Monthly Archives: 1月 2018

1月28日礼拝メッセージ 「イエス様の怒り」

(礼拝メッセージ)マルコNO15「イエス様の怒り」マルコ3章1~6節

                            仁井田義政 牧師

今日の御言には、ユダヤ人の会堂でイエス様が片手の萎えた人を癒されたことがもとで、パリサイ人とヘロデ党の人が、イエス殺害に団結する様子が記されています。そこに人間に対するイエス様の愛と、私達人間の持つ強情な罪が記されています。

★イエス様は安息日の度ごとに、礼拝の為に会堂に入られました。町には会堂があり、パリサイ人はそこでイエス様を待ち構えていたようです。「片手の萎えた人」が、その会堂の隅にうずくまっていました。パリサイ人は、イエス様の行動をじっと監視していました。それは、またイエス様が安息日の掟を破ってこの片手のなえた人を癒すのではないかと思ってのことでした。安息日違反の現場を押さえて、法的に処罰するためでした。

★片手のなえた人は、会堂の片隅にいました。当時このような病気の人は、神の罰を受けた人と言われ、軽んじられていたのです。イエス様は片手の萎えた人を会堂の中央に呼び出されました。礼拝において、このような人にこそ神様が恵みを与えたいと思っておられることを示す為でした。

★人々は、イエス様が律法を破ってその人を癒すかどうかを見ようとしていました。その人々にイエス様は、「安息日にして良いのは善か悪か」と問われました。しかし、彼らは「黙っていた」と聖書は記しています。その沈黙は人間のずるさを現わしています。「安息日にふさわしいのは善か悪か」という誰でもわかる真理の前にさえ、黙ってしまうのです。イエス様はそのような人間を見て、「嘆きながら」人を救うという正しい行ないを実行されるのでした。私達は、イエス様の前にそのような頑なさを持っていないでしょうか。

★イエス様は、安息日に片手の萎えた人を癒せばパリサイ人から命を狙われることを知っておられました。8時間くらい待って癒すなら、安息日が終わるので問題なかったのです。しかし差別され会堂の隅に追いやられている人も、神様に愛されている人であることをみんなに知って欲しかったのです。だからこそ「会堂の真ん中に」来るようにと言われたのです。しかし会衆は沈黙したのです。なんという人間の自己保身と強情さでしょうか。イエス様は、その強情さに怒りを感じられたのです。この日イエス様殺害を目的に「パリサイ人とヘロデ党は手を組んだ」ことが記されています。その強情さは、イエス様殺害を選択するのです。私達はイエス様の前に、強情と自己保身を捨て去りましょう。そして素直な心でイエス様をお迎え致しましょう。

 

1月21日礼拝メッセージ「疲れからの解放の日」

(礼拝メッセージ)マルコNO14「疲れからの解放の日」マルコ2章23~28節

                             仁井田義政 牧師

 安息日のことでした。イエス様とその弟子達が、麦畑のある道を通っている時に空腹を覚えて、ひとくち麦の穂を取って食べました。するとそれを見ていた律法学者・パリサイ人から「安息日破りである」と非難を受けました。するとイエス様はその非難に対し、安息日が何のためにあるのかを教え始められたのです。その教えは、私達の日曜日の礼拝にも関わる大切な教えです。

★空腹で安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子達の行為は、パリサイ人の目には許されない律法違反行為でした。当時、安息日には一日に歩く距離さえ決められており、その距離は800メートルまででした。さらには煮炊きまでも禁止されていました。律法が神様から与えられた本来の目的は、本人だけでなく奴隷や家畜まで、労働から解放し休ませる為でした。それが長い年月の間に、人々を束縛する戒律となってしまっていたのです。

★イエス様は、千年前にダビデが安息日に祭壇の供えのパンを食べた事(第一サムエル21章)を話し始められました。それは、王になる前のダビデがサウル王に命が狙われ、逃げ回っていた時のことでした。ダビデと家来たちが安息日に空腹になったため、祭司にお願いして聖なるパンを分けて頂き食べたのです。それを非難されることはありませんでした。王でなかったタビデがそうしたならば、真の王であるイエス様とその弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べたからといって、律法違反にはならないと言われたのです。

