聖書に触れた人々NO13「天国を求めた高山右近」

聖書に触れた人々NO13「天国を求めた高山右近」 2012年6月26日                                                                   ピリピ3章20節 

 日本のキリスト教の草創期に燦然と輝くクリスチャンの一人に、高山右近を挙げなければならないでしょう。彼は戦国の世にその生を受け、クリスチャン高山右近としてその人生を駆け抜けました。その壮絶な人生を知ることは、現代に生きる私達クリスチャンにとっても大きなチャレンジとなるでしょう。高山右近は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の世に生きたクリスチャン武将です。  (天文21年(1552年)~慶長20年(1614年)享年63才)

★右近の父、高山友照はキリスト教が大嫌いでした。  しかし友照は宣教師と論争しているうちに、キリストの教えに感動しクリスチャンとなりました。その高山友照の子が高山右近でした。右近も父の信仰にならって、12歳で洗礼を受けてクリスチャンになりました。その後、高槻城の城主であった父が隠居し、そのあとを継いで高山右近が城主となりました。それは1573年のことで、右近が21歳の時でした。父の友照は、その後キリスト教伝道に専念するようになりました。

★織田信長は高山右近に「開城かそれともキリスト教徒皆殺しか」と迫りました。                時は織田信長の時代でした。織田信長の支配下にいた摂津守護・荒木村重が、寝返って毛利方につきました。その間に立って和解させようとしたのが高山右近でした。しかしそれが織田信長の不信をかうことになり、高山右近の高槻城は信長軍に包囲されてしまいました。そして信長が城の明け渡しを要求し「開城しなければキリシタンを皆殺しにし、教会を焼き討ちする」と告げてきました。右近は信長にキリシタン保護の約束をとりつけて高槻城を開渡しました。その結果、信長は彼を信頼するようになり、引き続いて右近が高槻城に住むことを認めました。またキリスト教に対しても好意政策をとるようになりました。この間に右近は伝道を活発化しました。右近は領内には20にも及ぶ教会を建て、神学校も作りました。

★高山右近は、キリスト教信仰に基づいて理想国を作ろうとしました。                右近は、キリスト教精神にのっとり国造りに全力を注ぎました。また領主とは思えない程の謙遜を示しました。ある時、領内の貧しい民が死んだ時のことです。その棺を担ぎ、そのお墓を自ら掘ったと言われています。このような死者の葬りの準備などは、当時差別された人々の仕事でした。領主がそれをすることなど考えられないことでした。それを見た家臣たちも感激し、率先して一緒に墓を掘ったと言われています。 このようにして、彼の領土内のクリスチャン人口は8割にも達しました。右近はこの頃、茶の湯においても千利休に師事し、利休の7哲と言われ、利休高弟の一人となったと言われています。利休自身クリスチャンであった可能性があり、茶室の狭い入り口、つまりにじり口は聖書の「狭い門から入れ」からヒントを得たとも言われています。

★豊臣秀吉が高山右近に迫ったバテレン追放令(1587年)                      時は豊臣秀吉が支配する世になりました。秀吉は、高山右近に明石への領地替えを命じます。1585年のことでした。明石においても、右近はキリスト教の布教に力を入れました。しかしその2年後の1587年、秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出しました。右近にも使者を送り「キリスト教を捨てるように」と迫りました。しかし右近は「予はキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。どうしても捨てよとの仰せならば、領地、並びに明石の所領を関白殿下(秀吉)に返上する。」と返上してしまいました。その後は加賀の前田家に匿われることになりました。秀吉も、高山右近が領地を信仰の為に返上してくるとは思いもよらなかったと言われています。

★徳川幕府が高山右近に迫ったキリスト教禁教令                             時は移り変わり、徳川家康の時代になりました。徳川幕府になってからキリスト教への迫害は厳しさを増して来ました。右近を匿っていた前田家も、彼を思って「形だけでいいから棄教せよ」と棄教を迫りました。しかし、右近は棄教することはありませんでした。彼は既に殉教を覚悟していたのです。徳川幕府は彼を捕らえて、フィリピンのマニラへ追放を決定しました。その船には追放された宣教師たち約100人も乗っていました。約一ヶ月にわたるその船旅は、死者も出る程の過酷な旅だったそうです。

★高山右近はマニラで天国へ                                        マニラに着くと、高山右近は体調を崩し天に召されて行きました。慶長20年(1614年)のことです。63才の生涯でした。彼はクリスチャン大名として激動する戦国の世に生まれ、クリスチャンとして生きた壮絶な人生でした。一夫一婦制を守り、生涯側室を置くことはありませんでした。また人間はみな神様の前に平等なのだと、死者を葬る準備まで自ら率先して行ないました。彼は信仰を守る為ならば、領土さえも返上してしまいました。彼の心はどこにあったのでしょう。彼の生涯を通して聞こえてくる聖書の言葉があります。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)

私達も高山右近のように、真っ直ぐに信仰に生きる人となりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO13「天国を求めた高山右近」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO12「母にもまさる母 井深八重」

  聖書に触れた人々NO12「母にもまさる母 井深八重」 2012年6月5日

ヨハネ12章24節        仁井田義政牧師

ハンセン病患者達から「母にもまさる母」と慕われた井深八重は、22歳まで最高の学問を与えられた女性でした。彼女は同志社女学校を卒業し、英語教師として長崎県立女学校へ赴任するほどの前途有望な女性でした。しかしその井深八重の人生が思いもよらぬ方向へと急激に動き出すことになるのです。それは神様の彼女に対する御計画でした。

