Monthly Archives: 3月 2018

3月25日受難週メッセージ「神の栄誉と人の栄誉」

(受難週メッセージ)「神の栄誉と人の栄誉」ヨハネ12章37~43節

                       仁井田義政 牧師

 受難週に入りました。使徒ヨハネは、受難週について7章もの紙面を使って記しています。三十三年間のイエス様の生涯を記す福音書の中で、実に三分の一を使っているのです。それ程にイエス様の受難に対する理解は、クリスチャンにとって重要なのです。私達の信仰が強いものになるかならないかは、イエス様の受難の理解にかかっていると言っても過言ではありません。今日の受難週の御言で、強い信仰のクリスチャンとなりましょう。

★日曜日にイエス様がエルサレムに入られた時、人々は大喜びで迎えました。死人からラザロを蘇らせたイエスが来られるのを知ったからです。(ヨハネ12:17)パリサイ派の人々は、群衆がイエス様を喜び迎えるのを見て「イエス殺害計画は失敗に終わった」と確信したのです。(12:19)

★イエス様が「私に従え、私は命をかけて支配国ローマを倒し、腐った宗教界の改革を行なう」と言えば、一気に群衆の心を掴むことが出来たのです。 しかしイエス様は「一粒の麦が死ななければ一粒のままです。もし死ねば多くの実を結ぶのです」等と群衆にとっては訳のわからないことを言うのです。ご自分の死の決意を「多くの人の為に死ななければならない」という言葉に、群衆の心は一瞬にしてイエス様から離れました。彼らにとって「死ぬ神の子」など考えたことも聞いたこともなかったのです。

★人々は、ラザロの甦りなど多くの奇跡にキリストへの信頼を強めたけれども、主の受難に関する話を聞いて信仰が終わったのです。しかし神の子の受難は、750年も前に預言したイザヤの預言の成就(12:40)でした。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:42)と聖書に記されています。何という軟弱な信仰でしょう。  

★皆さんは、強いクリスチャンになりたいと思いますか。その為には人から栄誉(称賛)を受けるよりも、神様からの栄誉を求める人にならなければなりません。イエス様は、人からの称賛を受けるよりは神様からの称賛を受けるため十字架を選ばれたのです。私達も人からの栄誉ではなく、神様からの栄誉を求めるクリスチャンになりましょう。そうする時に、あなたは強いクリスチャン、素晴らしいクリスチャンとなることが出来るのです。

3月18日礼拝メッセージ「神の国の奥義」

(礼拝メッセージ)マルコNO21神の国の奥義4章10~13節 

                         仁井田義政 牧師

 先週は「百倍の祝福」という題で、イエス様の「譬え」から話しました。一粒の麦が良い地に蒔かれると百倍の祝福となるという話です。譬えは、分かりにくいことを分かりやすくするための方法です。しかしその譬えを聞いた「人々と弟子達」が、それでも分からなかったというのです。悲しい限りです。何が分からないのかというと、11節に記されている「神の国の奥義」です。今日は「神の国の奥義」についてお話しいたしましょう。

★イエス様は、この譬えで何を教えられたかったのでしょうか。それは神の国の力です。イエス様は、この世には二つの力があることを教えておられます。実を結ばせない力と、実を結ばせる力です。実を結ばせない力は、種の一粒さえも失わせる力です。実を結ばせる力は、百倍の実を結ばせる力です。神の国とは、神様の支配力です。どうすれば神の力ある支配に入れるか、その奥義をイエス様は教えられたのです。

★神の国は「悔い改め」によって始まります。日本は「罪の悔い改めの弱い民族だ」と言われています。ですから日本の宗教も、みな罪の悔い改めをせずして「百倍の実を結ぶ」約束を、一足飛びに約束しようとするのです。そして日本人の多くは、家内安全、商売繁盛、病気の癒しだけに関心があり、日本の宗教はこぞってそれを約束するかたちをとっているのです。

★イエス様は「見るには見るが、聞くには聞くが、悔い改めて許されることがない」と言われました。イエス様の伝道の第一声が、「神の国は近くなった、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14-15)という言葉であったことを忘れてはなりません。それでは悔い改めとは、何を悔い改めるのでしょうか。それは、イエス様を信じなかった不信仰の罪です。その罪を悔い改めないでは信仰を全うすることは出来ません。また徹底した罪の悔い改めがなくては、神の力ある支配に入れないのです。

★ギリシャ語のムステリオンは、英語のミステリーの語源です。ミステリーとは隠されている真理のことです。なぜ隠されているのでしょうか。順序を踏まないとその真理に到達できないようにされているのです。人間が罪や欲望を持ったままで踏み込むことがないようにとの神様の知恵なのです。私達は、今までの信仰の姿勢を悔い改め立て直し、これからはイエス様を第一にしていきましょう。それが信仰の奥義なのです。そうする時、神様の祝福のもとで私達は百倍の実を結ぶ人となるのです。

