Monthly Archives: 8月 2017

8月27日礼拝メッセージ「荒野に与えられた希望」

マルコNO1「荒野に与えられた希望」1章1~8節 

                         仁井田義政 牧師 

  先週でコリント第二の手紙講解メッセージは終了しました。今日からは、イエス様の生涯が記されているマルコによる福音書を連続してお話いたします。著者のマルコは、十二弟子ではありません。弟子のペテロの通訳をしていたようで、ペテロからイエス様のことを直接聞いて記したものと思われます。執筆年代は、西暦60年頃から70年の間に書かれたと言われています。そうだとすれば、キリスト教会がローマ皇帝ネロの迫害に苦しんでいた時代に当たります。そのローマで迫害にあっているローマ人クリスチャンの為に書かれた福音書なのです。

★1節の最後に『はじめ』と書かれていますが、原文では「アルケイ=はじめ」が、いちばん最初に書かれています。これは「福音書を書き始める」ではなく、「始まり、福音、イエス・キリスト」の順で記されています。そして紀元前750年くらいの預言者イザヤの預言が引用されています。それはイエス様の誕生は偶然ではなく、預言されていたことを現わしているのです。

★続いて「荒野」という言葉が記されています。荒野からイエス・キリストの福音は始まると預言され、その預言の通りに荒野から始まったのです。この福音書が書かれた時、教会もクリスチャンも荒野の中を歩んでいました。迫害と問題の渦巻く荒野、希望が全く持てない荒野の真っただ中で、キリストによる新しい時代が始まったと宣言しているのです。あなたが今、どんなに希望を持てないような荒野にいたとしても、その荒野に新しい神の子の時代が始まったことを伝えているのです。

★神様は、希望が持てない荒野のような世界に救い主を遣わして下さいました。人間の側である私達がすべきことは「主の道を用意すること。主の通られる道を真っ直ぐにすること」なのです。それが「悔い改め」です。イエス様は荒野にいる私達に、水以上の祝福である聖霊のバプテスマを与えるために来てくださいました。

★突然、荒野の中から福音は始まったと記しています。イエス様は「ユウアゲリオン=福音」を荒野にもたらされたのです。分かりやすく訳すならば「素晴らしい知らせ」です。なぜ素晴らしい知らせなのでしょう。エルサレムの町にある神殿から排除されていた人々に、神様に受け入れられる道を開いて下さったからです。あなたもイエス様をお迎えしようではありませんか

8月20日第二コリント最終回「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」

第二コリントNO34「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」13章11~13節 

                         仁井田義政 牧師 

 「コリント人への第二の手紙」からのメッセジも、今日が最終回となりました。今日の部分は、手紙を書き送るための単なる最後の挨拶文ではありません。コリントへの手紙を書いた最終目的が凝縮されて記されています。

★パウロは、分裂状態にあったコリント教会に「終わりに兄弟達」と最後の挨拶文を書き始めました。コリント教会には、国籍や民族が違うユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人がいました。それを「兄弟達」と呼んでいます。そして、そのクリスチャン達に「喜びなさい」と薦めています。どんな事があっても「主にあることを喜ぶ」ことが教会の一致する基本なのです。さらに「完全な者になりなさい」と薦めました。それは潔めのことであり、自己中心から「神様中心」になることを意味します。信仰者として大人になることです。

★次に出てくる「慰めを受けなさい」という言葉は、口語訳聖書と共同訳聖書では「互いに励ましあいなさい」と訳されています。それは人の弱さに気が付くことであり、自分の弱さを認めることでもあります。そして「一つ心になる」のです。民主主義の世界では意見が割れて一つになれない時、多数決という方法があります。しかし多数決などそれはあくまでも人間的な事であって、教会の本当の「一つ心は」、キリストがその中にいますこと以外にありません。キリストが中心であって初めて多数決が生きてくるのです。

★パウロはコリントの信徒達に「全ての聖徒達があなたがたによろしくと言っています」と挨拶を送りました。聖徒とは、キリストの働きの為に選ばれた者達です。パウロは、マケドニア教会においてこの手紙を書いていると思われます。マケドニア教会の信徒たちが、コリント教会の信徒達を思っていることを伝えています。それぞれの教会は同労者なのです。同業者ではありません。同業者であれば対立するでしょう。しかし同労者であれば、教会は違ってもキリストの福音を広める為に働く仲間なのです。教会を越えて労する御心がそこにあります。

★パウロは祝祷をもって長いコリントの手紙を終えます。それはまさに「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にあるように。」との願いなのです。私達の教会も「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が豊かな教会となりますよう祈りましょう。

