Monthly Archives: 11月 2017

11月26日礼拝メッセージ「主との驚きの食卓」

(礼拝メッセージ)マルコNO12「主との驚きの食卓」2章13~17節

                       仁井田義政 牧師

 今日の聖書箇所は、イエス様と十二弟子の一人となったマタイとの出会いのところです。イエス様との出会いで、マタイの人生は全く変わりました。

★この時期のイエス様は人々に大人気で、どこに行っても群衆に取り囲まれてしまいました。他の所に移動しようとしても、群衆がイエス様について来てしまうのでした。街道の収税所には、人々が「ローマの手先」と言って嫌う取税人が座っていました。通行税と荷物に関税をかけるためでした。人々は収税人を無視したいのです。しかしイエス様は収税人を「ご覧になって」自分の方から声をかけられたのです。そのことは収税人マタイにとって、衝撃でした。「罪人」と言われていた自分に対しての声かけだったからです。

★その声かけは、「わたしについて来なさい」という招きの声でした。マタイは収税所を後にして、自分の家にイエス様を招待しました。その家は税益で建てた大きな家であったろうと思われます。「収税人や罪人と言われていた人達も大勢いた」と記されているからです。罪人とは、刑法上の犯罪者とは違います。律法を守れなかった人達のことです。この時代の人は、二種類に分類されていました。律法を守れる人と守れない人です。ユダヤ人でも律法を守れない人は、罪人であると考えられていました。特にパリサイ派の人々はそう考えていたのです。ですからこの時も、「なぜあの人は罪人たちと一緒に食事をするのですか」と非難したのです。

★その非難に対し、イエス様は「健康な人に医者はいらない。いるのは病人です。私が来たのも正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。これはパリサイ派の人々に対する皮肉です。彼らは、イエスがメシヤであるなら、律法を守る私達が招かれるのが当然と思っていたのです。しかしイエス様は、私は「自分は罪人だからイエス様をお招きし、信じるのにふさわしくない」と思っている人の為に来たのだと言われたのです。

★マタイの家の食卓で、主による素晴らしい人生の逆転が起こりました。あなたはどうされますか。パリサイ派の人々のように、イエス様の愛を知らずにそのまま人生を送りますか。それとも罪人や収税人のように、主と共に一緒の食卓に着き、最も親しい交わりに加えられて喜びの人生を始めますか。

イエス様を信じて、喜びの人生を生きる者になりましょう。

 

11月19日礼拝メッセージ「なぜ理屈を言っているのか」

(礼拝メッセージ)マルコNO11「なぜ理屈を言っているのか」2章6~11節

                       仁井田義政 牧師

 今日のメッセージの箇所は、ガリラヤのカペナウム町で起こったことの続きです。それは屋根を剥いで病人を吊り下ろしたという事件でした。そこにいた律法学者が、イエス様の言葉に疑問を持ちました。それはイエス様が「中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたからです。そのことになぜ疑問を持ったのでしょう。

★律法学者は、聖書を全部暗記しているような人達でした。彼らも、イエス様は病人を癒すだろうと期待していました。しかしイエス様は罪の悔い改めの話をし、罪の赦し宣言をされましたが、癒しを行なわなかったのです。彼らはイエス様の「罪の赦しの宣言」に躓きました。「神は人を用いて癒しはするだろうが、罪の赦しは神のみにしかできない。イエスは人間なのに思い上がって罪の赦しまで宣言した。許しがたい」と心の中で呟いたのです。イエス様は、その呟きを見抜かれました。

★イエス様が「罪の赦しの宣言」をされたからといって、この人の罪が病気にしたと言っているのではありません。全ての人が罪人なのです。ですから律法学者も私達も罪人なのです。本当は病よりも罪の方が深刻なのです。ですから屋根を破ってまでも入って来たその人に、イエス様は罪の赦しを宣言されたのです。

★律法学者達は、優れたマジシャンを見に来る人達のように、イエス様の奇跡を見に来たのです。しかしイエス様は、誰も見ることが出来ない「罪の赦し」を宣言されたのです。律法学者達は、「罪の赦しの宣言など律法に触れることを無視さえすれば誰にでも出来る。しかし癒しは見えるので嘘はつけない。だから癒しの方が難しい」と思ったのです。

★中風の人は、屋根を裂いてイエス様の所に来ました。イエス様は、この人や私達に会うために、天を裂いて来られたのです。「人の子」(ダニエル7:13-14)「永遠の主権者」のことです。まず罪を赦す力があるから病も癒すことが出来る。病を癒す力があるから罪を赦すことが出来るのではありません。そこを間違うと、同じようで全く違う信仰となってしまうのです。最高のイエス様の御力は、罪の赦しの中に示されます。それが最高の奇跡なのです。私達は律法学者達のように理屈を言う者とならず、イエス様の罪の赦しと救いを信じる者となりましょう。

