Monthly Archives: 9月 2017

9月24日礼拝メッセージ「イエス様が呼んでおられる」

(礼拝メッセージ)マルコNO5「イエス様が呼んでおられる」1章16~20節

                          仁井田義政牧師

  今日の聖書の箇所は、イエス様がガリラヤに来られてから数日~数週間は経っていたと思われます。その間にもイエス様は、幾度か人々を前に「神の福音」を話されたでしょう。実はガリラヤの漁師達とは少なくとも一ヶ月ちょっと前に、洗礼者ヨハネの活動していた荒野でイエス様と会っています。おそらくガリラヤの漁師達はエルサレムの神殿に巡礼に行っていたのでしょう。洗礼者ヨハネがイエス様が自分の方に歩いてこられるのを見て「見よ神の子羊」と行った時「洗礼者ヨハネの弟子がそのイエス様についていった」と記されているのが漁師たちなのです。イエス様の泊まっておられるところについて行ってイエス様から直接話を聞いているのです。その事はヨハネの福音書1章35節以降に記されています。ですからペテロもヨハネもガリラヤ湖の岸辺で、夕方イエス様に声を掛けられる前にイエス様の事を知っていたのです。それで再度イエス様に声をかけられ、その声に4人の漁師たちが即座にイエス様の弟子となって、イエス様について行ったということになるのです。

★シモンの家は代々の漁師でした。宗教などとは程遠い生活をしていたのです。しかも彼らは「異邦人のガリラヤ」と差別された地域に住んでいました。当時、宗教家が名を挙げたければ首都エルサレムに行くのが常でした。しかしイエス様は、エルサレムからガリラヤに来られたのです。

★イエス様は御自分の弟子を選ぶにあたって、漁師に声をかけられました。当時の漁師は、何の学問もなかった人々です。そのような人々を自分の弟子にするために呼び掛ける宗教家などいなかったはずです。そのハンディを無視して、漁師に呼びかけられたイエス様に驚いたことでしょう。しかも能力が有るかどうかではなく、「私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。

★私達が、イエス様に用いられるかどうかは、イエス様の招きに従うかどうかだけなのです。シモン(ペテロ)とその兄弟アンデレは、イエス様の招きにすぐに従って弟子となりました。漁師という家業はどうなるのか等と心配せずに、一切を神様に委ねてイエス様の招きに従ったのです。他の漁師ヤコブとヨハネも同じでした。当時の宗教家の弟子達と比べれば、ガリラヤ湖に漂うゴミのように見えた者達が、イエス様の弟子として選ばれたのです。

★イエス様は、今も牧師や伝道者や宣教師になる人を求めておられます。また教会での奉仕者としても献身的に働く人を求めておられます。能力が有るかどうかではありません。「私に従ってきなさい」という言葉に従順に従うかどうかが大切なのです。イエス様が「私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたように、従う者にはその能力をも備えて下さるのです。牧師や伝道者に召される人も同じです。イエス様が人間をとる漁師にして下さるのです。イエス様にお仕えする人になる為に、今日はっきりと献身しましょう。

 

9月17日礼拝メッセージ「神の国が近づいた」

(礼拝メッセージ)マルコNO4「神の国が近づいた」1章14~15節

                       仁井田義政牧師

  イエス様はバプテスマのヨハネの殉教死を知ると、エルサレムからは遠いガリラヤ地方に帰られ「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)と宣教を開始されました。その宣教の内容が、この御言の中に完璧な形で記されています。

★洗礼者ヨハネがヘロデ・アンテパス王に殺されることになったのは、実の兄弟のフィリポの妻を奪って結婚していたからです。ヨハネはその罪を悔い改めるように王に迫って殺されたのです。ヨハネの死を知って、イエス様は宣教を開始されました。それも首都エルサレムではなく、北の外れ、ガリラヤ地方で開始されたのです。

★聖書を注意して読みますと、イエス様は「神の福音を宣べ」と記されています。福音とは喜ばしい知らせのことです。「王様に子が生まれた」とか、「王子様が結婚」したとか、それを民に知らせるのが福音と言われたのです。現代においても良い知らせはあります。希望の学校に合格、入社決定、結婚、病気の快気など。しかしイエス様が伝え始められたのは「神の福音」です。人間からのものではなく、神からの福音です。

★その福音の内容については、まず「時が満ちた」と言われました。ついにその時が来たのです。長い間待ち望んでいた人類の救い主が、時満ちて活動を開始されたのです。キリストの時代が始まったのです。次に「神の国は近くなった」と言われました。「神の国」とは、福音を信じる者が入れて頂ける神様の守りのことです。そこに入れるという知らせが来たけれども、そこに入るには私達人間のすべきことがあるのです。それは次に「悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様が言われたことです。悔い改めるとは、今まで神様を無視していた生活を悔い改めて、神様を礼拝する者となることです。 

★イエス様が、遠く離れた「異邦人のガリラヤ」と言われていた所から福音宣教を開始されたと言うことは、最も神様から遠い生き方をしていたあなたのそばにも神の国が近づいたと言う喜ばしい訪れ、福音なのです。あなたも、イエス様によってごくそばに神の国が近づいたことを知って、今までの神様を無視した生き方を悔い改めて、神の福音を信じましょう。