8月13日礼拝メッセージ「信仰を吟味しなさい」

第二コリントNO34「信仰を吟味しなさい」13章1~10節 

                        仁井田義政 牧師 

    コリント教会にいたパウロの反対者達は、当然自分達が正しいと思って反対したのです。パウロもまた自分が正しいと思って、彼らを正しい信仰に立ち返らせようとして警告と勧めをしてきたのです。最後の最後までパウロは、偽教師達に騙されたコリント教会のある者達に悔い改めて救われるようにと勧めています。

★しかしパウロは、罪を犯している者達に「今度は容赦しません」と伝えました。「二度目の滞在の時にも言っておいた」ことは、悔い改めなければ処罰として除名するということでした。この手紙でその事を伝えたのは、もう一度反対者達に悔い改める機会を与える為だったのです。

★反対者達がパウロ自身の使徒(アポストロス)としての証拠を求めたのは、強さ「雄弁さと奇跡」という証拠でした。しかしキリストは、人々を救うために「弱さのゆえに十字架に付けられ」雄弁な反論も奇跡もしなかったのです。そこにこそ「キリストの本当の愛があった」のです。そのキリストが、今は甦えられて神の力を持っておられるのです。パウロも同じでした。反対者達に悔い改める期間を与えたかったからです。それがコリントの反対者達には、パウロが優柔不断な人のように見えたのです。

★最初に話しましたように、コリントのパウロの反対者もパウロも、自分が正しいと主張して対立したのです。ですから信仰の吟味が大切なのです。ある時、イエス様の前に姦淫の現場を取り押さえられた女性が連れて来られました。この罪は当時「石打の刑=死刑」でした。人々は、イエス様を罠にかけ試そうとして連れてきたのです。その時イエス様は「罪のない者から石を投げなさい」と言われました。その結果、老人から始まり一人も石を投げつける者はいなかったのです。彼らは自分の信仰を吟味した結果でした。

★パウロは、最後の最後まで「あなたがたに厳しい処置をとることがないようにしてもらいたい」と切実に訴えています。(10節)それは使徒としてこの厳しい権威「除名する権能」が与えられたのは、教会を倒すためではなく、建て上げるのが目的だからだとパウロは言っているのです。パウロの使徒としての心、コリント教会の人々を愛する心がにじんでいます。これが伝道者や牧師の心です。私達も真理の聖書に照らし合わせ、自分の信仰を吟味しましょう。そして自分の信仰姿勢に責められる所があれば、潔く悔い改めて信仰の道をしっかりと力強く歩きましょう。

8月6日礼拝メッセージ「全ては築き上げるために」

第二コリントNO33「全ては築き上げるために」12章19~21節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、本心からではない「自分を誇る」という行為をしました。私達人間は、自分に誇るべきことがあれば、ひとつ残らず誇りたいのです。愚かなことです。コリント教会で何の制限もなく自分を誇っていたのが、偽教師達だったのです。パウロは、ここで「なぜ私は自己弁護しなければならなかったのか」について記しています。

★パウロが愚かなことと知りつつ、自分を誇り自己弁護した目的は、ただ一つコリント教会を建て上げるためでした。それは人々の正しい信仰のことです。パウロはやむを得ずした自慢話も「神の御前でキリストにあって語っているのです」と記しているように「キリストの中で」つまり、真実のみなのです。建て上げるとは、レンガや石を積み上げることに関する用語です。材料があっても、家に建て上げられなければ瓦礫なのです。

★パウロはコリント教会を建て上げるために、三回目の訪問を計画していました。しかし第二回目訪問の時のように、激しい反対に遭うのではないかと心配しました。パウロは、前回の訪問の時とは違う激しい決意を持っていました。それは、反対者が悔い改めない場合は処罰するということでした。

★教会をバラバラにしてしまっている原因は、第一コリント1章にあるように「仲間割れ」と「不品行」でした。優れた知識と能力を持った人間に付こうとするギリシャ人特有の習慣です。それとアフロディテ神殿公認の売春婦が千人もいた町だったからです。当時の地中海世界では「コリント風に生きる」との言葉が広まっていました。それは性の堕落した生活のことです。 クリスチャンになるには、その生活を変えなければなりませんでした。偽教師達は、そのままで良いですよと教えていたと思われます。 

★イエス様を信じる時は、どんな罪の生活をして来た者でも確かにそのままで信じれば良いのです。しかし信じたならば、そのままで良いはずがありません。「そのままで良いのだ」の言葉に騙されてはなりません。そのように話す牧師がいれば、その者は偽牧師です。聖書の「不品行」はギリシャ語の「ポルネイヤー」です。その言葉が「ポルノ」という英語になりました。クリスチャンは、聖い生活を目指し、キリストの教会に建て上げなければなりません。パウロは「全てはあなたがたを築きあげるためなのです」との私利私欲によらない真っ直ぐな心を記しています。私達はこれらの罪に気を付けて、素晴らしいキリストの教会を建て上げていきましょう。