★さらにイエス様は「安息日は、人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。・・・人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27-28)と言われました。安息日にこそ、大いなる解放の御業を行なわれるのです。ですから私達は礼拝において、大いに主イエス様の解放の御業にあずかれるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)という御言は、マタイの福音書では、この麦の穂を摘んだ安息日論争の直前にあるのです。

★イエス様は安息日の主です。人間は肉体の休養と同時に心に休養が大切です。いや「たましいに安らぎ」(マタイ11:29)とあるように、心に休みがなければ本当の休養にはなりません。いつも礼拝に集って、安息日の主であるイエス様に、全ての重荷と苦労から解放して頂き、活力に満たされましょう。

 

1月14日礼拝メッセージ「喜びをいっぱいにする」

(礼拝メッセージ)マルコNO13喜びをいっぱいにするマルコ2章18~22節

                                                                                    仁井田義政 牧師

  今日から、マルコによる福音書の連続メッセージに戻ります。イエス様は人々と楽しく食事をしていたことで、パリサイ人や洗礼者ヨハネの弟子達に非難されました。その答えとして、あの有名な「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさい」という有名な話をされました。     

★パリサイ人達は、一週間に二度断食していました。月曜日と木曜日です。 バプテスマのヨハネの弟子達も、彼らの先生が蜂蜜とイナゴを食べて生きている人でしたから、当然のように断食もしていました。イエス様も決して断食を排除してはいません。イエス様の四十日の断食は有名です。

★それではイエス様は、断食をどのように考えておられたのでしょうか。イエス様は、断食を自分達の信仰の立場を誇示するために用いるべきではないと考えていました。私達は週に二回しているのに、あなたは何故しないとか言うのはもってのほかであり、すべき時に自由にするのが断食だと考えておられたのです。だからイエス様は断食そのものを否定しておられるのではなく「花婿が取り去られる時がくる。その時、彼らは断食する」と言われているように、どうしてもしなければならない時にすれば良いのです。

★イエス様は、食事に招かれると何処にでも喜んで行かれました。罪人の家にでも、パリサイ人の家にでも、喜んで行かれたのです。イエス様の食事の記事は数多くあります。十字架に付けられる最後の夜にも晩餐をもたれました。イエス様は復活後も、エマオの弟子の家で食事をし、ガリラヤ湖で弟子達の為に魚を焼き朝食の準備し、使徒の働き1章4節に記されているように「一緒にいるとき」(シュナリドメノス)も食事をしているのです。今も花婿なるイエス様が一緒におられるのです。修行的な断食や宗教的格付けの為の断食は、無用です。

★イエス様は、硬い顔よりもイエス様と一緒にいる喜びに爆発している顔を喜ばれます。旧約時代の考えのままに生きている人は、断食を好みます。イエス様は「花婿が自分達と一緒にいる時は、断食できないのです。」(19節)と言っておられます。今の時代は、花婿なるイエス様が私達と一緒にいて下さる時代なのです。「新しい葡萄酒は新しい革袋に」(22節)入れましょう。イエス様と一緒であることを喜び、その喜びで教会をいっぱいにしましょう。その喜びに満ちて、クリスチャン全員で今年の計画を立てましょう。

2018年1月18日礼拝メッセージ「霊に燃え主に仕えよ」

(礼拝メッセージ)「霊に燃え主に仕えよ」ロ-マ12章9~21節

                          仁井田義政 牧師

  新年第一回目の主日礼拝の朝を迎えました。牧師にとって、この第一回目の礼拝にどのような御言をお伝えするかは、非常に大切なことであると思っています。教会の中には、黙示録3章に出て来る「生ぬるい」教会もあるかもしれません。神様が望んでおられるのは、熱く燃える教会であり、熱く燃えるクリスチャンです。その神様の御心を、今年最初の礼拝の御言として、「霊に燃え主に仕えよ」という題でお話しいたします。