★井深八重は、1897(明治30)年10月23日 台湾の台北市で生れました。 彼女の家は旧会津藩家老からの家柄で、国会議員にまでなった井深彦三郎の娘でした。明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に預けられ、英才教育を施されました。1918(大正7)年、同志社女学校英文科卒業と同時に、同年の4月に長崎県高等女学校の英語教師として採用されました。彼女の人生は、順風満帆で計画どおりに進むかに見えました。しかし教師となって約一年後、その事件は起こりました。

★その頃すでに井深八重には縁談もありました。そのような年のことです。彼女の体にポツポツと斑点が出て来たのです。医師は診察した後、本人には病名を告げませんでした。その病名は家族に伝えられ、彼女は世間に隠れるようにして神奈川県の神山復生病院に隔離され、そこで病名はハンセン病であると知らされたのでした。彼女は絶望的な状況に陥りました。しかし彼女の病状は、病院の中では比較的軽い方でした。その病院には当時看護師が一人もいなかったため、軽度の患者が重度の患者のお世話をすることが義務となっており、井深八重も重度の人達のお世話をするようなりました。入院から一年が経った頃、彼女の症状は悪化しないばかりか、きれいな肌にさえなって来ました。そのような事から、親戚が開いている病院で診察して頂いたところ、なんと彼女の病気はハンセン病ではなく、一時的な皮膚病だったのです。つまりハンセン病との診断は誤診だったのです。

★井深八重が入院していた病院の医師は、フランス人でレゼー神父というお方でした。レゼー神父は「あなたが、ハンセン病でないということがわかった以上、あなたを此処におく理由がなくなりました。どうぞ今後の事は良く考えて、自分の人生を生きて行って下さい。」と言いました。「もし日本が嫌ならばフランスへ行ってはどうか。私の家族があなたを迎えてくれるでしょう」とまで言って下さいました。それはこの時代はまだハンセン病に対する強い差別があり、そこで働く人にまで差別があったからです。しかし井深八重からは予想も出来ない返事が返ってきました。それは「私は看護師の勉強をして資格をとり、この病院の看護師になります」というものでした。彼女は、その病院に医者はレゼー神父ひとり、看護師は皆無で、レゼー神父が必死になって治療をしている姿をずっと見ていたのです。井深八重はその後4年間東京の看護学校で学び、1923年に看護の資格を所得し、病院に戻ってきました。そのことにより彼女は病院初の看護師となったのです。ハンセン病患者にだけではなく、そこで働く人への差別が激しかった時代に、彼女はためらうことなく飛び込んできたのです。

★井深八重がクリスチャンになった時のことをお話しましょう。それは絶望しているハンセン病院でのことでした。日曜日に礼拝があり、井深八重も神父から礼拝にさそわれていました。礼拝の時間になると、レゼー神父のもとに礼拝の為に患者さん達が集まってきました。礼拝が始まると、不幸のどん底にいると思われる患者さん達が、讃美歌を歌い、祈りの中では「神様、心からあなたに感謝します」と感謝までしているのを見たのです。八重は驚いて、礼拝のあと神父に「どうして彼らは感謝出来るのですか」と聞きました。すると神父は「彼女達はイエス様を心から信じているので、苦しみと絶望の中にあっても、喜びと感謝をもって生きていくことができるのです。」と言いました。そして彼女は「私もあの人達のようになりたい」と信仰を告白し、洗礼を受けてクリスチャンになりました。

★井深八重の生涯の働きは「神山復生病院」での看護師としての働きでした。ついに社会から、彼女の患者達への献身的な看護が認められ、1961(昭和36)年に、看護師たちの最高の賞である「ナイチンゲール記章」を受賞しました。日本からは天皇より黄綬褒章が授与されました。その他にも新聞社からの賞など多数ありました。でも井深八重は患者達から「母にもまさる母、八重さん」と呼ばれるのが一番の賞だったでしょう。井深八重が座右の銘としていた聖書の言葉は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」ヨハネ12章24節でした。彼女は1989年(平成元年)に天に召されました。92歳の生涯でした。彼女の墓には「一粒の麦」と刻まれています。私達も、彼女の生涯を通してこの御言葉を見つめ直して、実行できる人になりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO12「母にもまさる母 井深八重」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO11「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵」

人物による婦人聖研

聖書に触れた人々NO11「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵」

2012年5月29日                  ルカ6章38節      仁井田義政 牧師

  相馬愛蔵と言えば、この間お話ししました山崎製パンの創業者 飯島藤十郎氏が大きな影響を受けた方です。相馬愛蔵の生涯は、1870年(明治3年)10月25日に信濃国安曇郡白金村(現安曇野市穂高)の農家の三男として始まりました。しかし父は愛蔵が生れた翌年に他界し、母親も愛蔵が6歳の時に亡くなるという不幸にあっています。そういう意味では、親の愛情の必要な時に親がいないという寂しい幼少期を過ごしたと思われます。その相馬愛蔵が新宿中村屋の創業者となるのです。しかし彼は中村屋の創業者と言うだけで偉大なのではありません。創業者であると同時にクリスチャンとして、日本の文化にも多大な影響を与えた人物として偉大なのです。

