Monthly Archives: 10月 2017

10月29日礼拝メッセージ「主の心が激しく痛んだ」

(礼拝メッセージ)マルコNO9主の心が激しく痛んだ1章40~45節

仁井田義政 牧師

 今日の聖書の背景も、町の外の寂しい所です。しかしそこに町から追い出された人がいました。「重い皮膚病」に侵され人です。その人は「神からも人からも捨てられた人」と言われ、自分でもそう思って疑わない人でした。当時の人々は、この病気の人に触れられると汚れると思い、逃げました。そのような人とイエス様が出会ったのです。

★その人は「お心ひとつで私を清くしていただけます」とイエスの前にひざまずきました。その病にかかった人は、人前に出て来ること自体が許されない時代でした。病気を隠してそっと去るか、隠しきれなければ「私は、汚れた者です。私から離れて下さい」と叫ばなければなりませんでした。しかし彼はイエス様の前にひざまずきました。彼の「お心ひとつで・・」という言葉は、確信と謙虚さに満ちています。

★イエス様は「深くあわれんで」、「手を伸ばして彼に触って」、「私の心だ、清くなれ」と言われ癒されました。「深く憐れんで」は、内臓が痛むという意味の強い言葉です。それと当時に「激しく憤って」という意味もあります。憤りは怒りのことです。イエス様は誰に怒られたのでしょうか。病人にでしょうか。そうではありません。彼を人間社会から荒野に追い出してしまった者達に憤りを感じられたのです。彼に対して、人々は手を引っ込めたのです。そして病人も手を差し出せない状況にされてしまっていたのです。その彼にイエス様は「手を差し出して」触れられたのです。イエス様は病気に対する差別であれ、どんな差別であれ、憤られるのです。

★イエス様は彼に「祭司に重い皮膚病が治ったとだけ伝えよ。私の癒しを誰にも言ってはならない」と厳しく戒めました。病気の癒しの為にだけ祈る呪術者、シャーマンと受け取られることを嫌ったのです。「祭司に見せなさい」と言われたのは、癒しの証明は祭司だけが出せたからです。それは彼が社会復帰をするために必要なことでした。しかし彼は、イエスによる病の癒しを言い広めてしまいました。その結果、イエス様は町に入れなくなってしまったのです。

★イエス様は、その人の苦しみを見て、激しくあわれみの心を現され、その人に手を伸ばされたのです。イエス様は、私達の願いを「内臓が痛むほどに」心配して下さいます。そして救って下さいます。あなたを誰よりも愛して下さっているイエス様を信じる者になりましょう。

 

10月22日礼拝メッセージ「群衆を残して」1章35~39節

(礼拝メッセージ)マルコNO8「群衆を残して」1章35~39節

                       仁井田義政 牧師

 カペナウムの町でのイエス様の伝道は大成功でした。しかし、イエス様は朝早く祈り、弟子達を連れてその町を出て行ってしまわれたのです。それはキリストの不思議あり、奥義です。奥義はミステリーです。ミステリーであればこそ、聖霊によって見せて頂く以外に方法はないのです。そしてこの奥義を知ったならば、私達もそのように生きることが大切なのです。

★前日、カペナウムにあったペテロの姑の家に、多くの人々がキリストを求めて押し寄せて来ました。イエス様が伝道を開始してすぐの大成功です。病を癒すイエス様の名声がカペナウム中に広まりました。しかしイエス様は早朝の祈りの中で、その大成功にご自分の使命の危険を感じたのです。

★朝、弟子達はイエス様がおられないことに気付き「イエスを追って来て、彼をみつけ」(36-37節)と記されています。それは「懸命に後を追い、捜し歩いて見つけた」という意味なのです。弟子達は、昨日の祈り残された群衆が来ていることを伝え「みんながあなたを探しております」と言いますと、イエス様は「さあ、別の近くの村里へ行こう」と言われました。イエス様は明らかに「癒し」のみを求める群衆を嫌ったのです。

★イエス様は「さあ別の村里に行こう、そこにも福音を知らせよう。わたしはそのために出てきたのだから」(38節)と弟子達に言いました。福音とは何でしょうか。それは神様との関係を正しくすることです。その関係の為には「悔い改め」が必要なのです。イエス様は、人気を得て拍手喝采を受ける為に来られたのではないのです。福音を伝えるためです。イエス様はカペナウムの町の「癒し」のみを求める大群衆よりも、村里の少数の福音を求める人を選ばれたのです。

