Monthly Archives: 5月 2018

5月27日ペンテコステ礼拝「突然と計画」

(ペンテコステ礼拝)  「突然と計画」使徒2章1~13節

仁井田義政 牧師

 先週が聖霊降臨の日でしたが、タンザニアのアレックス神父が来て下さり、また午後には弓野綾姉のタンザニアでの医療奉仕報告が行なわれましたので、ペンテコステメッセージを今日に変更させていただきました。聖書は聖霊が120名の人達に「突然」注がれたと記されています。

★弟子達にとって聖霊が注がれたのはまさに「突然」のように見えますが、神様にとっては深い御計画に基づくペンテコステの日でした。神の御業は全て突然に見えるものです。天地創造もイエス様の誕生もそうでした。また十字架も復活もそうだったのです。しかし天地創造も「初めに神が」と創世記1章1節にあるとおり偶然ではなかったのです。

★イエス様が復活されて弟子達に現れると、失っていた希望が燃え上がりました。そして「主よ、今こそイスラエルの国を再興してくださるのですか」(1章6節)と尋ねました。しかしそれは間違った希望でした。弟子達が正しい希望を持つのは、聖霊に満たされた時でした。聖霊のバプテスマによって、人間的な希望や考えが変えられるのです。教会は正しい目的を持たなければなりません。「聖霊が臨まれる時・・力を受けて・・・わたしの証人となります」と記されています。証言しない証言者はいないはずです。ですから聖霊によって、勇気と力が与えられる必要があるのです。

★創世記には、人間の分裂がどのようにして起こったか記されています。バベルの塔事件です。その結果、言葉の通じる民族同士が集団化し、あるいは分裂に分裂を重ねたのです。しかしペンテコステの聖霊によって、同じ主の証言者となり、同じ目的でひとつになったのです。それだけではありません。聖霊は、世代間のギャップを乗り越えさせ、教会をひとつにするのです。  

★人間の側には突然に見えることも、神様の側には突然などと言うことはありません。イエス様は、「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして・・・地の果てにまでわたしの証人となります」と言われました。聖霊の力を受けると、教会に大収穫が起こるという約束の言葉です。その約束を信じて、聖霊の充満を求めて祈りましょう。

 

5月20日礼拝メッセージ「地の塩、世の光」マタイ5章13~16節

(礼拝メッセージ)地の塩、世の光マタイ5章13~16節

  特別講師 (タンザニヤ タボラ大司教区) アレックス・ンドワヨ 神父

 古代の聖書世界では、塩は高価なものでした。塩は食べ物に風味をつけ、また重要な保存料として用いられました。また、塩は人に渇きを覚えさせるものでもあります。イエス様は弟子たちがその教えを伝えることによって塩のように、世に豊かな風味をもたらし、イエス様が明かした真実を保ち続け、世界が真実を渇き求めることを望んでおられました。旧約聖書ではまた、塩の契約についても語られています。塩の契約が意味するものは永遠に続く関係性です。

★マルコは福音書の中で「塩に塩けがなくなる」という例えを用いました。イエス様の時代は、塩は私たちの知るように精製されるのではなく、死海のほとりで、塩分を含む湖の水が蒸発したあとの堆積物から採取して使っていました。この塩は分解されて塩けをなくすことがありました。このようなもろい塩は、イエスに従う者としての行いが、適切に教えを正しく活かし続けようと心がけなければ、クリスチャンとしての行いが、時とともに力を失いかねないということを示す良いたとえになります。味気のないものに風味を与え、悪くなってしまうものを保ち、神との完全な契約と誠実に神に従う心を表す。それこそがイエス様に従う者の姿なのです。

★この地上というかまどの中で塩の役割を果たすとは、そのかまどの火をあなたの中にもやし、周りのものに愛の火をともすこと、そしてその光を明るいままに燃やし続けるということです。私たちがキリストに従う者としてこれを行えば、私たちもまた、「世の光」となります。ここに、私たちは、塩と光という二つのイメージが見事に重なるのを見るのです。

★私たちは世の中で、多くの不公平、冷たい戦争、自己中心性、困難の中にある人への無関心さを目にします。私たちは、平和をもたらし、世界中で互いに愛し合い、犠牲を払い、自分を後回しにし、協力し合い、深く理解しあうように、神様から求められています。この求めは、イエス様の祈りの中に見出される一致の心と深く繋がっています。一つになることによって、私たちは互いに愛しあうようになります。愛することなしに、光となることはできません。一つになること、それは神を知り、愛するために必要なことです。イエス様は世の光です。イエス様に従うことで、私たちも世の光となることができるのです。