★彼は学業においては数学が得意であったそうです。しかし英語が苦手で、地元の学校を3年で中退してしまいました。その後上京して、20年9月に東京専門学校(現早稲田大学)に入学しました。その17歳の頃、愛蔵は友人に誘われて、牛込市ケ谷の牛込教会へ行くようになりました。そして洗礼を受けクリスチャンとなりました。東京専門学校の卒業後は、人に雇われることを嫌って北海道の札幌農学校へと進み、養蚕学を学びました。

★札幌農学校で養蚕を学を学び、一時は北海道で養蚕(ようさん)を夢見るも断念し帰郷しました。故郷で明治24年(1891年)に、蚕種製造を始め、『蚕種製造論』を著しました。22歳の愛蔵は、明治24年12月20日に東穂高禁酒会を創立。最初は11人の出発でしたが、みるみるメンバーが増えていったといいます。また明治27年(1894年)、村に芸妓を置く計画に反対し、廃娼運動も行ないました。さらにはこの時代に、孤児院基金募集のため仙台へ出掛け、仙台藩士の娘でありクリスチャンの星良と知り合い1898年に結婚しました。その式場は牛込市ケ谷の牛込教会でした。その後、故郷において奥様の健康が損なわれ、療養のため上京することになったのです。後に奥様は恩師から付けて頂いた黒光(こっこう)とのペンネームで名のるようになりました。

★東京に出て来た愛蔵一家は、明治34年(1901年)東大赤門前のパン屋、本郷中村屋を買い取り、パンの製造を始めました。明治37年(1904年)には、日本で初めてクリームパンを発売しました。さらに明治40年(1907年)に新宿に移転した後、商売は大繁盛するにいたりました。さらに中村屋は日本で初めてインド式カレーライスを販売し、大人気となって行きました。

★クリスチャンとしての相馬愛蔵はパン屋としてさることながら、日本文化への大きな寄与もあります。愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、多くの芸術家に使わせていました。彫刻家の荻原碌(ろくざん)、画家の中村彝(つね)、彫刻家の中原悌二郎、彫刻家の戸張狐雁など多くの芸術家達です。1915年にインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースがイギリス官憲に追われ日本に亡命して来ましたが、一時日本政府にも追われていた彼をかくまったのが愛蔵一家でした。そのほかにもロシアの無政府主義の盲人詩人のエロシェンコをかくまうなど、自分の身の安全を顧みずに人道的な立場に立って行動したのです。後にボースは相馬夫妻の長女と結婚。大正12年、日本国籍を取得しました。ボースの指導によって中村屋のインドカレーが誕生したのです。

★愛蔵の人間愛はさらに続きます。1923年(大正12年)9月1日関東大震災が襲った時でした。中村屋は幸運にも被災は免れました。震災に乗じて全ての食料が軒並み値上がりしました。そうすると愛蔵は、パンや菓子を普段よりも1割ほど安くして販売しました。彼は商人の義務として、中村屋の社員一同毎晩徹夜でパンなどの製造を続けたといいます。平素のお客様本位の考えが、彼を自然とそうさせたのです。その時は『奉仕パン』『地震饅頭』などと名前を付け販売していたそうです。そのような姿勢にお客さんたちが感動し、震災後は大きく売り上げが伸びたといいます。

★このようなエピソードもあります。1927年3月に昭和金融恐慌が起こり、銀行に取り付け騒ぎが発生しました。その時、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来たそうです。すると愛蔵は部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって、群衆のパニックを収めたといいます。相馬愛蔵の愛した聖書の言葉も今では知ることが出来ません。しかしその生涯からは次の御言葉が聞こえてくるようです。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38

 相馬愛蔵は、多くを得て多くを与えた人であると思います。私達の人生もこの人のようでありたいですね。

 

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO11「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO10「山崎製パンの創業者 飯島藤十郎」

人物による婦人聖研 

聖書に触れた人々NO10 「山崎製パンの創業者 飯島藤十郎」 2012年5月15日 

                              仁井田義政 牧師

 飯島藤十郎 (1910年11月7日~1989年12月4日) は山崎製パン創業者です。なぜ飯島製パンではなく山崎製パンなのでしょうか。それは彼がパンの会社を設立しようとした時、他にもパンに関わる仕事をしていたために飯島名義では許可がもらえず、妹の嫁ぎ先が山崎だったので義弟の姓・山崎で許可を取ったという経緯があったようです。こうしてパン作りが始まりましたが、彼はまだその時クリスチャンではありませんでした。その彼がどのようにしてクリスチャンとなり、どのように生きたかをお話しいたします。

彼はパンの会社を興す前の一時期、新宿中村屋で奉公人として働いていました。そこの社長がクリスチャン事業家の相馬愛蔵でした。相馬愛蔵は、内村鑑三と交流があったクリスチャンでした。飯島藤十郎は洗礼こそ受けていませんでしたが、その相馬愛蔵の影響を強く受けていました。山崎製パンの創業時代は、リヤカーにパンを積んで町を歩きながら売っていたそうです。そのリヤカーの荷台には、パンと一緒に「神は愛なり~ヨハネの福音書」という看板が掲げられていました。