★今日の御言には「勤勉で怠らず」とあります。どの社会でも、勤勉さが成功の鍵であることは明らかです。学生は勉強に、社会人は仕事に勤勉さが求められます。勤勉とは、たゆまぬ努力のことです。「たゆまぬ」とは忍耐強い努力のことです。「よーし!今年こそやるぞ」と決意しても、私達は三日で終わることが多いのです。今日は7日ですから、もう終わっているかもしれません。御言が私達に勤勉であることを求めています。

★続いて「霊に燃え」とあります。人間は、努力や単なる決心で「勤勉で怠らず」という生活を続けられないことが多いのです。それで聖書は、「霊に燃え」と教えています。霊に燃えるとは、聖霊に心が燃やされ続けることです。聖書の中の「燃えた」という事件を拾ってみると、①出エジプト3章のモーセと消えない柴。②第1列王記18章のエリヤの祈りにより祭壇に下った火。③ ルカ24章32節のエマオの途上における弟子達の心に燃えた炎などがあります。聖霊に燃やされ続けるクリスチャンになりましょう。

★続いて「主に仕えなさい」とあります。主にお仕えするということは、クリスチャンにとって最高の幸せです。ところが主に仕えるということは、そう簡単ではないのです。まずお金に淡白(13節)にならなければなりません。敵をも愛する(14~20節)という自分との戦いもしなければなりません。悪に対して善で勝つ(21節)生き方をしなければならないのです。

★モーセもエリヤもエマオの弟子達も、あるいは使徒の働き2章に出て来る弟子達も、信仰が生ぬるくなった時に、神の火を体験して信仰の炎を熱く燃やしたのです。信仰のリバイバルです。単に「勤勉で怠らず」と言っているのではなく、「霊に燃え、主に仕えなさい」と言っているのです。「勤勉で怠らず霊に燃え、主に仕える」2018年、信仰の炎を燃やしましょう。

2018年 元旦礼拝「主の恵みの年を告げ知らせる」

元旦礼拝「主の恵みの年を告げ知らせる」ルカ4章14~21節

                         仁井田義政 牧師

 皆さん、あけましておめでとうございます。今年最初のメッセージとして、ルカの福音書4章14~21節の御言から、元旦のメッセージをお伝えいたします。

★イエス様は宣教を開始される前、40日間の祈りによって聖霊に満たされ、伝道を開始されました。その結果、ガリラヤ地方の会堂で教え「みなの人にあがめられた」と14節に記されています。その後、自分の故郷のナザレの村に帰り安息日にいつものように会堂へと入られました。

★イエス様は、会堂で聖書を朗読するために一抱えもあるイザヤ書を指名し、そのイザヤ書を会堂司が持ってきてイエス様に渡しました。イエス様はもちろん当時、章も節もないイザヤ書の61章1~2節を選んで朗読されたのです。そこは「聖霊が」「油が」と記されているところです。メシヤは油注がれた者の意であり、イエス様ご自身を指すところでした。そしてそこには「主の恵みの年を告げ知らせるために」と記されていました。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年は、50年ごとに来る一切の束縛から解放される時でした。イエス様は、解放を告げる為に来られたのです。

★旧約聖書に記されているヨベルの年は50年に一回でしたが、本当のヨベルの年は、油注がれた方であるイエス様の宣言で始まりました。それでイエス様が「今日あなたがたが聞いたとおりに実現しました」と宣言されたのです。ナザレの人々にとっても、イエス様の言葉を聞いたその日から、恵みの年であるヨベルの年が始まったのです。

★しかしイエス様から直接「恵みの年」始まりを聞いたナザレの人々は、そのことを受け入れずに、「イエスを町の外に追い出し、丘の崖ふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」(29節)と記されています。ナザレの人々は恵みの年の「福音」(18節)を聞きながら、受け入れなかったのです。

★2018年最初の日の元旦礼拝において、私達は聖霊満たされたイエス様が選ばれた聖書の御言を聞きました。今年もヨベルの年なのです。あなたを束縛している一切のことから解放する年なのです。それを信じるか、信じないか、イエス様を迎え入れるか、追い出すかはあなたにかかっているのです。追い出してしまうならば、2018年は何の変化もない一年になるでしょう。しかし受け入れ信じるならば、あなたにとって2018年は素晴らしい「恵みの年」となるのです。一年の始まりにイエス様の祝福を受け入れましょう。