2)「教会の勢い」1章3~8節

                          仁井田義政 牧師

 今日の御言は「信徒達の愛」です。パウロは、コロサイ教会信徒達の信仰の完成である「愛」を見て、「毎日、神に感謝している」と記しました。

★パウロは、「私達の主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」と言っています。この言葉は、父なる神だけを神とする異端的なキリスト教と、正しいキリスト教を区別しているのです。それは、「イエス様を人間の中の優れた方」とする教えと、または「イエス様だけが神」とする教えとも区別しているのです。正しい信仰とは、「三位一体の神」を信じる信仰だからです。

★三位一体の正しい信仰は、天に蓄えられている希望に私達の心を向けるのです。つまり私達の命は、この地上だけではないという希望です。死の向こうに、完全な命があるのです。それは、主でありイエスでありキリストであられる神の御子による、罪からの救いの完全性にあるのです。

★正しい信仰には力があります。それは御霊による愛が、正しい信仰を持つ人達に与えられるからです。正しい信仰を持つ人には、神の霊である聖霊が愛を注いでくださるのです。その愛は「アガペー」の愛であると記されています。泥水の瓶にも清い水を注ぎ続ければ、やがてきれいな水になります。ガラテヤ5章2節には、「御霊の実」が記されています。御霊の実は、第一に「愛」であることが記されています。その愛が、信徒達に満ちる時、教会は「世界中で実を結び広がり続ける」(コロサイ1章6節)のです。

★コロサイ地方には、哲学やユダヤ教を背景にした新しい装いをした異端が入って来ていました。パウロは「忠実な神の僕エパフラス」から聞いた御言こそ、正しい教えであることを伝えました。原語では(しもべ)は「奴隷」という意味です。奴隷は、主人の言葉以外は絶対に伝えないのです。それはコロサイの信徒達が、すでにエパフラスによって正しい教えを聞いているので、新しい教えなど必要ないということを言っているのです。

★私達も、新しい教えなど必要ありません。既に伝えられた正しい教えの上に立っているからです。その真理にしっかりと立ちましょう。そうする時、聖霊が私達に「愛」の心を与えて下さるのです。私達クリスチャンが、神を愛する心と人々を愛する心に満たされる時、それが教会の勢いとなるのです。愛に満たされて、愛の実践者となりましょう。

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9月19日礼拝「忠実な兄弟達へ」

コロサイ書講解(NO1)「忠実な兄弟達へ」1章1~2節

                           仁井田義政牧師

 いま私達は、パウロによる手紙が書かれた順番をたどって聖書を読み、神の言葉を聞いています。61年頃にピリピ書とコロサイ書が書かれました。この頃に、ようやく初めて「マルコによる福音書」が書かれています。このコロサイ人への手紙の内容は、異端に気をつけなさいというものです。それらのことを踏まえて、コロサイ書の学びへと入っていきましょう。

★コロサイの教会は、パウロが伝道した教会ではありません。行ったこともないと思われます。おそらく、パウロが神の僕と認めているエパフラスの開拓によって出来た教会でした。その教会にパウロが手紙を出す権利があるのでしょうか。パウロはそのことを「神の御心によるキリスト・イエスの僕」と自己紹介し、手紙を書く権利を表わしています。使徒とは「遣わされた者」の意であり、使命と指導権があることをそれとなく主張しているのです。

★パウロは、自分が伝えていないからその教会の信徒達の信仰水準が低いなどとは考えてはいませんでした。そのことは「コロサイにいる聖徒達へ」と挨拶文を書いていることから見ても明らかです。「聖徒」とは、選ばれたという意味です。さらに「キリストにある兄弟達へ」と記しました。それは「キリストの救いの中にある兄弟達へ」という意味です。

★さらにパウロは、「私達の父なる神から恵みと平安がありますように」と記しました。クリスチャンは唯一の神を信じています。しかしその神は、宇宙の法則や宇宙の生命などとは違うのです。愛に満ち溢れた「父なる神」なのです。私達を子として扱って下さり、ひとり子のキリストさえ惜しみなく私達の為に与えて下さったのです。パウロは「その愛に満ちた父なる神から、絶えず恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈って、挨拶文を終わっています。

★そのような素晴らしいキリストの救いと、それを信じている素晴らしい信仰のコロサイ教会の人々を惑わそうとして、巧妙な異端が入ってきていました。この時パウロはローマの獄中にあったのですが、コロサイ教会に近づきつつある異端の様子を聞いて、居てもたってもいられずにこの手紙を書いたのです。私達も決して異端に騙されないように、祈りの時を持ちましょう。