最初順調だった経営がしばらくして問題が起こりました。籐十郎と弟の一郎の間に、経営方針を巡って激しい対立が起こったといいます。藤十郎の長男が間に入って、なんとか調整しようとしましたがうまくいかず、息子(現社長)までが父と意見の相違で対立してしまう事態になってしまいました。収拾がつかなくなって、それを何とかしようと決心して、その方法として三人で話し合い、三人揃って洗礼を受けたのが飯島藤十郎の洗礼を受けたきっかけでした。その一件落着となった洗礼後の11日目のことでした。主力工場の武蔵野工場が全焼するという大事件が起こってしまったのです。しかしクリスチャンとなっていた彼らは「この時、私たちは『火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めだ、これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります』と祈りを捧げました」と現社長の飯島延浩氏が言っています。

父籐十郎の後を継いで社長となった長男の飯島延浩氏も、熱心なクリスチャンです。父と家族が一緒に暮らしていた社長生家の三鷹の土地300坪を教会に寄付しました。その土地には現在教会が建っています。その教会に、毎週現社長の飯島延浩氏が、自宅のある千葉県市川市から三鷹市の教会まで毎週通っています。そればかりでなく、自ら聖書の勉強会を開いて人々を教えています。現在、山崎製パンは日本の輸入小麦の10%を使うと言われ、年商9000億円以上の製パン業会社と言われています。

洗礼を受けたばかりの飯島藤十郎一族に武蔵野工場全焼の火事が起こったように、クリスチャンだからと言って困難に遭わないとは限りません。そのような時にクリスチャンであることの素晴らしいことは、人のせいにしないで神様の前に祈りの時を持てることです。そして新しい心で再出発できること、これは本当のクリスチャンにしか出来ないことです。

どのような時にも、神様の愛がその事をなさったのだと信じることが出来る人は何と幸いでしょう。

今日の御言葉は、飯島藤十郎が掲げていた御言葉ヨハネ3章16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」を掲げさせて頂きます。

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO10「山崎製パンの創業者 飯島藤十郎」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO9「エリザベス・サンダーズ・ホームの母 澤田美喜」

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO9

エリザベス・サンダーズ・ホームの母 澤田美喜   2012年4月3日

               ヤコブ1章27節    仁井田義政牧師

今日は終戦後の日本において、2000人以上の混血孤児の母となった澤田美喜さんを紹介したいと思います。その生涯はまさに孤児達を救う為に、神様に鷲づかみにされたような生涯でした。

★澤田美喜は1901年9月19日、三菱財閥の三代目当主・岩崎久弥の長女として生まれました。三菱財閥の創立者・岩崎弥太郎の孫です。彼女の生まれた家は、東京の本郷にありました。当時岩崎家は、全国に多くの所有地を持っていました。かつては駒込の六義園も岩崎家の所有でした。美喜は、御殿のような本郷の家で何不自由のない生活をして育ちました。その家は現在「旧岩崎邸園」となっています。美喜がキリスト教に最初に触れたのは、病気療養のために大磯の別荘にいた時でした。ある夜、お付きの看護師の聖書を読む声が聞こえたのです。その聖書の言葉は「汝の敵を愛せよ」と言う箇所でした。その聖書の言葉が美喜の心を捕え、キリストへと導いたのです。

★しかし岩崎家の祖母は、美喜がキリスト教への関心を強く持ったのを警戒して、通っていた学校も友人から聖書をもらったことから、退学させてしまうほどだったのです。(現在の御茶ノ水女子大学の付属高校でした。)美喜が21歳になった時、外交官であった澤田廉三との縁談が起こりました。美喜は、彼の家族がクリスチャンということで結婚を決意しました。それからは大手を振って教会に通うようになりました。美喜は4人の子にも恵まれ、外交官の妻として各国を夫と一緒に渡り歩きました。1931年から2年間ほどイギリスにいた時のことでした。ある老人から勧められて「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院を訪問しました。その時、彼女は強い衝撃を受けました。そこには孤児と言う暗さがみじんもなく、教会も学校もあり、子供達が明るく生活しているのを見たからです。美喜は、しばらくそのホームでボランティアをさせてもらいました

★イギリスの衝撃から約14年後のことでした。日本は戦争に敗れ、進駐してきた米軍が多くいました。米軍が進駐してその10ヵ月後、混血孤児が捨てられる事件が多発するようになりました。米兵と日本人女性の間に生まれた混血児たちでした。ある時のこと、澤田美喜が汽車で旅行していました。汽車の網棚は、闇などの物資でいっぱいでした。その中のひとつ風呂敷包みが、彼女の膝に落ちてきたのです。それが警察に見つかり、闇物資の疑いをかけられ、開けるよう命じられました。仕方なくしぶしぶ開けると、黒い肌の赤ちゃんの死体がその中から出て来たのです。それを見て警察も周りの乗客も、この子は美喜本人の子ではないかと疑ってかかりました。ようやく自分の子ではないことを知ってもらいましたが、その時美喜は「お前が一時であってもこの子の母親とされたなら、どうして日本国中のこうした子供達の母親となってやれないのか・・・」と神様の声を聞いたと言うのです。美喜は、私はこのような孤児たちを助けなければならないと使命を感じました。夫もそのことを理解してくれたといいます。

