Monthly Archives: 1月 2019

1月27日礼拝メッセージ「味のある人」

(礼拝メッセージ)「味のある人」マルコ9章43~50節

                      仁井田義政牧師

 今日の御言の結論は、最後の「自分自身の内に塩気を保ち、互いに和合して暮らしなさい」(50節)の御言です。塩気を保って、クリスチャン同士が和やかに暮らすには、どうしたらよいでしょうか。

★自分の手が、足が、目が、自分の信仰の躓きとなるようなら切って捨てよとイエス様は言われました。私達の基本的欲望は大きく分けると、食欲・性欲・睡眠欲が上げられます。この人間の基本的欲求がくせ者で、自分自身の信仰を躓かせるものともなるのです。躓くとは真っ直ぐに歩けない、または倒れるという意味です。

★自分の信仰の妨げとなるなら「手も、足も、目も切り捨てよ」とは、厳しい言葉です。もちろん文字通りと言うよりも、それほどに注意しなさいという意味です。そして「両手、両足がそろったままでゲヘナに投げ込まれるよりもましだからです」と続きます。ゲヘナとはベンヒンノムの谷のことで、そこは生ごみが捨てられた場所で、いつも火がくすぶっていました。「彼らを食う蛆は尽きず、火は消えることがない」とは、そこから来ているのです。

★さらにイエス様は「自分自身の内に塩気を保ちなさい」と教えられました。塩には防腐作用があります。また塩気は味となります。私達は食べることが大好きです。みんなで美味しい料理を囲むと、和やかな交わりが生まれます。しかしその料理が塩気のない料理だったとしたらどうでしょう。決して和やかな交わりにはなりません。イエス様は「塩味のきいた、味のある人間となって、互いに和合して暮らしなさい」と教えられました。

★なぜ「和合して暮らしなさい」と教えられたのでしょうか。それは、弟子達が「誰が一番偉いか」と論じ合っていたからです。(34節)イエス様は子供を連れてこられて「この子供のようになりなさい」(36節)と教えられました。人間は自分を偉い者、絶対に正しい者とする時に、和合できないのです。そのような生き方は、神の教会の平和な交わりを壊してしまうのです。そして神様の「火」、つまり裁きがあるのです。

★イエス様は「火によって塩気を付けられるのです」と言われました。塩で味つけられた「味のある人」になりましょう。そうして愛に満ちた交わりのある教会になりましょう。

 

1画20日礼拝メッセージ「水一杯でも祝福がある」

(礼拝メッセージ)「水一杯でも祝福がある」マルコ9章38~42節

                      仁井田義政牧師

 私達が常識と考えていることでも、イエス様に全否定されることがあります。しかしイエス様の考えは、私達と比べものにならない程広いのです。今日の御言は、私達の教会がさらに拡大して強い教会になっていくために、大切な御言なのです。

★ヨハネは、イエス様から「雷の子」(マルコ3:17)という名を付けられた弟子です。彼は「先生の名を使って悪霊を追い出している人を、私達の仲間でないので止めさせました」とイエス様に報告しました。イエス様の名前を使っても従ってこない者は、当然イエス様もお怒りになられると思ったのです。この報告は、イエス様がエルサレムへと向かっている途上のことでした。その時弟子達は、「弟子達の中で誰が一番偉いのか」という論争をしていたのです。ヨハネは手柄として、イエス様に褒めてもらいたかったのでしょう。

★しかしイエス様は、「やめさせることはない」と言われました。イエス様は「私の名を使いながら、私達について来ないとしても、止めさせるほどのことではない」と言われたのです。それは、「私の名を使ったすぐ後に、私に反対することは出来ないからだ」ということです。ヨハネは「自分はイエス様に従っている」と思い込んで、偏狭な心になっていたのです。イエス様は、もっと「おおらかに」人々の救いを見ておられるのです。

★さらにイエス様は、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません」と言われました。イエス様は、そのように信仰のまだ不完全な者を批判し退けてはいけませんと教えられたのです。

教会は、信仰の弱い人を非難する所であってはなりません。その人を愛して、信仰を助けることが大切なのです。声を荒げて雷のように「従って来ないので止めさせました」と言っているヨハネが、実は一番わかっていなかったのです。しかしイエス様は、そのようなヨハネをも決して捨てはいません。40節で「私達に反対しないものは」と、ヨハネをイエス様の「私達」の中に入れて下さっておられるのです。

★私達の教会も、信仰の強い者も弱い者も、イエス様に「私達」と呼んでいただき、成長し大勢になって行きましょう。

 

(1月13日礼拝メッセージ)「弟子達は理解できなかった」

(礼拝メッセージ)「弟子達は理解できなかった」マルコ9章30~37節

                                                                      仁井田義政牧師

 クリスマスで中断していましたマルコによる福音書の講解メッセージを本日より再開します。2017年8月27日より開始されたマルコによる福音書講解メッセージは今回が47回目で、内容はイエス様の御生涯の終わりの部分に入っています。イエス様は、弟子達にご自分の十字架の死の意味を伝えました。