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9月12日礼拝「使徒パウロの祝祷」

ピリピ書講解(NO18)「使徒パウロの祝祷」4章21~23節

仁井田義政牧師

ピリピ人への講解メッセージも、今回をもって終わりとなります。ピリピの教会は、パウロが伝道したヨーロッパ最初の教会でした。その教会の信仰は、素晴らしいものでした。迫害と貧しさの中にあっても、しっかりとした信仰を持ち続けた教会でした。彼らの信仰をほめるパウロの言葉が溢れている手紙でした。今日の箇所は、手紙の終わりの挨拶と祝祷です。

★当時は、口述筆記が一般的でした。この手紙がパウロのものであることを証明する為に、最後にあたってパウロは自分でこの部分を書いたとみられます。またこの手紙は、教会の礼拝で朗読されるもので、個人に宛てたものではありません。

★パウロは、ピリピ教会の人々に「キリスト・イエスにある全ての聖徒達へ」と書きました。主にある者は「聖徒」なのです。それは選び分かたれたという意味が含まれる言葉です。またパウロは、「私と一緒にいる兄弟達がよろしくと言っています」とも記しました。パウロは、獄中でも孤独ではありませんでした。一緒にいる兄弟達が牢獄の内か外に居たのです。それは、ローマのクリスチャン達であろうと思われます。

★また「聖徒達とカイザルの家の人達がよろしくと言っています」とも記しました。カイザルの家の人とは、皇帝に仕える人達のことですから、ローマ人であることは明らかです。クリスチャンは何処に住んでいようと、どの様な民族であろうと、兄弟であり聖徒なのです。ですから世界を旅行して、どの国に行ってもクリスチャンのいる国であれば「ア―メン」と「ハレルヤ」で、心が通じ合うのです。

★パウロは、この手紙の最後においても祈っています。その中で「主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊とありますように」と祈りました。その中での「霊」は、クリスチャンの一番奥深いところを指しています。それは、心の底からキリストの恵みに満たされて生活されますようにとの祈りです。

★パウロは、この祝祷をもってペンを置きました。その祈りの内容は、現代のクリスチャンである私達にも充分に必要な内容です。私達も、全存在が関わる霊の深みにまで、キリストの恵みに満たされて生きましょう。

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9月5日礼拝「余りある霊的祝福」

ピリピ書講解(NO17)「余りある霊的祝福」4章14~20節

仁井田義政牧師

 今日の御言にも、パウロに送られた献金に対してのお礼の言葉が記されています。その喜びの中で、パウロは献金の霊的な意味を教えました。私達も今日の御言で、献金の霊的な意味をはっきりと知りたいと思います。

★ピリピの教会は、何度もパウロに献金を送ってくれていました。パウロが「そのような教会はひとつもなかった」と言う程でした。当時の教会は、迫害の真只中にあり、貧しかったのです。しかしピリピの教会は、貧しくても送り続けてくれたのです。

★パウロは、献金を欲しがっていると誤解されては困ると思いました。そこでパウロは、私の欲しいのは献金についての霊的な理解力であると記したのです。そのことをパウロは「収支」という商業用語を用いました。例えば果物の栽培農家は、実がなるとそれを売って、果物の世話や肥料にかかった金額を引いて決算をするのです。献金とは神様に捧げる行為で、神様が捧げた人達に捧げた献金より余りある霊的な祝福を与えて下さるのだと、献金の霊的な面を教えているのです。

★パウロは、献金は「神様への香ばしい香りである」と教えました。それは、旧約時代の祭壇の上で燃やして捧げた動物犠牲に起因します。それを新約では、献金として捧げるようになりました。家畜を屠る時には、献げる人は心に痛みを感じました。それが神様を愛することの証拠となり、神様が喜ばれる香ばしい香りとなったのだと記しました。それと同じように、献金も神様を礼拝することに関わる大切な霊的な意味があるのだと教えたのです。

★19節に「神は、ご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要の全てを満たして下さいます。」と記されています。これは聖書のことばであり、神様の約束です。聖書には一箇所だけ「わたしを試してみなさい」(マラキ3:10)と記されています。神様はそのように祝福を約束して下さっているのです。献金は強制ではありません。しかし霊的なことなのです。