★美喜の心に、あの大磯の地をその子たちのための土地にしたいという思いが湧き上がりました。しかしその土地は、戦後の財閥解体令よって没収され、進駐軍の物になっていました。米軍に日参して頼み込むと、それなら返しても良いが条件がある!400万で買い取ること。そして、買い取った土地はその後三代にわたって三菱の名義にしてはならないと言うものでした。美喜は自分の家の全てを売り、どうにか買い戻すことが出来ました。しかし建物のお金はありませんでした。その時イギリス人女性のエリザベス・サンダースさんが召され、その遺産をホームに捧げるようにしてあったのです。思わぬ捧げ物がホームの最初の献金となりました。その事を感謝して、ホームの名前も彼女の名前エリザベス・サンダース・ホームにしたのです。その他にも友人達の献金で、孤児院を開始することが出来ました。その時、彼女は46歳でした。

★その後も、ホームがスムーズに運営されたわけではありません。日本人からは敵の血を引く子をなぜ育てるのかと言われ、アメリカ側からは「混血孤児達の救済は反米運動につながる」と圧力がかかりました。ある時は、ホームの解散をGHQの将校たちが強く迫ってきました。その時美喜は「一度捨てられた子供を、もう一度捨てろというのか!」と抗議したと言います。そのような苦労の中で貫かれた混血孤児を助ける働きは、ついには2000人以上の子供達を育て上げたのです。まさに信仰の力です。澤田美喜は1980年5月12日、スペインの旅行中に78歳の齢をもって召されて、その生涯を閉じ主のもとへと引き上げられて逝きました。

私達は澤田美喜の大きな働きを知ると同時に、差別と言う人間として最も恥ずべきことを身の回りから無くして行くことに心がけましょう。

今日は澤田美喜の生涯を調べていて私の心に浮かんだ聖書の御言葉を挙げておきます。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」   ヤコブ 1:27

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO9「エリザベス・サンダーズ・ホームの母 澤田美喜」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO8「知的障害児教育の母 石井筆子」 

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO8

「知的障害児教育の母 石井筆子」2012年3月27日   第一コリント13章4節-7節                                                                                     仁井田義政 牧師    

人物による婦人聖書研究を開始して8回目になります。今まで7回は男性を取り上げました。日本 のクリスチャンには男性だけでなく、女性にも多くの素晴らしい人がいます。知的障害児教育の創始者となった石井筆子(文久元年(1861年)4月27日~昭和19年(1944年)1月24 日もそのひとりです。その働きは「滝野川学園」となって続いています。この人は、クリスチャンとして「世の光。地の塩」となって日本の近代化に大きく貢献した人です。その美しい生涯を知って頂きたいと思います。

★石井筆子の幼少と勉学                                                                                                                   石井筆子は備前国大村藩士の渡辺清・ゲン夫婦の長女として生まれました。現在の岡山県あたりでしょうか。父親は幕末から明治維新にかけての志士で、後に明治政府から男爵にの称号を与えられた人です。非常に裕福で、明治時代においても位の高い家でした。筆子さんは明治4年11歳の時に上京し、翌5年に開設された東京女学校に入学しました。彼女は英語、フランス語、オランダ語が堪能だったと言われています。

★石井筆子の留学と結婚                                                                                                                 明治13年、皇后の命により、石井筆子は津田梅子や山川捨松らと共に、日本初の女子海外留学生としてヨロッパに渡り、約2年間留学しました。その留学中に「日本女性には教育が必要」と確信するに至りました。日本は男性優位時代であり、女性の教育と言っても「良妻賢母教育」と言うものしかなかったばかりか、むしろ女性が教育を受けることに対して否定的社会だったのです。明治18年に帰国後、津田梅子と共に開いた華族女学校の教授となりました。またその容姿の美しさから、舞踏会等では鹿鳴館の花と言われるほどの華やかな出発でした。その後、明治17年に親の決めたいいなづけと結婚し、その2年後の25歳の時に待望の長女が与えられました。幸せを祈り幸子と命名しました。しかしその長女が知的障害児だったのです。その頃に筆子は子供と一緒に洗礼をうけました。また次女も三女も体が弱く、次女は間もなく死んでしまいました。また夫までも35歳で死んでしまいました。夫も体が弱かったのです。彼女は31歳で未亡人となってしまいました。

★石井筆子の障害児教育の目覚め                                                                                                  その頃、愛知県と岐阜県にわたって大地震が起こりました。死者7千人、倒壊家屋28万戸の大惨事となりました。するとその大地震に乗じて、孤児となった少女を女郎部屋に売り払う者がいるという噂が起こりました。その震災孤児を救う為に活動していたのがクリスチャンの石井亮一でした。彼は親を失った少女達を集め、親代わりとなって育てていたのです。筆子はその働きに共鳴し、その活動に協力するようになりました。そのようなある時、石井亮一から障害児教育を打ち明けられました。震災孤児の中に一人、知的障害児童いたからでした。筆子には「自分には知的障害児が二人いる」ことを初めて打ち明けました。すると亮一は「私にその子を預けて貰えませんか」と言ったのです。

★石井筆子の障害児教育と絶望                                                                                                      その後、知的障害で身体も弱かった三女も7歳で死んでしまいました。筆子は知的障害のある長女と二人だけとなってしまいました。筆子は知的障害のある子を守ろうと、必死で亮一の働きを手伝いました。そして筆子はその亮一と42歳で再婚し、ますます施設の活動に力をこめて行きました。しかし1920年3月24日のことでした。施設に大火災が起り、生徒6人が焼死してしまったのです。それは生徒の火遊びによる火事でした。燃え尽きてしまった施設を前に石井亮一は「神は私達を見放されたのだ、この試練に耐えるだけの信仰の力は私にはない」と叫び、二人は絶望してしまいました。