★イエス様は、今までと違っていました。今まで四千人、五千人と多くの人々を対象に福音を伝えてこられました。今は全く違いました。本拠地としていたガリラヤを通られたのに「人々に知られたくない」と、その人々に会うのを避けられたことが記されています。それは、これから十字架に向かうエルサレムへの道で、十字架の意味を弟子達に伝えるために、時間を取りたかったからだったと思われます。イエス様は、その旅路で幾度も十字架の真理を話されました。

★イエス様は既に8章31節で、弟子達にご自分の十字架の死の意味について話されました。そして今日の部分でも、十字架の意味を明確に話されているのに、弟子達は理解できませんでした。知恵の不足ではなく、明確に聞くのを「恐れていた」(32節)のです。弟子達にとって、自分の立身出世のためには、イエス様の死は都合が悪く、言ってほしくない「怖い」話だったのです。

★イエス様は「お座りになられて」、十二弟子達に話されたことが記されています。「お座りになる」とは、聖書時代の重大な教えをなさる時の正式な姿勢です。弟子達は「誰が一番偉いか」誰が十二人の中でリーダーなのかという話で盛り上がっていました。その弟子達にイエス様は「道を歩きながら何を話していたのか」と質問しましたが、弟子達は答えませんでした。

★イエス様は立ち上がられ、子供の手を引いて連れてきて、弟子達の真ん中に立たせました。そして、弟子達の間で自分を偉いと人に認めさせたい、権力を行使したいと思う者は、私の弟子としてふさわしくない、むしろこの一人の子供を私の名のゆえに受け入れる人こそ、私を受け入れるのです」と教えられました。弟子達にとって子供など何の価値もない小さな存在だったのです。弟子達に上に立ちたいと思うならば、価値のないと思われているものを大切にする者となれと教えられたのです。

★イエス様が十字架に向かわれる大切な道で、弟子達は立身出世の事ばかりに心を奪われていました。私達もイエス様の弟子です。それなのにイエス様の最も大切な教えが耳に入らないとしたらそれ以上悲しいことがあるでしょうか。私達は、聖書の中で一番聞きたくない言葉をしっかりと聞く年としましょう。

 

1月6日礼拝メッセージ「イエスから目を離さないで」

(礼拝メッセージ)「イエスから目を離さないで」ヘブル書12章1~3節

                                                                              仁井田義政牧師

 今日は、2019年の最初の主日礼拝です。改めてあけましておめでとうございます。今年の御言として、ヘブル書12章1~3節の御言を掲げさせていただきました。それはここに集う皆様が、今日の御言に立って素晴らしい一年間を過ごして頂きたいからです。今日の御言の真理に従えば、クリスチャンとして必ず素晴らしい人生を歩み、信仰の勝利者となることが出来ます。

★前の11章に旧約聖書中の信仰勝利者11人が記されています。それらの人々だけではありません。「多くの証人(マルテュスは殉教者とも訳せる)達が私達を取り巻いている」と聖書は記しています。しかもそれらの人々をはるかに超えて、私達の信仰の見本となられた御方は、イエス様です。

★しかし気を付けないと、私達は失敗に引きずり込まれることがあるのです。そうならないために「重荷と、罪を捨て」去ることが大切です。新共同訳と口語訳は、強い言葉「かなぐり捨てて」と記しています。それは身に着けていた物を乱暴に捨てるというような意味です。

★「信仰の創始者、完成者である、イエスから目を離さないように」との聖書の勧めは、あなたが元気でいる為の大切なことなのです。信仰の創始者は「指導者、あるいは見本」という意味です。イエス様のご生涯には、苦難がなかったわけではありません。罪に引きずり込もうとする誘惑がなかったわけではありません。しかしイエス様はそれらの苦難に勝利されました。誘惑の富や地位や名誉や人々の称賛に自分の人生を置かずに、信仰の勝利者の道を進まれたのです。

★イエス様は苦難の中にあっても、神様の御心を実行することを喜びとされました。イエス様にとって、神様の御心とは何でしょうか。それは、イエス様の御生涯にとって最も大切なことの人々を罪から救うという神様が決められた「十字架の死」だったのです。イエス様は恥も外聞もなく、ひたすら神様に喜ばれる道に生きることを望み、それを実践されたのです。それゆえに勝利者となり「神の御座の右に」着座されたのです。

★私達も、イエス様のように神様の喜ばれる道を最優先に2019年を歩き出しましょう。そうすればイエス様が私達を守り助けて下さいます。今年の最初の主日礼拝で「私は一切の罪をかなぐり捨てて、イエス様から目を離さないで進んで行きます。」と決心し、勝利者の道を歩き出しましょう。