Monthly Archives: 8月 2018

8月26日礼拝メッセージ「人を汚すもの」

(マルコNO36)「人を汚すもの」7章14節~23節

                        仁井田義政 牧師

 マルコ7章全体を通して語られているテーマは「汚れ」です。律法学者やパリサイ人は、イエス様の弟子達が「手を洗わなかった」と批判していながら、自分達はもっと大きな汚れと罪を神様の前に犯しているという偽善をイエス様に責められました。

★イエス様は、そこにいた弟子達とエルサレムから来た律法学者とパリサイ人に加えて群衆を呼び寄せられました。ここでの「呼ぶ」とは、大きな声を張り上げることです。群衆を呼んだのは、全ての人に知って欲しいことがあったからです。イエス様は「人の外側から入って人を汚すものなど何もない。人から出ていくものが人を汚すのである」と教えられました。

★弟子達は、イエス様のこの教えを聞いても理解できませんでした。イエス様は弟子達に「私の言うことを聞いて悟るようになりなさい」と話し「私の言葉で人間の言い伝えなどから解放されなさい」と話されました。それでも弟子達は理解できずに、群衆が去ってから「今の話はどんな意味ですか」とイエス様に質問しました。するとイエス様は、「あなたがたもそんなに鈍いのですか」と驚きました。

★理解しない弟子達に、イエス様は「体内に取り入れる食べ物は、人の体を害することがあっても、人の心まで汚すことはない。むしろ人の中から出て来る悪い考えが、人を汚すのである」と話されました。外側のことでなく、内側から出て行く汚れが人々に悪影響を与え、人々を不幸にするのですと教えられました。

★この汚れについての話は、弟子の一人が手を洗わないで食事をしたことに端を発したものです。自分の内にある汚れこそ、人々にまで悪影響を与え、その人を汚し駄目にしてしまうので、その事をしっかりと知って、聖い生活をするようにと教えられたのです。先週の御言と合わせて読むと、汚れは人の外から入るのではなく、内側から外に出て周りの人にまで影響を与えるのです。なぜ心の内側が汚れに満ちてしまうのでしょうか。イエス様は「神のことばを空文にしているからです」(7:13)と言われました。空文とは「無いものとしている」ことです。つまり聖書の御言を軽んじるところから、心が腐って来るのです。自分の汚れを人のせいにしてはいけません。私達は悪の影響を与える者ではなく、聖書の御言をしっかりと実践し、人々に良い影響を与える人となりましょう。

8月19日礼拝メッセージ「神のことばを無視している」

(マルコNO35)「神のことばを無視している」7章1節~13節

                        仁井田義政 牧師

  イエス様の所に遠いエルサレムから、「律法学者が来た」ことが記されています。この律法学者達は聖書の研究者としての第一人者であり、パリサイ人達は聖書の実践者としての第一人者です。その人達がエルサレムから来て、イエス様に「どうして、昔の人達の言い伝えに従って歩まないのか」と質問したのです。イエス様はその質問者の偽善を見抜かれました。

★律法学者は、自他共に認める御言を専門に学んだ人達でした。それに対してイエス様は学問もなく、また学問のない弟子達と一緒に、ガリラヤ地方で一万人以上の人々を集めて「神の言葉だ」と話しておられたのです。それをエルサレムで知った学者達は、大変な異端が起ったかも知れないと心配し、エルサレムから調査に来たのです。直ぐにイエス様の弟子達の中に、規律違反を見つけました。弟子の一人が手を洗わないで食事をしたのです。すると学者達は「なぜあなたの弟子達は汚れた手でパンを食べるのか」と質問しました。

★するとイエス様は、750年前の預言者イザヤの言葉を引用して「この民は口先だけ。心は遠く離れている。」(イザヤ29:13)と学者達の偽善的信仰を責められたのです。イエス様は1200年前の「父と母を敬え」(出20:12)の御言を引用し、これを破る者は死罪にされると記されているが守っているのか、と学者達に迫りました。それは「神様に献金したからもう養育費はありません」と両親に言って、年老いた両親の養育を放棄している、それが偽善だと言われたのです。

★うわべでは学者達は「神様の言葉に忠実であるかのように見せているけれども、実は神様の言葉を無視している」と言われたのです。一事が万事で「これと同じことを沢山している」とイエス様は言われました。イエス様は神の言葉を形ではなく実践するように教えられたのです。 

★私達はこの言葉を平気で聞いていてはいけません。自分はどうだろうかと問わなければならないのです。本当に神様の為に奉仕しているのだろうか、自分の名誉や称賛の為に行なっているのではないだろうか。もしそうであるなら、たとえ忙しく奉仕していたとしても神様からは遠く離れてしまっていることになります。自らを省み悔い改めて、信仰の軌道修正をしましょう。御言に自分を従わせましょう。御言に忠実に生きるクリスチャンになりましょう。