皆さんがこの霊的な真理を理解して、献金を献げることが出来ますように。

そうすることによって、皆さんの信仰にまた経済に、豊かな祝福が与えられるのです。

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8月29日礼拝「主にある喜び」

ピリピ書講解(NO16)「主にある喜び」4章10~13節

仁井田義政牧師

今日の御言で、パウロはピリピの教会から届いた献金に感謝の言葉を記しています。そこに、当時の教会と信徒達の様子を見ることが出来ます。

今日の御言を解くカギとなるところは、10節の「私は主にあって非常に喜びました」です。

★ピリピの教会は、幾度も献金をしてパウロを助けました。しかしその献金が、一時途絶えたことがあったのです。おそらく教会に何かあったのでしょう。貧しい教会でした。その貧しさの中で献金をし続けて来てくれたのです。

★その教会から献金が届いたのです。パウロは、ピリピの教会から届いた献金に喜びました。ピリピ教会のエパフロデトが届けてくれたのです。「パウロがローマで獄中生活に入った」と知って、自分達も献金をして助けようとしたのだと思います。そのことによって、獄中生活のパウロの心が明るくなったのです。

★しかしパウロは、献金が届いたということだけで喜んだのではありません。それは、ピリピ教会の信徒達が主を愛して献金をしてくれたことに喜んだのです。主のためには獄中に入ることさえいとわない使徒パウロの窮乏を補うために捧げた献金だったからです。

★献金を捧げたピリピ教会の信徒達とパウロの上には、いつも主がおられるという信仰です。これがキリストにある交わりです。これがコイノニアなのです。遠くローマとピリピと言う距離的には離れていたとしても、キリストにある交わりには何の妨げもありません。ピリピ教会の信徒達の愛に満ちた心を知ったパウロは、獄中にあっても花が一面に咲いたように感じたのです。またこの感謝の手紙を受け取ったピリピの教会の信徒達も、迫害や極度の貧しさの中にあって、使徒パウロの喜びを感じて喜んだのです。

★私達も今、コロナの為に活動が制限され、不自由を強いられています。心が疲れ暗くなりがちな毎日です。ですから私達も「主にある」交わりを何よりも大切にし、祈り合い愛し合いましょう。

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8月22日礼拝「平和の神と共に生きる」

ピリピ書講解(NO15) 「平和の神と共に生きる」4章8~9節

仁井田義政牧師

 ピリピの教会は、当時の異教社会の中で小さな教会として存在していました。そこにはギリシャの神々を祀る神殿があり、ローマの神々を祀る神殿もありました。さらにはローマ皇帝を神として祀る神殿まであり、その他にもエジプトの神もシリアの神も、礼拝されていたのです。その中で教会は存続し、成長して行かなければなりませんでした。パウロは、その教会に遺言的な言葉として、今日の部分を書きました。

★今日の部分は、「最後に」という言葉で始まっています。この手紙の最後と言う意味もありますが、それと同時にパウロの遺言と言う人もいます。いずれにしてもここでの「最後に」は、これだけは絶対に知って欲しいということを伝える文言なのです。パウロが絶対に知って欲しいと思って記したことは、異教文化の中でどう生きるかということです。

★わかりやすく言うと、イエス様も「カイザルのものはカイザルに、神のものは神返しなさい」(マタイ22:21)と教えられました。ピリピの文化には、キリスト教が伝わってくる以前に良い文化もありました。「それを認めて生活しなさい」と勧めているのです。例えば倫理道徳です。モーセの十戒の後半には「父と母を敬え、嘘をつくな、盗むな」などがあります。それらは、ローマもギリシャもエジプトもシリアも共通します。

★しかしパウロは、世の中の良いものを認めて生きると同時に、私から聞いたことを実行しなさいと教えています。十戒の前半は「唯一の神を信じて生きる」ことであり。新約的には、キリストの十字架を信じて生きることです。私達の神は、平和の神なのです。いたずらに異教徒達や異文化を争いに引きずり込んではなりません。

★パウロはこの所で、もし遺言であるとすれば「異教徒となるべくいさかいを起こすな。異教徒の文化に生きている人にも、愛に満ちた人がおり、親切な人もいる。柔和な人もいれば、寛容な人もいる。そういう人の評判の良いことは尊敬しなさい」と言うのです。クリスチャンだから、何でも反対というような尖った心では、異教社会で教会もクリスチャン達も生きてはいけないのです。しかしそれは妥協して生きることとは違います。神は平和の神なのです。良いものは良いと認めて、争うことなく生きて行きましょう。

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