3月11日礼拝 マルコNO20「百倍の祝福」

(礼拝メッセージ)マルコNO20「百倍の祝福」4章1~9節 

                         仁井田義政 牧師

 マルコの福音書の4章に入りましした。3章の終わりの所で、イエス様は「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟姉妹、また母なのです」と言われました。そして4章でイエス様は、その「神の御心に従う人」とはどのような人かを話されました。

★イエス様の何者をも恐れぬ物言いと、病気の癒しの奇跡の連続に狂喜して、多くの人々がイエス様のおられたガリラヤ湖岸辺に集まってきました。その人々の多さの為に、イエス様が浜辺にいるスペースさえなかったのです。人々は、この魅力的なイエス様について行こうとして集まって来たのです。しかしこの狂喜してイエス様に従おうとしている者達の多くが、ご自分を裏切る者になることを、イエス様は知っておられたのです。

★そして熱狂的にイエス様を求めてきた者達全てが、御心を行なう人となるのではないこともイエス様は知っておられました。イエス様は種まきの譬えを話されました。種をまく人はイエス様です。種はイエス様の真理の言葉です。土地は聞く人たちの心のことです。踏み固められた道に落ちた種は、エルサレムから来た律法学者達のようにイエス様に敵対する心で聞く人のことです。土の薄い岩地に落ちた種は、多くの頑張りのきかない心の人です。棘の根のある土地に落ちた種は、欲望の心を持ったまま従おうとした人のことです。

★イエス様は「 聞く耳のある者は聞きなさい」と譬えの最後で言われました。聞く耳のある心で聞くということが「良い地に落ちた種」で「百倍の実を結ぶ」と言われた人の心なのです。この譬えは神の国の例えです。来週お話しします4章11節を見て下さい。そこには「神の国の奥義が知らされているが」と、この譬えの後に弟子達にイエス様は話されています。神の国とは神の支配のことです。イエス様の支配を、現実の社会と生活において聞く耳を持って聞き実践する者は「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」と言われたのです。 

★イエス様の御言には、百倍の実を結ばせる力があります。聞く耳を持って聞き実践さえすれば、絶対に多くの実を結ぶのです。少なくとも三十倍、普通でも六十倍、多ければ百倍、それ以上の実を結ぶのです。イエス様の真理は、私達を豊かにします。イエス様は真剣に私達の心に種をまかれます。私達も、喜んでその種を良い心で受け止めようではありませんか。

 

3月4日礼拝 マルコNO19「神の家族」

(礼拝メッセージ)マルコNO19「神の家族」3章31~35節 

                         仁井田義政 牧師

 イエス様の活動は、あまりにも革新的でした。その結果ユダヤ教の当局者にとがめられ、「彼は悪霊につかれている」という噂を流されたのです。そのためイエス様の家族が、ナザレの村から連れ戻しにきました。そのことを知ってイエス様は、「神の家族」について重要な話をされました。

★イエス様の家族が連れ戻しに来た時、イエス様のおられた家には大勢の人達が「イエスを囲んで座って」いました。「座って聞く」ことは、当時の正式な聞く者の姿勢でした。しかしイエス様の家族は「外に立って」イエス様を自分の所に呼び寄せようとしていました。家に入って行こうとはしなかったのです。

★弟子のひとりが、「あなたのお母さんが、外に来ています」とイエス様に伝えました。当時の社会は、血のつながりが全てに優先しました。しかしイエス様は「私の母とは誰のことですか。また、私の兄弟とは誰のことですか」と答えられ、そして「群衆を見回して、神の御心を行なう人は、誰でも私の兄弟、私の母なのです」と言われたのです。この言葉は家族にとっても、聞いていた群衆にとっても、ショッキングな言葉でした。ですから、この言葉が聖書の中に残っているのです。

★それではイエス様は、家族を無視されたのでしょうか。そのようなことはありません。イエス様は十字架に着かれた時、その苦しみの中で五十歳くらいの母親を弟子のヨハネに託しています。ほかの兄弟も、イエス様が十字架に着かれ三日目に甦られた後、エルサレム教会の初代牧師となっています。「主の兄弟ヤコブ」がその人です。

★イエス様が「神の御心を行なう者が私の家族なのである」と言われた言葉の上に、教会は立っています。教会で男性を「兄弟」と言い、女性を「姉妹」呼ぶのは、神の家族だからです。今日は聖餐式があります。神の家族は、イエス様を中心に食事を共にするのです。欠けたことの多い群衆を見回し、「神の御心を行なうものは誰であっても、私の家族なのです」と言われたイエス様の言葉を噛みしめながら、神の家族の絆を確かめる聖餐式をうやうやしく頂こうではありませんか。私達は神の家族です。