★誰でも派手なことに心引かれる部分があります。一人二人よりも大衆からの喝采を求める傾向があります。イエス様が早朝の祈りの中で、はっきりと決意されたこと、それはこのカペナウムの大衆を置き去りにすることでした。癒しのみを求めてはなりません。癒しのみを求める人をイエス様は置き去りにされます。神様の完成して下さった福音を信じ、神の国に入れて頂きましょう。そうすれば病も癒されるのです。イエス様は福音を伝える為に来られたのです。イエス様を正しく信じましょう。イエス様は群衆の拍手喝采よりも、あなたの正しい信仰を喜ばれるのです。

 

10月15日礼拝メッセージ「圧倒的な勝利者」

(礼拝メッセージ)「圧倒的な勝利者」ローマ8章35~39節

                          仁井田幸子師

  今日の御言は、私達がイエス様によって力強く生きることが出来ると約束しています。今日、この御言をもう一度しっかり受けとめましょう。

★聖書は、私達がクリスチャンになっても苦しみが無くなるとは言っていません。かえって様々な苦しみを「喜びなさい」(マタイ5:10~12)とさえ言っています。なぜでしょうか。それは、私達が苦しむことによってさらに神様の大きな愛と慰めを体験するようになるからです。(第二コリント1:4~5)   35節に「私達をキリストの愛から離すのはだれですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか」と七つ記されていますが、それは完全数で、あらゆること全てに於いて「圧倒的な勝利者」となると言うことです。

★この「勝利」という言葉は、最上級のギリシャ語で、日本語には訳しきれない強い意味のものです。「圧倒的な勝利」「輝かしい勝利」「完璧な勝利」「勝って余りある」等。このことから私達は、やっとの思いで勝利するのではなく、絶対的な勝利者となれることが分かります。そして揺るがない平安へと導かれるのです。ドイツの音楽家ベートーヴェンも苦しみの中から立ち上がり、素晴らしい数々の曲を作りました。小さい時から天才ピアニストとして育ち、成人する頃には有名なピアニストになっていました。ところが27才の頃、耳が聞こえなくなり、絶望して死も考えたと言います。しかしその苦しみの中から、たとえ耳が聞こえなくても作曲は出来るとの希望が与えられ、あの有名な交響曲第九番「喜びの歌」を作曲しました。絶望からの勝利です。

★では私達は、どのようにすれば、圧倒的な勝利者となれるのでしょうか。ひとつは、常に神様との個人的な交わりをもつことです。交わりがないと信頼が揺らぎます。順境の時も逆境の時もどんな時も、神様に語りかけそして御声を聞くことです。次に私達が御言に従い、忠実であることです。不誠実・不真実・不忠実であるならば、神様に対する心の責めが生じ、力強く生きることが出来ません。

★私達は、常に神様と交わりをもち、御言を信じ忠実な者になりましょう。そして圧倒的な勝利者となりましょう。「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5:5)

2018年10月8日礼拝メッセージ「会堂を出るとすぐに」

(礼拝メッセージ) マルコ NO7「会堂を出るとすぐに」1章29~34節

                        仁井田義政牧師

 

 当時、安息日には医者でさえも病人に手当てすることは許されませんでした。しかしイエス様は会堂で癒しの御業を行なわれました。そして同じ日に、会堂を出てすぐに弟子になったばかりのペテロの姑をも癒されました。

★イエス様は、会堂を出ると「すぐに」ペテロの奥さんの家に向かわれました。「すぐに」と言う言葉には、イエス様の計画性が感じられます。ペテロの姑から見れば、イエス様は娘の夫を漁師生活から奪い取り、娘の生活を不安に陥れた人なのです。イエス様は、ペテロの姑が熱を出して寝ていることを知っておられたと思われます。安息日なので、医者に診てもらうことも出来ずに伏していたのでしよう。イエス様は礼拝が終わると「すぐに」ペテロの姑の癒しの為に向かわれました。イエス様は、ご自分に従う者の家族をしっかりと心に留めておられるのです。

★イエス様は、またも安息日破りをされました。安息日の掟を破ってでも早く癒してあげたいとのイエス様の真心をペテロの姑は体験したのです。するとペテロの姑の熱は癒されました。癒されるとすぐに料理を作って、イエス様とお弟子達を「もてなし」ました。この「もてなした」と言う言葉は、日本語では訳しにくい「未完了過去形」が使われています。それは「もてなし続けた」となるのです。つまり、それから事あるごとにもてなし続けたのです。世界で最初にイエス様にお仕えした人は、弟子達や他の者ではなく、名も無きペテロの姑だったのです。

★人々は日が沈むのを待って、ペテロの姑の所に押し寄せてきました。日没で安息日は終わり、新しい一日が始まったからです。イエス様は「多くの病を癒し、多くの悪霊を追い出され」ました。イエス様の権威に逆らうことは出来なかったのです。

