Monthly Archives: 6月 2018

6月24日礼拝メッセージ) 「二人の願い」

(礼拝メッセージ) 「二人の願い」マルコ5章21~43節

                        仁井田義政 牧師    

 今日は、長血の女性と会堂司ヤイロの娘の癒しという力あるイエス様のお働きをお話ししたいと思います。二人の祈りの違いと、二人の信仰の共通点とを聖書から見ていきましょう。

★イエス様は、カペナウムの会堂管理者ヤイロと既に何度か会っています。イエス様は、カペナウムの会堂で何度も教えられていますが、会堂管理者の許可がなければそのようなことは出来ません。ヤイロは既にイエス様に好意を持っていました。彼は何度かイエス様の奇跡も見ています。それでもまだヤイロの信仰は完全なものにはなっていませんでした。しかし死にかけている娘の病気が、ヤイロをイエス様へと導いたのでした。イエス様はヤイロの求めに応じて、死にかけているヤイロの娘のいる家に向かいました。

★ところが途中の道で、長血を患っている女性が、イエス様に後ろから触ったのです。イエス様は足を止め、女性を癒されました。この時、ヤイロはどんなに気をもんだことでしょう。私なら「イエス様、いま娘が死にそうなのです。この女性は後にしてください」と言うでしょう。

★イエス様が時間を取られている内に、娘死亡の知らせが届きました。長血の女性に時間を取られている間に死んでしまったのです。イエス様は、ヤイロに「恐れないでただ信じていなさい」と言われました。ヤイロの娘は十二歳で、将来のある子が死んだのです。ヤイロの家は、悲しみで混乱していました。しかしヤイロはイエス様の言葉を信じて、娘の死んだ部屋にイエス様を案内しました。そしてイエス様の「タリタクミ」という声を聞きました。それは「起きて歩け」という意味です。「タリタクミ」は、イエス様が話されたアラム語です。それを初代教会は大切に保存したのです。歴史的事実だからです。娘はその言葉によって起き上がりました。

★会堂管理者は、ユダヤ人の中でも人々から信頼されている人です。長血の女性は、人の前に出られない汚れた女性と見られていました。ヤイロは娘の為に祈り、長血の女性は自分の為に祈り求めました。イエス様への祈りは、その人がどのような立場であるとか、どのような状況にあるとかは関係ないのです。大切なのは、イエス様への信頼と信仰です。私達も、イエス様に強い信頼と信仰をもって、祈り求める人となりましょう。

6月17日礼拝メッセージ「小さなことにも忠実に」

(礼拝メッセージ)「小さなことにも忠実に」マタイ25章14~30節

                         楠 亜紀子師    

 今日は「小さなことにも忠実」というタイトルで御言をお分かちしたいと思います。

★今日の御言は、私たち信仰者がこの終末の世にあって、どのように備えなければいけないかということが書かれています。25章14節からは「忠実」であることの大切さが書かれています。ある主人が三人の僕それぞれにタラントを預けて旅に出かけました。タラントとは「才能」と言う意味ですが、五タラントを預かった僕は、すぐに行って商売をしてさらに五タラントをもうけました。この僕は、主人から何も指示されていないのにすぐに行って商売をしたのです。それではなぜ「すぐに行った」のでしょうか。それは、主人を喜ばせたいという思いからではないでしょうか。どうしたらご主人に喜んでもらえるだろうと考えて、預かったタラントを活用したのではないでしょうか。二タラントを預かった僕も、同じようにしました。それでは一タラント預かった僕は、どのようにしたでしょうか。この僕は主人を怖い人だと思い、預かったタラントを減らしては怒られるのではないかとの臆病な心から地中に隠しておきました。

★よほどたってから主人が旅から帰って来て、彼らと清算をしました。五タラントを預かった僕は、さらに五タラントもうけたことを報告すると、主人は良い忠実な僕だと喜んでくれました。二タラントを預かった僕も、同じようにほめられました。しかし、一タラント預かった僕は悪い怠け者の僕だと怒られ、持っていたタラントを取り上げられてしまいました。

★ここに出てくる主人とは神様のこと、僕とは私たちのことです。神様は私たち一人ひとりにタラントを預けて下さっています。そして私たちがそのタラントを活かすことを喜ばれます。私たちは神様から預かっているタラントを忠実に管理し、喜んで用いているでしょうか。また、神様に喜んでいただきたいと願っているでしょうか。私たちにもいつの日か神様に報告をする日が来ます。その時には、「よくやった、忠実な僕だ」と神様から喜んでいただけるように、小さなことにも忠実に歩みましょう。