11月12日礼拝メッセージ「神様の約束を信じて」

(礼拝メッセージ)「神様の約束を信じて」ヨシュア記6章1~5節

                         楠 亜紀子 師

今日は旧約聖書のヨシュア記からご一緒に御言を学びたいと思います。

★今日の御言の中にヨシュアという人物が出てきますが、ヨシュアは、40年間荒野でイスラエルの民を導いたモーセの後継者です。イスラエルの民は、神様が約束されていた地、乳と蜜が流れるカナンの地を目指して進んでいます。しかしカナンの地に入るのは簡単ではなく、それぞれの土地に住んでいる民を追い出し、その土地を攻め取りながら進んで行かなければなりません。今まではモーセが民を導いていましたが、モーセが亡くなった後はヨシュアが民を導きました。

 

★1節に「エリコはイスラエルの人の前に城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった」とあります。エリコの町はとても大きくて高い石の壁で囲まれているため、なかなか攻め落とすことが難しい城壁の町でした。人間の目で見るなら、その高い城壁を見ただけで攻めることを諦めてしまいたくなるような光景だったことでしょう。行く手にはまさしく「大きな壁」が立ちふさがっています。しかし2節には「主がエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した」とあります。神様はすでに勝利を約束されています。そして3節から書かれてありますように、神様には作戦があります。イスラエルの戦士たちは町の周囲をぐるりと一度回り、六日間同じことをします。六日間は何も起こりませんが、七日目には神様のご計画通りに堅固な城壁が崩れ落ちます。

 

★私たちも人生の歩みの中で、問題や悩みなどの大きな壁が目の前に立ちふさがることがあるかもしれません。しかしそのような時、私たちは諦めてはいけません。どのような大きな壁であっても、神様はその壁を打ち崩す方法を持っておられます。たとえ毎日何も変化がなく、いつになったらこの壁が崩れるのだろうと思うことがあっても、必ず「神様の時」「勝利の時」が来ます。イスラエルの民が目に見える変化は何も無くても黙々と六日間廻ったように、私たちも神様の時、勝利の時を信じて、日々の信仰生活をこつこつと積み上げ、主の言葉に忠実に従い、主と共に勇敢に歩みましょう。

 

11月5日礼拝メッセージ「激しき求道者」

(礼拝メッセージ)マルコNO10「激しき求道者」2章1~5節

仁井田義政 牧師

 イエス様が人の住んでいない寂しい荒野におられても、あらゆる所からイエス様を求めて人々が集まってきました。ひっそりとカペナウムの町に入り家におられても、それを知った人々がその家に集まり、満員電車の混雑のような状態になってしまったのです。そこで奇想天外なことが起こりました。その出来事とは、激しく道を求める人達のとった行動でした。

★イエス様のおられた家は、既に戸口まで人々がいっぱいになっていました。イエス様が「今日何時から集会を行ないますから是非いらしてください」と言われたわけではないのです。むしろ数日間寂しい所におられたので、人々から離れて休まれたかったのではと思われます。しかし群衆が押し寄せてきてしまったのです。そこでイエス様は、その人達に御言を話しておられました。それは「あの福音の御言」でした。(1章15節)

★そこへ四人の者達が、中風の人をベッドに寝かせて運んできました。しかしその家は、人々がいっぱいで入れません。そこで四人の者達は、諦めず屋根に登り、屋根を剥ぎ大きな穴をあけたのです。その家中に泥煙と土が落ちたことでしょう。イエス様の話は中断され、人々も怒りに満ちていたでしょう。非常識極まりない行為です。すると屋根に開いた穴から、ベッドに寝たままの中風の者が吊り下ろされたのです。

★人々は埃まみれにされ、その行動を責める目で見ていたことでしょう。イエス様も集会を滅茶苦茶にされたのです。しかし、イエス様の見る目は違っていました。イエス様は、彼らの行動の中に信仰の最高の姿を見たのです。そして「子よ、あなたの罪は許されました」と言われました。「子よ」と言う言葉は、当時弟子として認めた時だけに使われた言葉です。病気の癒しを求めたのに「あなたの罪は赦されました」とイエス様は言われました。人間にとって、罪が許されることが最高の救いなのです。

★神の国に入る為に、どんな邪魔者も排除して屋根に穴をあけ、イエス様の救いに突進して来た者が、今日の主人公なのです。既に家いっぱいになっている人達は、自由に行動できる人達でした。しかしイエス様は彼らにではなく、不自由な体で必死にイエス様を求めて来た人に「子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたのです。私達もこの人のように、激しくイエス様を求める人になろうではありませんか。