Monthly Archives: 10月 2018

10月28日礼拝メッセージ 「叱られたペテロ」

(マルコNO43) 「叱られたペテロ」8章31~38節

仁井田義政牧師

   先週の聖書箇所でペテロは、イエス様に「あなたはキリストです」とはっきりと信仰告白をしました。ところが今日の御言では、ペテロがイエス様から激しく叱られたことが記されています。何故でしょう。その理由をお話ししましょう。

★先週の御言の中で、ペテロが「あなたはキリスト(救い主の意)です」と言った時、イエス様はすぐに「この事を誰にも言ってはならない」と言われました。それは、当時の人々が期待して待っていたキリスト像と変わらないものだったからです。その待望のキリスト像とは「地上の王」としてのキリストでした。しかしイエス様は、この世の王となるために来られたのではありません。

★イエス様は、正しいキリストについて話しておられます。それは、31節にあるように「多くの苦しみを受け・・殺され、三日目に甦る」というキリストでした。強いこの世の王としてキリストを待っていたペテロには、絶対に理解できなかったのです。

★イエス様が正しいキリストについて話し始められると、ペテロが「イエス様を脇にお連れしていさめ始めた」と言うのです。「いさめる」とは「叱る」ことです。つまりペテロは自分の考えを正当化して、イエス様を「先生、そんなことを言ってはいけません」と叱ったのです。ペテロがイエス様を「わきにお連れして」と記されていることから見ても明らかです。イエス様は、そのペテロを「下がれ、サタン」と激しい言葉で叱られました。

★そしてイエス様は群衆と弟子達を一緒に呼び寄せて、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て十字架を負い、私について来なさい」と言われました。そして「自分の命を優先する者は、自分の命を失い、捨てる者は得る」と言われました。それは自分の得することばかりを求める者は、本当の生きる目的を失うということです。

★自分勝手なキリスト像をイエス様に押し付けて、イエス様に叱られるクリスチャンになってはいけません。イエス様に本当のキリストを教えていただき、その本当のキリストを信じて「私について来なさい」(8:34)と招いておられるイエス様に、心から従いましょう。

10月21日礼拝メッセージ「あなたはキリストです」

(マルコNO42) 「あなたはキリストです」8章27~30節

                          仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達は、ガリラヤ湖周辺から徒歩で二日近くかかると思われるピリポ・カイザリヤという村に向かわれました。その地はイスラエルの国では最北に位置し、有名なヘルモン山のふもとにあります。湧き水と緑の豊かな地で、ヨルダン川の源流です。イエス様が弟子達とその地に行って「あなたがたは私を誰だと言いますか」と質問しました。あなたはこのイエス様の質問に何と答えますか。

★ピリポ・カイザリヤとは、皇帝の名前がついた皇帝の別荘地です。この地をヘロデ・ピリポが領主となって支配していました。皇帝にゴマをすって、皇帝を神とする神殿を建てたのです。もう一つ大きな神殿がありました。牧畜の神パンが祀られた神殿です。ヘロデは、政権維持の為に妥協し、そうしたのです。イエス様が弟子達をその地に連れて行って、「あなたがたは私を誰だと言いますか」と質問された意義は大きいと思います。

★まずイエス様は、「人々は私を誰と言っているか」と弟子たちに質問されました。すると「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます」と答えました。みな人間としては偉大な人物でした。しかし皆、人間だったのです。イエス様はさらに「では、あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と質問されました。

★ペテロは「あなたはキリストです」と答えました。それは「あなたは救い主です」と告白したことです。この告白は、マルコの福音書全体にとって頂点であると見ることが出来ます。イエス様はその言葉を聞かれ、その後ご自分の「受難と復活」のことを話され、十字架の待つエルサレムへと一気に南下して行かれたのです。

★今日、イエス様は私達にも「あなたがたは私を誰と言いますか」と聞かれています。私達の周りにも、当時のピリポ・カイザリヤの村のように多くの偶像の社寺があります。イエス様は、日本にいる私達にも「人々は私を誰と言っていますか。そしてあなたがたは私を誰と言いますか」と質問しておられます。私たちはその質問に答えなければなりません。私達は一同声をそろえて「あなたはキリストです」と告白しましょう。それが教会です。それが礼拝なのです。イエス様はその告白を喜んで下さいます。

10月14日礼拝メッセージ「イエス様がはっきり見える」

(マルコNO41)「イエス様がはっきり見える」8章22~26節

                          仁井田義政牧師

 聖書は、イエス様が行なわれた奇跡の記事で溢れています。今日の盲人の癒しを通して「あなたにはイエス様が見えますか」ということが伝えられています。見えていなければ「はっきりと見える人になりましょう」と語りかけられているのです。