★石井筆子と施設の復活                                                                                                                  二人が燃え尽きた施設を前に絶望したその時でした。その時の新聞に施設の焼失の記事が載ったのです。新聞にこの記事が出ると、全国から多くの寄付や励ましの手紙が寄せられてきました。そのことによって、半年後に財団法人の認可を受けて施設の再開が出来たのです。それでも戦争中は「国に役立たないものに食わせるものはない」と言われて差別され、配給の食料を後回しにされたこともありました。戦争も終わりの時期1944年1月24日、石井筆子は82歳で数人の職員に見守られる中、この世を去ったのです。告別式には一人の血縁者もなかったそうです。しかしその一生は、障害児達を愛したクリスチャン石井筆子の素晴らしい生涯でした。次に記す聖書の言葉は、夫の石井亮一のものですが、筆子も同じ使命に生きたクリスチャンですので、筆子の言葉として記します。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」 第一コリント13章4節~7節

石井筆子らの創立した知的障害児教育施設は、社会福祉法人滝野川学園として、その信仰から湧き出た創立の精神を受け継ぎ大きくなって現代に続いています。

私達も、石井筆子らが目指した差別のない社会を作り続けて行きましょう。

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO8「知的障害児教育の母 石井筆子」  はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO7「野口英世博士」

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO7「野口英世博士」2012年3月6日

詩 119:71                仁井田義政 牧師                                     

   野口英世博士は福島県の生まれです。私も福島県の生まれですが、彼がクリスチャンだったとは全く知りませんでした。今日はそのクリスチャン野口英世のことをお話しいたしましょう。

  ★1876年(明治9年11月)に野口英世(清作)は父・野口佐代助と、母・シカの長男として生まれました。しかし父の佐代助は、酒と博打が好きであまり働きませんでした。 清作が1歳の時でした。母親が裏の畑で仕事をしている時、寝ていたはずの清作が起き出して、火のある囲炉裏に右手を入れてしまったのです。その結果、右手の指が握った形で全部くっついてしまいました。母親は、清作がこのようになったのは自分のせいだと罪責を感じ、「手が利かないのでこの子には農業は出来ない、この子には学問しかない」と、清作を学校に通わせました。当時は小学校にも全員が行けるわけではなかった時代です。貧しい家の子で学校に行っていたのは清作一人でした。その為に母親は働き尽くめで、生活を支えました。そのような母親の姿を見て、清作は猛勉強をしました。清作は、やけどでいじめに遭うことがありました。ある時はその様な自分を悲しみ、指をナイフで切り離そうとした事があったといいます。しかし15歳の時でした。学校の先生や級友が集めてくれたお金で、左手の手術を受け成功したのです。成功したと言っても自由に動くようになったわけではありませんでした。

  ★そのような時、彼の村に牧師の藤生金六が英語塾を開きました。1894年のことです。清作もその英語塾に通うようになりました。そして18歳の4月7日に、キリストを信じ洗礼を受けました。その教会の二人目の洗礼者として、当時の洗礼帳に野口清作の名が記され、今も残っています。その教会は現在の日本基督教団若松栄町教会です。当時、清作はクリスマスの手伝いや、日曜学校のカードを配る奉仕を熱心にしていたという話が伝わっています。彼は医学の道を目指していました。自分の手を手術した医学の力に感動したからです。まず自分の手を手術してくれた医院に住み込みで修業しました。そして1896年(明治29年)19歳の時に医師の資格を修得するために上京を決意しました。その時自分の家の柱に「志を得ざれば、再び此地を踏まず」と刻みました。そこから強い決心の程が読み取れます。東北本線の駅まで40kmの道を歩いて行ったそうです。

  ★東京に来た清作は、いじめに遭いながらも猛烈に勉強し、僅か一年で一回の試験で合格しました。1897年の清作20歳の時です。その後、順天堂医院に勤務。さらに北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務しました。その年22歳で英世と改名しました。23歳でアメリカに渡りました。そこで、フィラデルフィアに住んでいた熱心なクリスチャンのモリス夫妻と出会いました。この夫妻は、日本人留学生の面倒を熱心に見ておられる方で、明治のクリスチャン青年達の内村鑑三、新渡戸稲造、津田梅子らも大変お世話になった夫妻です。人種を越え親切にして下さるクリスチャンの姿を、モリス夫妻の姿から学んだのではないでしょうか。彼はペンシルベニア大学医学部、ロックフェラー医学研究所研究員、細菌学者として、数々の論文を発表し有名になっていきました。ノーベル生理学医学賞候補に3度も選ばれる程でした。そのような時、南米に黄熱病がはやりました。黄熱病は蚊によってウィルスが体の中に入り、高い熱が発生し体が黄色く変色し、やがて死亡する病気でした。野口英世はその黄熱病研究の為に南米のエクアドルに行きました。そこに行ったわずか9日目に、病原体を発見するという偉業を成し遂げました。その後、メキシコ、ペルー、ブラジルへと黄熱病の研究の為に渡りました。

