Monthly Archives: 7月 2017

7月30日礼拝メッセージ「愛すれば愛するほど」

第二コリントNO32「愛すれば愛するほど」12章14~18節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、反対者のいるコリント教会に三度目の訪問をしようとしています。その教会には、パウロに反対する偽教師に騙された人々がいたのです。衝突は予想されることでした。それでも行くことを決意しました。

★パウロがコリント教会から給料をもらわなかったことは、先週話した通りです。パウロは、他の教会から援助を受けてコリント教会を創立したのです。その教会に、パウロから遣わされたテトスと同行者が、エルサレム教会の為に募金に来ていました。偽教師達は「今までパウロは無欲に振舞ったが、エルサレ教会の献金から騙し取った」と人々に言いふらしたようです。

★パウロは、コリント教会へ訪問するに当たって、経済的な負担をコリント教会にはかけまいと、「私が欲しいのはお金ではなく、あなたがた自身である」「あなたがたのたましいの為には財も、自分自身さえ使い尽くす」と言いました。それは無限の愛でした。しかし「私が愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」と、愛すればこその心の痛みを記しました。イエス様も正にそうでした。愛すれば愛するほど、人々からは愛されない人生を歩むことになってしまったのです。そして十字架につけられました。

★偽教師は、パウロがコリント教会から金銭を受け取らなかったことを逆手にとって、パウロはコリント教会の人々を安心させ、実は金銭を奪おうとしているのだと人々に教えました。パウロはそれに対して「自分もテトスもその他の同労者も、悪賢く何かを奪い取ったことがあるか」と潔白を主張しました。「私達は同じ心で」つまり、あなたがたの魂の為に、つまりクリスチャンとして救われて欲しいと純粋な心によって「大いに喜んで財を費やし、私自身をさえ使い尽くして来た」と言いました。

★パウロはキリストに出会わなかったなら、イスラエル社会で有能な教師となる道が敷かれていたのです。その教師としての仕事は、ビジネスとしても人が熱望する程の立場だったのです。しかしイエス様によって救われた後は、死をも覚悟して旅をしなければならなくなったのです。なぜそんな危険を冒してまで旅をしたのでしょうか。人々の救いの為です。しかし「愛すれば愛するほど、その人から憎まれる」ことになりました。悲しいことです。私達は自分の魂を愛する人の愛を、しっかりと受け止めることの出来る人になりましょう。

7月23日礼拝メッセージ「真の使徒のしるし」

第二コリントNO31「真の使徒のしるし」 12章11~13節 

                        仁井田義政 牧師 

 パウロは、偽教師達に「パウロは使徒などではない」と反対されました。その偽教師達の狙いは、パウロからコリント教会を奪い取ることでした。パウロはコリント教会を偽教師達の毒牙から救い出すために、愚かなことと知りつつも自分を誇って見せざるを得なかったのです。

★パウロは、自慢話が神様の御前に愚かなことと知りつつもそうせざるを得ず、コリント教会の人達に「あなたがたが、無理に私をそうしたのです」と言っています。偽教師達が私に対して悪口をいう時、パウロ先生はそのような方ではありませんと言うべきだったというのです。

★パウロは愚かになって、偽教師達に負けない自慢話をしようとしても「たとえ私は取るに足らない者であっても」と謙遜な言葉が出てしまうのでした。謙遜こそが、パウロのクリスチャンとしての生き方だったからです。反対に偽教師達はコリント教会の人々に、これ以上ない「大使徒」として自分を紹介していたようです。それに対してのパウロは「あの大使徒たちに」と言っています。それは皮肉を込めた言葉です。

★それでは、本当の使徒としてのしるしは何なのでしょうか。パウロは、使徒としてのしるしの最初は「忍耐を尽くして」の福音宣教ですと言っています。忍耐を抜きにして不思議や、しるし、力ある業ばかりを求めると、偽教師の罠にはまるのは現代も同じです。私達の教会にも、キリストの教会として奇蹟は起こっています。しかしそれを売り物にはしないのです。

★偽教師達は、パウロに教えられた教会は不完全な教会なので、私達が完全にすると言っていたようです。パウロはコリント教会に教理的な意味で「劣る点は何一つない」、あえて言うなら「給料を私が貰わなかったこと」と言っています。パウロは考えがあって「お金目的で新しい教えを持って来た」と言われないために、細心の注意をはらったのです。パウロの生活を支えていたのは、マケドニアの諸教会でした。(11:9)    

★使徒のしるしは、「忍耐を尽くしての宣教」です。その宣教の中で、信じる者に御業が現わされるのです。困難な時も教会を投げ出さずに伝道牧会する、それこそ真の使徒のしるしであることを知りましょう。

 

7月16日礼拝メッセージ「弱い時にこそ強いのです」

第二コリントNO30弱い時にこそ強いのです」12章7~10節 

                        仁井田義政 牧師 

 前回、パウロが第三の天に行って来たという体験が記されている箇所をお話ししました。それは誰でも体験できるなどと言うものではありません。パウロ自身も「その啓示があまりにも素晴らしい」体験だったと言っています。パウロは、神様から「高ぶることのないように・・ひとつの棘を与えられた」と言っています。その結果、パウロは「弱い時にこそ強い」自分を発見しました。

★信仰者にとって、最大の誘惑は「高ぶりと傲慢」です。パウロのように、神様に用いられる人ほど注意が必要です。パウロが「肉体にひとつの棘を与えられた」ということから見て、何らかの病気であったと考えられます。目の病気だったかも知れません。第三の天にも行き、使徒19章には、パウロの前掛けや手拭いを病者に当てただけでその病が癒されたことが記されています。まさに人々が求めていた超能力者です。しかし神様は、パウロが高ぶることがないようにと、肉体に棘を与えられたのです。