8月12日礼拝メッセージ「くまなく走り回って」

(マルコNO34) くまなく走り回って6章53~56節

                        仁井田義政 牧師

 今日の聖書の箇所は、あまりメッセージには取り上げられない所かもしれません。前の湖で起こった有名な話の付け足しくらいにしか話されないことが多い所です。実は私も前のメッセージの時に、この部分まで聖書朗読に含めてしまおうかどうか迷ったのです。しかしどうしても、そうしてはならないという思いの方が優ったのです。それはイエス様と弟子達がベツサイダという港に向かっていたのに、なぜゲネサレという港に着いたのかということが気になったからです。その観点から今日の聖書をじっくり読んでみると、今まで気が付かなかった御言に目が留まりました。それは名もなき人々が、他の人々を愛して走り回る姿でした。

★聖書の前の所では、向かっていた港が「ベツサイダ」であったことが記されています。しかし着いた港はゲネサレの地でした。私達の人生には、時として嵐のようなことが起こり、目指した所に行けないこともあるのです。その結果、予定にもなかったゲネサレに着くこともあるのです。着いた所は予想外でも、イエス様が一緒でした。時計で言うと12時の方向に行こうとしたのに、9時の方向に行ってしまったのです。しかし、そこにはイエス様の救いを必要としている人達が、イエス様と弟子達を待っていました。

★そこに着くと、人々は「イエス様だと知って」とあります。つまり人々は前にイエス様を見たか、聞いたかであったことがわかります。その中にはイエス様の癒しを体験した人か、家族の病を癒して頂いた人がいたのではないかと思われます。その人々が、イエス様の持っておられる癒しの力を他の人たちに体験させてあげようと考え「走り回った」のです。「病人を床に乗せて運んできた」とも記されています。大変なことだったと思います。

★その土地の人々は、村や町や部落も「くまなく走り回って」、イエス様の前に人々を運んできたと記されています。「せめてイエス様の衣にでも触らせていただけるようにと願った」のです。そうしてイエス様の力に期待する人々が集まった所では、すべての人が癒されたのです。

★「くまなく走り回って」イエス様の所に人々を連れて来る働きをする信仰に燃える人を必要としています。そのような人たちの奉仕によって、イエス様の力が教会に満ち溢れるのです。私たちもそのようになって、主の救いの御業を見させて頂きましょう。

8月5日礼拝メッセージ「向かい風」

(マルコNO33) 「向かい風」6章45~52節

                        仁井田義政 牧師

 イエス様は、弟子達を「強いて舟に乗り込ませ」ました。そしてご自分はその地に残り、群衆を解散させていました。「強いて」という言葉から、弟子達はイエス様と一緒にいたかったのだと思います。弟子たちは「強いて」乗り込まされた舟で嵐に遭い、命の危険にあうことになってしまったのです。イエス様は、なぜ「強いて」弟子達だけで舟を出させたのでしょう。

★弟子達は、夕方から午前3時まで向かい風で悩んでいました。約10時間も舟の上で、もまれ続けていたのです。イエス様は、弟子達の舟が波でもまれているのを山の上で祈りながら見ておられました。しかし弟子達からは、そのイエス様が見えませんでした。前の嵐の時(4:35)は、イエス様が眠っておられたとは言え、舟におられました。そのために弟子達は、眠っておられたイエス様を起こして頼れたのです。しかし今度は、イエス様が舟におられないのです。弟子達の困難な時に、イエス様がおられない状況でした。

★これは、弟子達へのイエス様による信仰のテストであったと見ても良いと思います。パンの奇跡も、ピリポへの信仰の抜き打ちテストであったとヨハネは6章6節に記しています。あと1~2年でイエス様は弟子達の目には見えなくなるのです。その中で弟子達は人生の嵐に遭うことがあるのです。主が見えない不安に陥る可能性があるのです。これは、私達の誰もが陥る不信仰という危険です。しかしイエス様は、私達から決して目を離してはおられません。闇の深い「夜中の3時頃」私たちの所に来て下さるのです。

★イエス様が弟子達の舟に近づいて来られた時、それを見た弟子達は「幽霊だ」と怯えました。イエス様が来られるはずがないと思い込んでいたからです。怯える者には、イエス様が救いに来られてもわからないのです。イエス様をさえ、自分に危害を加える者と思ってしまうのです。イエス様は、そこを「通り過ぎよう」とのおつもりであったと記されています。まさにテストです。そのテストの結果、弟子達は0点でした。 

★私達も、人生の向かい風を体験することがあります。そのような時に「イエス様は、私がこんなに苦しんでいるのに何もしてくれない、イエス様は私の苦しみの世界にはおられない」と思ってしまうのです。しかしクリスチャンは、苦難の時にこそ、信仰のテストであると知りましょう。その嵐の海で、湖の上を歩いて来られる異次元のイエス様を知るのです。