9月10日 礼拝メッセージ「荒野で生きる」

(礼拝メッセージ) マルコNO3「荒野で生きる」1章12~13節   仁井田義政牧師

 今日 の御言には、イエス様が荒野でどのように生きられたのかが記されています。荒野のような時代に生きる私達人間にとって大切な御言です。

★イエス様は洗礼の後すぐに「御霊によって荒野に追いやられた」と記されています。前節では、天が裂けて「私の愛する子」との祝福の御言を聞いたばかりなのです。その祝福された洗礼を受けてすぐに、荒野に追いやられたのです。決してサタンによってではありません。聖霊によってです。そこにはサタンがおり、イエス様の命を狙う獣がいたのです。「荒野」というギリシャ語は「捨てられた」と言う意味です。人が住むに適さない土地なので、人に捨てられた地が荒野なのです。

★荒野は、人の住みにくい所です。祈りの言葉さえ、空しく荒野の砂に消えて行く所です。野の獣がイエス様を食べようとして、イエス様が弱るのを待っているのです。またサタンは、信仰を捨ててもっと楽な道を歩めと誘惑してきます。しかしイエス様は、御言で誘惑を逆襲されたのです。

★イエス様には、荒野の中で「御使たちが仕えていた」と記されています。人に捨てられた荒野で、イエス様には御使いが仕えていました。私達の為にも、御使いは遣わされています。どんな荒野にいても、私達は一人ではありません。神様の強い守りに囲まれているのです。厳しい荒野で私達が生きるために必要なのは、「御言による信仰」です。御言を捨て、信仰を捨ててしまうならば、御使いも離れていってしまいます。サタンも獣も私達を襲って、信仰生命を断ってしまうでしょう。しかし御言を信じて告白する限り、神様の命令によって御使いが私達を守るのです。そして御言を信じていれば、悪魔は私達に何一つ手出しが出来ません。御言を信じているクリスチャンにとって、サタンなど全く恐れる必要がないのです。

★私達の世界では、40日間断食をされ荒野の中のイエス様のように、疲れ、飢え渇き、身体的に衰弱してしまっている人がいるかもしれません。そのような時、サタンはあなたを誘惑します。その誘惑にいち早く気付いて、御言によって退ける人となるならば、「荒野で生きる」力を身に着けた人となったのです。そのような人が信仰の勝利者となるのです。荒野の試練を体験されたイエス様は、あなたの苦しみを一番知っておられます。あなたもイエス様のように神様の御言を信じて、信仰による勝利者となりましょう。

9月3日礼拝メッセージ「裂けた天」

(礼拝メッセージ) マルコNO2「裂けた天」1章9~11節 

                         仁井田義政 牧師 

   先週から、マルコによる福音書の講解メッセージに入りました。洗礼者のヨハネが荒野に人々を導き、「救い主を迎えるために罪を悔い改めて準備するように」と叫んだのです。それは「荒野で叫ぶ者の声」でした。そこにナザレからイエス様が来られて、洗礼を受けられました。

★イエス様の母マリヤとバプテスマのヨハネの母エリサベツは、従妹でした。エリサベツの夫は祭司ザカリヤです。ザカリヤ夫婦に年老いてから与えられた子が、バプテスマのヨハネなのです。イエス様の母とヨハネの母が従妹同士であれば、当然バプテスマのヨハネとイエス様も従弟同士です。しかしヨハネは祭司の子で、イエス様はナザレの大工ヨセフの妻マリヤの子なのです。イエス様の出身地は異邦人のガリラヤと言われ、差別されていました。

★罪の悔い改めの洗礼が、バプテスマのヨハネの洗礼でした。しかし罪のないイエス様が洗礼を受けようとしておられるのです。ヨハネは躊躇し止めようとしましたが、イエス様は「そうさせてもらいたい」と言われたのです。 その時のイエス様の姿は普通の人の姿であり、罪を悔い改める洗礼を受ける人達の一人として列に並ばれたのです。イエス様は罪がなかったのに、私達人間の列に並び、私達の列の一人となって下さったのです。

★イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂け御霊が鳩のように下って来たと記されています。そして天から「これは私の愛する子」と声が聞こえたのです。それは御子イエス様への父なる神様の絶対なる信頼であり、信任の声です。イエス様の洗礼によって、四百年以上に亘る神様と人を隔てていた黒雲が裂けたことを現しています。つまり人間と天とがつながったのです。新しい時代が始まったのです。イエス様を初め、洗礼を受ける者達と神様とつながるようになったのです。そして天とつながった人達に聖霊が注がれるのです。さらにはつながった天から神様の声が聞こえる時代が始まったのです。 

★私達は、イエス様によって天が裂けて聖霊が下り、御言が聞こえる時代の中に生きているのです。しかもイエス様が、罪人である人間の列に加わって洗礼を受けて下さったことによって、神様がイエス様を「私の愛する子」と呼んでくださったのです。イエス様が人間側に立って洗礼を受けて下さったことによって、神様と人との間を覆っていた黒雲が裂けたのです。そのような時代に生きていることを信じ、神様に感謝しましょう。