★パウロは、棘を取り除いて下さるようにと神様に三度も祈りました。三度の祈りとは激しい祈りです。イエス様のゲッセマネの祈りも三度でした。イエス様の「苦き杯=十字架」も、パウロの「肉体の棘」も取り除かれなかったのです。その両方の苦しみには目的がありました。イエスは十字架による人々の救いであり、パウロは謙遜な伝道者となることでした。しかも毎日肉体に感じる棘があるのに、「私の恵みはあなたに十分である」と神様は言われたのです。その中で感謝の生活をするように言われたのです。

★そのことによって、パウロは「神の力は 弱さの中に現れる」という逆説的真理に導かれました。一般的には「弱さ」は悪であり、「強さ」は善なのです。だから誰でも「強さ」を求めるのです。しかし強さや完全の中では、神様の力も恵みも見えなくなってしまうのです。私達に罪がなかったならば、キリストの十字架の愛は分からなかったでしょう。病がなければ神様が癒し主であられることを知らなかったでしょう。弱い私達をキリストの力が覆って下さるのです。だからたとえ弱さを持ったままでも、神様の力と恵みに包まれていることを感謝しましょう。苦しい時こそ、神様の恵みに包まれているのです。どんな時にも神様に感謝して信仰を成長させましょう。

 

7月9日礼拝メッセージ「人生をいつまでも楽しむ秘訣」

2017特別礼拝「人生をいつまでも楽しむ秘訣」ピリピ3章5~9節   13~14節

杉田キリスト教会牧師 久保田顕先生

 私達は、どんな仕事やどんな肩書をもった人になれれば幸せになれるのでしょうか。すべてを手に入れた「福山雅治さんのようになりたい・・・」でしょうか。聖書にはそのような条件が満たされなくても、人生の喜びが約束されています。

★使徒パウロは、現代の福山さん以上の肩書と地位を手に入れていました。(4~6節)イエス様を知った時、パウロは「人生をいつまでも楽しむ秘訣」を手に入れたのです。むしろそれまで人生を楽しむ秘訣と思っていた「すべての肩書・地位がゴミとなった」(7~8節)と言っています。その理由は、パウロがキリストを知ったから(8節)です。キリストを信じる価値は、何にも変えられません。キリストを信じ従う人生には、他では埋められない喜びと楽しみが与えられるのです。

それではパウロは一体どこが変わったのでしょう。それは「キリストの家族となった。」(9節)というところにあります。罪人だったパウロは、イエス様の救いに与かり「神の家族」となり、希望と喜びを得たのです。ある一人のクリスチャンが「神様の救いがあれば頑張れる。私には神様という希望がある。」と、喜びに満ちて話された体験談を聞いたことがあります。聖書も「神を信じる者は失望で終わらない」(ローマ10:11)と言っています。私達も、神様と深い関係(神の家族)を築いて喜びをいただきましょう。

★パウロはイエス様を信じてから、その生活はどのように変わったのでしょうか。パウロは過去(罪)の生き方を振りかえらず、前(神・信仰)に向かって進んだのです。そして、人生の最後を迎えるまで、キリストと共に歩み続けたのです。あなたも「人生をいつまでも楽しむ秘訣」をしっかり学んで、信仰の長距離ランナーとなりましょう。

そして神様と一緒にある喜びの人生を走り続けましょう!!

7月2日礼拝メッセージ「パウロの第三の天体験」

第二コリントNO29「パウロの第三の天体験」12章1~6節

                         仁井田義政 牧師

 パウロの敵対者の偽教師達は、できるだけ自分の優れたことをひけらかして、人々の関心と信頼を得ようとしました。そのような偽教師達から信徒達を守るために、パウロは自分の優れた体験を記さなければなりませんでした。それが第三の天に引き上げられたという体験なのです。

★パウロの第三の天体験は「主の幻と啓示」でした。信仰の世界は皆そうです。私達が救われたのも、私達が素直だから救われたのではありません。神様が救いに導いて下さったのです。常に神様の恵みが先行してアクションを起こされるのです。ですからパウロは、私が第三の天に行って来たからと言って「誇るのは無益なことなのですが」と言っているのです。

★パウロは「14年前に…この人は…第三の天にまで引き上げられました」と記しました。なぜ「私は」と言わないで「この人は」言うのでしょうか。それは人々がパウロを過大評価するといけないからです。しかし、来週話します7節において、この体験者はパウロであることがはっきりと分かります。パウロは、自分が過大評価されたり、偶像化されたり、教祖化されることを積極的に避けたのです。コリントの人たちの異教的文化と気質が、人間を教祖化することに慣れていたからです。

★さてパウロが行った第三の天ですが、第一の天は地球を取り巻く大気圏内ということが出来るでしょう。第二は宇宙。第三は霊的世界でしょう。そして第三の天をパラダイスと言っています。それはイエス様が十字架上で言われたパラダイスのことです。創世記に出てくる「エデンの園=楽園」を七十人訳ギリシャ語聖書では「パラダイス」と訳しました。天国と考えてよいのです。パウロにとって第三の天体験は実体験でした。「しかし誇ることは控えましょう。人々が私を偉大な者と勘違いするといけないからです」と記しています。そして「自分の弱さを誇りたい」というのです。 

★私達も優れた能力を褒められたりすると、自分が何者かであるかのようにふるまったりすることがあります。それがクリスチャンや牧師の命とりとなるのです。それを体験させたり、見せたりして下さったのは神様なのです。 クリスチャンは、自分より見せて下さった神様を誇るべきなのです。