5月13日 母の日「マリヤと理想的なお母さん」

母の日「マリヤと理想的なお母さん」エペソ6章1~3節 ルカ1章35節

                         仁井田義政 牧師

 いつも母の日には「お母さんに感謝しましょう」と、子供たちへメッセージが伝えられます。しかし今日は「子供たちに尊敬されるお母さんとは、どういうお母さんなのかを聖書から学びましょう。

★ マリヤはイエス様を身ごもった時、神様から「おめでとう」と言われました。子供に尊敬される母親は、神様から「おめでとう」と言われる母親でなければなりません。自分で産んだ子供でも神様からの預かりものなのです。ですから子供達から「お母さんありがとう」と言われる以前に、神様から「おめでとう」と言われる母親でなければなりません。

★子供たちからも尊敬される母親は、聖霊に満たされた母親です。マリヤには、財産も地位も学歴もありませんでした。しかし尊敬される母親になる為に聖霊に満たされていました。また聖霊の影響を自分だけでなく、人にも与える人でした。聖霊に満ちたマリヤを迎えたエリサベツも、聖霊に満たされたのです。あなたは何に満ちていますか。ご主人への不平・不満・小言・家計が苦しい・子供たちが言うことを聞かないと言ってイライラの毎日。それでは尊敬されません。聖霊に満たされましょう。

★子供たちに尊敬される母親は、御言を信じて感謝の祈りをする人です。マリヤは、聖書の御言を信じ切った人でした。マリヤの讃歌と言われる言葉は、旧約聖書の詩篇からのものなのです。マリヤは聖書を愛する人でした。そしてマリヤは「自分がどんなに幸せ者か」を神様に感謝する人でした (48~49節)。マリヤは「自分に与えられた幸せは、代々にわたって人々にも与えられる」と信じる人でもありました。

★「私はマリヤのようなお母さんになるのは無理です」という人がいるかもしれません。実はマリヤもそのひとりだったのです。「どうしてそのような事になりえましょう」(34節)と言っています。どのようにして可能なのでしょう。それは、今日の御言です。第一に聖霊に満たされることです。第二は聖書の御言を信じ切ることです。第三は神様に感謝することです。第四は人々の幸せの為に祈ることです。これはお母さんたちだけに限るのではありません。お父さんたちにも同じく適用されます。そのように生き始める時、私達は子供たちから「ありがとう」と尊敬される人となるのです。子供たちから「お母さんありがとう」と言われるお母さんになりましょう。

5月6日礼拝メッセージ「どうして怖がるのか」

(礼拝メッセージ)マルコNO25「どうして怖がるのか」4章35~41節

                      仁井田義政 牧師

 多くの人は、恐怖や恐れや心配事に取りつかれているように生きています。これら三つの事は、恐れの程度の差を現している言葉です。私達の悩みの全ては、何らかのかたちで命と結びついています。そしてイエス様は、恐怖や怖れや心配事をどのように解決したらよいかを教えておられます。

★聖書には、イエス様が風を叱って嵐を静められたと記されています。このところを読むと、50年以上も前に聖書を初めて読んだ時のことを思い出します。聖書を読んで感動したというならまだしも、幻滅してしまったのです。聖書には素晴らしい事ばかりが書かれていると思って読み始めた私は、うろたえました。しかしそれは聖書の文字は読んでいても、その真理を読んでいなかった結果の失望でした。

★イエス様は、この数時間前まで神の国の力について教えておられました。その後、弟子にガリラヤ湖の東岸ゲラサの地に行こうと言われました。それは他民族への伝道の為でした。すると渡航中に突然嵐が起こり、弟子達は命の危険を感じて恐怖に襲われました。ところがイエス様は舟尾の方で安心して眠っておられました。

★弟子達は、恐怖の為にパニック状態となりました。そうして眠っておられたイエス様に不満を感じ、嫌みを言ってしまうのです。イエス様が湖を叱りつけると嵐が止んでしまいました。そして「どうして、そんなに怖がるのか」と言われました。そうしてそのように恐れてしまうのは「信仰がないからです」と言われました。この信仰がないから怖がるという言葉は、一気に私達の実生活に入って来きます。

★私達の人生にも、突然予期しないことが起こります。まさに「突風」体験です。その突風が、ガンの告知や会社の倒産、あるいは家族の死であったりするのです。その時、私達人間は恐怖を感じます。そして恐怖は、最も身近かなものに攻撃となって向けられることがあります。配偶者に、親に子に、親戚に、友人に「私を何も理解してくれない」と怒りが向けられるのです。イエス様は、それを防ぐ方法はただ神様の守りを信じる信仰だと言っておられます。イエス様が一緒にいて下さる人生、なんという素晴らしい人生でしょう。たとえ嵐が吹く時があっても、イエス様が一緒の船に乗っていて下さるのです。怖がる必要などありません。平安に満たされて歩みましよう。