  ★南米で終息した黄熱病は、次にアフリカで猛威を振るうようになりました。野口英世はアフリカ行きを決意します。しかしその時に体調を崩していた彼に、多くの友人がアフリカ行きを反対しました。そのとき野口英世は「人間は、どこで死んでも同じです」という言葉を残して、アフリカのガーナへと向かったのです。そして研究のさなかの翌年、彼自身が黄熱病にかかり、53才で召されました。

  ★1928年のことです。彼の遺体はアメリカに運ばれ葬られました。この時代に伝染病で死んだ者の遺体が、国外に運ばれ葬られることは考えられませんでした。しかし彼の遺体は、アメリカの強い要請によってアメリカに運ばれたのです。彼は日本の誇りであっただけでなく、アメリカの誇りでもあったことが解かります。彼は自分の人生を振り返って「自分が手の火傷をしなかったら、今の自分はなかっただろう」と言っていたそうです。彼の生涯は、青年時にイエス様に出会ったことに裏打ちされているように思います。私は彼の心を表わす聖書の言葉として、次の言葉を記しておきたいと思います。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO7「野口英世博士」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO6「白洋舎の創立者 五十嵐健治」

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO6 「白洋舎の創立者 五十嵐健治」                           2012年2月21日  ロマ12章19節 ロマ8章31節      仁井田義政 牧師 

白洋舎という有名なクリーニングの会社がありますが、その創立者は五十嵐健治と言う人です。この会社こそ、日本で初めてドライクリーニングを行なった会社です。彼は1877年3月14日新潟県の県会議員の子として生まれました。しかし8ヶ月で両親は離婚し、5歳で五十嵐家の養子となりました。彼は波乱万丈の生涯でしたが、その中でイエス様に出会ってクリスチャンとなり、それからの生涯は、最期まで熱心なクリスチャンとして活躍されました。

★五十嵐健治の青年期                                                                         彼は一攫千金を夢見て16歳で家を出て、各地を放浪して歩きました。そんな中、上毛孤児院(現、上毛愛隣社)の創立者クリスチャンの宮内文作氏に出会い「貧しい者たちにも食事が与えられるように」「親のない子をお守りください」との祈りに感動しました。しかし信仰はまだ芽生えることはありませんでした。1894年に日清戦争が勃発すると、17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して朝鮮半島に従軍します。さらに1895年のロシア ・フランス・ドイツによる三国干渉(清国に遼東半島を返せとせまった)の際には、ロシアに復讐するために北海道からシベリアへの渡航を企てます。ロシア潜入の準備に北海道に渡った健治でしたが、ある人に騙され北海道の原始林開拓の通称タコ部屋(監視付)に送り込まれ、重労動を強いられることになってしまいました。

★ キリストとの出会い                                                                                                                     ある朝そのタコ部屋から健治は寝巻一枚で脱走し、18里(約70キロ)の山道を逃げに逃げて小樽まで来ました。しかし彼は人生に絶望して小樽の海で自殺まで考えました。そのような状態で愛用聖書入った小樽の旅人宿で、一人の商人クリスチャンである中島佐一郎氏と出会いました。その宿での中島氏との信仰問答を通して、健治はキリストを信じました。すぐに彼は小樽の町の井戸端で、中島佐一郎氏によって洗礼を受けクリスチャンになりました。健治は、「私は洗礼を受けてから朝起きると先ず神に『今日一日を導いてください』と祈りました。何かあると神に『このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか』と相談しました。」と言っています。

★白洋舎の創立                                                                                                                               その後、彼は牧師になることを願って上京します。しかし神学校に入ることが出来ず、三井呉服店(現在の三越)に入り、三越の宮内省係となりました。しかしこの仕事では日曜日の礼拝が守られぬと、退社してしまいます。その後1906年(明治39)に白洋舎を創立しました。しかし当時、洗濯屋は人の汚れた着物を扱う職業として低く見られていました。彼は「人の汚れたものを綺麗にしてお返しする、これこそキリスト教徒の仕事にふさわしい」と言って起業したと言われています。その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」を掲げました。翌年、独力で日本初の水を使わないドライクリーニング開発に成功しました。また工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員に福音を伝えました。 

★五十嵐健治の晩年                                                         1941年に太平洋戦争が起ると社長の座を譲り、残りの生涯をキリスト教の伝道に費やしました。1956年には、病床にあった堀田綾子(後の三浦綾子)を尋ねています。後に三浦綾子は五十嵐健治の生涯を「夕あり朝あり」と言う題で書いています。1957年頃にはクリーニング業者福音協力会を起しました。五十嵐健治自身が書いた自伝『恩寵の木漏れ日』の中で、かつて白洋舎が危機にさらされた重大事件があったことが書き残されています。社員のMさんという人物が自分の処遇を不満とし、新たなクリーニング店を開業したことに始まります。その時、Mさんは白洋舎の従業員を煽動して、お得意先から預かった洗濯物をわざと破損したり、納期を遅らせたりして、白洋舎の信用を失わせたというのです。その上で、Mさんの新しい店にそのお得意さんを引きつけ、協力した白洋舎の従業員を新しい店に雇い入れることをしたのです。白洋舎の工場はほとんど休止状態に陥りました。当時社長であった五十嵐健治は、憎悪と復讐心で気が狂わんばかりになったといいます。しかし礼拝で祈っていると、イエス・キリストの十字架があざやかに映し出されたのです。「自ら復讐するな、仇を報ゆるは我にあり」「神もしわれらの味方ならば、誰かわれらに敵せんや」という言葉でした。五十嵐さんは何度も何度もこの聖書の言葉を思いめぐらしました。そして神様に信頼する道を選ぶことを決意したのです。一方、反逆したMさんの新しい店は、仲間割れを起こしたあげくに火災を起こし、預かった洗濯物を多数消失して、閉店に追い込まれました。それらの事があった後にMさんは「これも神様の罰であると思ってお詫びを申し上げます」と五十嵐さんに謝罪したと言います。彼の生涯は波乱万丈でした。しかしキリストに捕えられ、キリストと共に生きた素晴らしい人生でありました。私達も彼の竹を割ったような信仰に学ぼうではありませんか。