★7章には、律法学者とパリサイ人のことが書かれていました。彼らは学者でしたが、イエス様が見えない人たちでした。そして7章24~30節には、「ツロの女性」のイエス様に対する信仰が記されています。ツロの女性には、イエス様が見えたのです。7章31~37節は、耳が聞こえるようになった人の記事です。8章1~21節は、イエス様の行なっていることが分からない弟子達の記事です。そして今日の御言には、イエス様の奇跡によって「見えるようになった盲人」のことが記されています。聖書は、私達にキリストの本当の姿を見ていますかと問いかけているのです。

★生まれたままの人間は、誰であっても霊的な目も耳も不自由で、本当のイエス様を見ることが出来ません。その声も聞こえないのです。今日の聖書の盲人のように、イエス様に手を取って導いて頂くことが大切なのです。パリサイ人や律法学者は、本当のイエス様が見えませんでした。イエス様が手を取って盲人と相対したように、私達も礼拝において御言を聞く時も、イエス様と真剣に相対して、イエス様の御業を受け入れなければなりません。

★今回のイエス様の奇跡は、二回に分けられています。二回目には「はっきりと見えるようになった」と記されています。第一回目に何が見えるようになったのでしょうか。まず目の前にいるイエス様が見えたのでしよう。次の奇跡では「全てのものがはっきり見えるようになった」のです。 

★人間は誰でも、イエス様をはっきり見えるようになるまでは、全てのこともはっきりと見えないのです。私達は、イエス様を見るまで私利私欲に目がくらみ、立身出世に目がくらんで、本当に大切にしなければならないものが見えないことが多いのです。政治家の忖度問題、大会社のデータ偽造、改ざん問題、スポーツ界のパワハラ、セクハラ。どれもこれも立身出世や、私利私欲に目が曇らせられて起こることなのです。イエス様に目を開いて頂かなければならないのです。いつもイエス様をはっきりと見ることの出来る人になりましょう。そうすれば全てが見える人になるのです。

 

10月7日礼拝メッセージ「パンがひとつしかない」

(マルコNO40) 「パンがひとつしかない8章14-21節 仁井田義政牧師

 イエス様と弟子達は、ガリラヤ湖上の舟の中にいました。ところが弟子たちがパンを持ってくるのを忘れてしまったのです。イエス様はその機会を用いて、大切なことを話されましたが、弟子達は「パンがひとつしかない」という現実に心が支配され、イエス様の話など心に入って来ませんでした。

★イエス様は「パリサイ人とヘロデのパン種に気を付けなさい」と言われました。パリサイ人とは、イエス様を試そうとして議論を仕掛け天からのしるしを求めた人達のことです(11節)。ヘロデは、ローマからイスラエルの支配権を委ねられた政治的権力者です。パン種は、イースト菌のことで「少量でもパン全体に影響を与える」働きをします。イエス様は、パリサイ人とヘロデの言葉がどんなに小さなことでも悪い影響を与えるので気をつけなさいと話されたのです。

★パンがないことを議論している弟子達には、イエス様の教えなどうわの空でした。なぜパンを忘れたのか。誰がその係だ。お前は自分の分しか持ってこなかったのか。等々の話が飛び交っていたのでしょう。「パンがひとつしかない」という問題で弟子達の心はいっぱいになり、イエス様の真理を聞く余裕がなかったのです。これは私達にも起こりうることです。それは信仰の危機なのです。

★ パリサイ人のパン種は、「偽善に気をつけよ」ということでした。ヘロデのパン種は、「政治的なこと」です。政治が悪ければ食卓を直撃するので、政治活動によって、良い世の中にしようとします。しかしそれを絶対的であるかのように思い込んでしまう危険性が潜んでいるのです。絶対ではないものを絶対的と思い込んでしまう、それが信仰の危機なのです。

★イエス様は「まだ、わからないのですか」と言われました。イエス様の一番そばにいる弟子達がまだ悟っていないのです。彼らは既に二度もパンの奇跡を見ていたのです。ですからパンに不足しても、イエス様が必ず守ってくださることを知るべきでした。今日の聖書は、耳の障害者と目の障害者の癒しに挟まれています。あなたがたは「目がありながら見えないのですか」「耳がありながら聞こえないのですか」(18節)とイエス様は皮肉を込めて嘆かれたのです。「政治も宗教も絶対ではありません。あなたと同じ舟に乗っている私こそ絶対なのです」と言われたのです。そのイエス様が私達と共におられ、守ってくださることを信じましょう。