6月10日礼拝メッセージ「二千頭の豚と一人の人間」

(礼拝メッセージ)「二千頭の豚と一人の人間」マルコ5章14~20節

                        仁井田義政 牧師  

 ゲラサの地で一人の人がイエス様によって救われました。しかし、めでたしめでたしとはいかなかったのです。イエス様はそのゲラサから追い出されるのです。二千頭の豚と一人の人間とどちらに価値があるかという問題が起こったのです。

★レギオンという汚れた霊がその人から出て行って、その人は正気に戻りました。レギオンとは、ローマの五千人からなる軍団のことです。彼は、ローマから彼の住んでいる町に進軍してくる五千人の軍隊を見たのかもしれません。そうならば、その軍隊によって残酷な殺りくが行われたのも見たかも知れません。異教の世界では、悪霊的なものが自分に乗り移ってしまったと言う間違った恐怖を信じやすいのです。日本における民間信仰の「狐憑き」等がその例です。また「厄年の厄払い」などもそうでしょう。

★今日の聖書には、一人の人が汚れた霊から解放されるために、二千頭の豚が犠牲になったと記されています。ここに、一人の人間と二千頭の豚の価値の問題が起こったと思われます。16-17節に、この人に起こったことや、豚のことなどを詳しく話すと、「この地方から離れてください」とイエス様に言ったことが記されています。乗り越えられない文化を乗り越え、嵐に遭いながら来て下さった救い主イエス様を、私欲の為に追い返したのです。

★汚れた霊から救われた人は、イエス様に「お供をしたい」と願いました。しかしイエス様は「家に帰り、自分の体験したことを家族に知らせなさい」と言われました。それで彼はゲラサの地にとどまり、自分の家族に伝道しました。その地方全体に、イエス様の救いを伝道したのです。私達も、救いを家族に伝えるのは、自分しかいないと考えるべきです。

★それにしても聖書は、見事に人間の陥りやすい罪について記しています。自分と関係がない一人の人間よりも、二千頭の豚の方が大切なのです。ちょうど一人の人間の命よりも、何十億もの利益をもたらすはずの原発の方に価値があるという論理です。そこに人間疎外が起こるのです。イエス様は二千頭の豚の価格よりも、一人の人を尊ばれる御方です。その御方が、私達を救って下さり、守って下さっているのです。そのイエス様の愛を心から感謝して毎日を生きましょう。私達もイエス様を愛しましょう。心からイエス様に感謝の祈りを捧げましょう。

6月3日礼拝「いったい私に何をしようと」

(礼拝メッセージ)「いったい私に何をしようと」マルコ5章1~13節

                         仁井田義政 牧師

 私達は、行きたくない所に行く時には、短い距離でも足取りが重くなったりします。ユダヤ人にとって、ゲラサの地は行きたくない所でした。汚れた人たちの住んでいる所と思っていたからです。しかしイエス様は、弟子達にそこに行こうと言われました。途中で嵐に遭い、死ぬ目にあいました。「だから来たくなかった」と思ったに違いありません。とうとうそこに着きました。そこで最悪なことに、裸で墓場に住む悪霊に憑かれた人と出会ったのです。

★現代人には「悪霊に憑かれた」という言葉は奇妙に聞こえます。悪霊なるものが目に見えないからです。しかし、ここには社会生活が出来ない人、孤独な人、神も自分も信じられない人の姿が現わされています。神の存在を知りながらも、自分との関わりを願わない人などの姿が記されているのです。

★墓場に住んでいる人がなぜ鎖で繋がれたのか。それは他人へ危害を加える生き方をしていたからです。また夜昼となく叫び続けるからです。周りの人へ気遣いが出来ないのです。また石で自分を傷つけるのは、自分を尊敬することが出来ない人の姿でもあります。こうして見ると、この聖書の記事は、一気に現代人の生活にリンクされ得ることがわかります。

★この人は、大声で「 私に何をしようとするのですか」と叫びました。「大声で」とは、彼が本当に言いたかったことを現わします。この叫びは、現代の日本人に多い言葉です。それは「私は私。あなたはあなたでしょ。私に構わないで、今のままで良いのです」との姿勢を現わしています。これが悪霊の正体だと聖書は言っています。

★イエス様の質問に「私の名はレギオンです」と答えました。ラテン語つまりローマ語で、5000人~6000人からなる陸軍のことなのです。自分の生き方を変えられない程の力に捕らえられている姿です。しかしついに彼は、イエス様の力で解放されました。悪霊は二千頭の汚れた豚の中に入って、その人の中から消え去ったというメッセージなのです。 

★イエス様がこの一人を救ったからと言ってどれ程の手柄になるでしょう。しかしイエス様は、誰も関わりたくないゲラサ人の所に来て下さいました。イエス様はそうしてあなたの所にも来て下さったのです。イエス様はあなたが大切なのです。心を開いてそのイエス様の愛を信じて受け入れましょう。