★皆さんが教会の礼拝に来られ、そして家に帰られる時、イエス様もあなたの家に一緒に帰られるのです。ペテロの姑が熱病で苦しんでいる時、律法破りと言われて自分の身に危険が及んでも解決して下さったように、イエス様はあなたの家族に対して強い愛を持っておられます。イエス様の強い癒しを信じましょう。皆さんが礼拝から帰られる時、イエス様も一緒に行って下さることを信じましょう。そして家族の救いを願いましょう。

 

2017年10月1日 礼拝メッセージ「イエス様の権威と力」

(礼拝メッセージ)マルコNO6「イエス様の権威と力」1章21~28節
仁井田義政牧師

 ガリラヤ湖の漁師4人を弟子にしたイエス様は、同じガリラヤのカペナウムの町に行かれました。そこにはユダヤ人達の会堂がありました。イエス様は安息日にそこに入って行かれ、そこで神様の御言を話し出されたのです。すると人々はその教えに驚きました。それは今まで聞いたことのない新しい教えだったからです。
★その新しい教えとは何だったのでしょうか。それまでの律法学者達の教えは「律法を守れない者は絶対に神の恵みに入れない。律法を守れ」と言うような教えでしたが、それとは真逆の「権威のある新しい教え」だったのです。
★シナゴークでの教えの内容を要約すれば、1章14~15節で言われた「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ」です。「時が満ちて、救い主の時代」が始まったのです。ですから「神の国は、誰でも悔い改めて信じるならば入れる近くに来た」のです。つまり悔い改めるならば、誰でも救われるという福音です。「自分は罪人で救われない」と思っている人々は、解決出来る教えを聞いたのです。
★するとイエス様の教えに汚れた霊が騒ぎ出し、イエス様の言葉に汚れた霊も出て行ったのです。イエス様が来られるまでは、汚れた悪霊「たち」は人の中に安心して住み込んでいたのです。共同訳聖書では、汚れた霊は「私達をかまわないでくれ」と言ったと記されています。それに対しイエス様は、「黙れ」と命じられました。それは「くつこをかけよ」の意味があります。「くつこ」とは馬の口につける籠のことです。
★イエス様の「権威ある力」を信じないで、自分は汚れた霊につかれているというクリスチャンがまれにいます。イエス様より汚れた霊の力が強いと信じていれば、汚れた霊はその人のうちに安心して住み続けるのです。しかし、この会堂にいた人のように、イエス様が会堂に来て下さって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた言葉を信じ始めた時に、汚れた霊はその人のうちに住むことが出来なくなるのです。
どのような人でもイエス様の言葉を信じて実践するならば、新しい人生を始めることが出来るのです。イエス様の言葉には権威があります。私達の人生を変えることの出来るイエス様の力を信じましょうラヤ湖の漁師4人を弟子にしたイエス様は、同じガリラヤのカペナウムの町に行かれました。そこにはユダヤ人達の会堂がありました。イエス様は安息日にそこに入って行かれ、そこで神様の御言を話し出されたのです。すると人々はその教えに驚きました。それは今まで聞いたことのない新しい教えだったからです。
★その新しい教えとは何だったのでしょうか。それまでの律法学者達の教えは「律法を守れない者は絶対に神の恵みに入れない。律法を守れ」と言うような教えでしたが、それとは真逆の「権威のある新しい教え」だったのです。
★シナゴークでの教えの内容を要約すれば、1章14~15節で言われた「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ」です。「時が満ちて、救い主の時代」が始まったのです。ですから「神の国は、誰でも悔い改めて信じるならば入れる近くに来た」のです。つまり悔い改めるならば、誰でも救われるという福音です。「自分は罪人で救われない」と思っている人々は、解決出来る教えを聞いたのです。
★するとイエス様の教えに汚れた霊が騒ぎ出し、イエス様の言葉に汚れた霊も出て行ったのです。イエス様が来られるまでは、汚れた悪霊「たち」は人の中に安心して住み込んでいたのです。共同訳聖書では、汚れた霊は「私達をかまわないでくれ」と言ったと記されています。それに対しイエス様は、「黙れ」と命じられました。それは「くつこをかけよ」の意味があります。「くつこ」とは馬の口につける籠のことです。
★イエス様の「権威ある力」を信じないで、自分は汚れた霊につかれているというクリスチャンがまれにいます。イエス様より汚れた霊の力が強いと信じていれば、汚れた霊はその人のうちに安心して住み続けるのです。しかし、この会堂にいた人のように、イエス様が会堂に来て下さって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた言葉を信じ始めた時に、汚れた霊はその人のうちに住むことが出来なくなるのです。
どのような人でもイエス様の言葉を信じて実践するならば、新しい人生を始めることが出来るのです。イエス様の言葉には権威があります。私達の人生を変えることの出来るイエス様の力を信じましょう。