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO6「白洋舎の創立者 五十嵐健治」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO5「雨にも負けずのモデルか?斉藤宗次郎」

婦人聖研 聖書に触れた人々NO5  「雨にも負けずのモデルか?斉藤宗次郎」  

   ロマ12 章14節  2012年2月7日            仁井田義政 牧師

  宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩は、あまりにも有名です。宮沢賢治はその詩の中で「そういう者に私はなりたい」と記しています。そのモデルとなった人物が今日の斉藤宗次郎だと言われています。それは宮沢賢治と交流があった人物の中で、彼がこの詩の内容に最も近い生活をした人だからでしょう。しかしその真偽の程は私にはわかりません。ただ私も、斉藤宗次郎がこの詩の中の人物に最も近い人物であるという実感を持っています。

★斉藤宗次郎は1877年、岩手県花巻で禅宗の寺の三男として生まれました。やがて彼は小学校の教師となり、国粋主義的な思想の持ち主でありました。しかし内村鑑三の本に出会い感動し、聖書を読むようになりました。その後1900年の冬、23歳の時に洗礼を受け、花巻で初めてのクリスチャンになりました。斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは、12月の雪の降り積もった寒い朝の6時でした。洗礼の場所になった豊沢川の橋の上には、大勢の人が見物にやって来ました。基督教が「耶蘇(やそ)教」「国賊(こくぞく)」と迫害を受けていた時代だったからです。

(注)「耶蘇」とは中国語で「イエス」と読む字です。日本語聖書がなかった時代、日本人は漢文聖書を読みました。そして「耶蘇=イエス」を「ヤソ」と読んだのです。それが当時はキリスト教への軽蔑語として使われました。

 ★洗礼を受けた斉藤宗次郎に対して、花巻の人々は冷たくあたりました。親からさえも勘当され、生家に立ち入るのを禁止されました。また彼の長女の愛子ちゃんは、学校で耶蘇の子供と呼ばれ腹をけられ、腹膜炎を起こして看病のかいもなく数日後に死亡しました。たった9歳の少女でした。人々に何も悪いことをしたわけではないのに、斉藤家族は迫害されたのです。宗次郎はまた、日露戦争に反対したということで岩手県教育会から追放され、小学校教師の職を追われてしまいました。

 ★教職を追われた後、彼は新聞配達をして生活しました。彼は新聞を配りながら、一軒ごと家の前で立ち止まり、その家の祝福を祈りました。朝3時から夜9時まで働き、その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時としました。そのような厳しい生活の結果、ついに結核にかかり幾度も喀血たといいます。しかし不思議と体は支えられ、そのような生活が20年も続きました。朝の新聞配達の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけました。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走って届けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けたのです。新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。

 ★そのような生活の中でも、宮沢賢治と農学校での親しい交流がありました。新聞配達も20年という年月になる頃、内村鑑三の要請を受けて、宗次郎は東京に出る決心をしました。宗次郎は自分を見送ってくれる人は一人もいないだろうと思いつつ駅に向かいました。ところがその駅には、花巻の人達が大勢見送りに来ていたのです。その中には町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、 神社の神主や僧侶までもいました。さらに一般の人たち、生徒たちも来て駅じゅう人々でごったがえしていたというのです。人々は宗次郎がふだんからしてくれていたことを見ていたのです。東京に来て花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものであったといいます。

 ★斉藤宗次郎は、内村鑑三を師と仰いで                (内村鑑三が花巻に来た時の写真)  いました。当時、内村鑑三を師と慕う人は多数いたのです。しかしまた内村鑑三に師事しながら、彼のもとを離れていった人々も多くありました。内村鑑三は、「聖書の研究」という著の中で「弟子をもつの不幸」という文を書いています。そのような中で、斉藤宗次郎は内村鑑三の臨終に立ち会い、最後まで弟子であり続けた人でした。彼は内村鑑三の死後、内村鑑三の著作を出版することに全力を注ぎました。斉藤宗次郎が宮沢賢治から手紙を受け取った5年後に、「雨にも負けず」の詩が書かれたことが分かっています。この詩は宮沢賢治が病床で書いた詩であり、遺稿と言われているものです。彼の死後、彼のカバンから発見された手帳に書かれていました。

 ★この詩のモデルが斉藤宗次郎であると言うことの決定的証拠はありません。しかし宮沢賢治の周りにいた人物で、この詩の人物にぴったりと当てはまるのは斉藤宗次郎であることも事実です。真偽は別にしても私達は、斉藤宗次郎の生涯から、聖書の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」(ロマ 12:14) の言葉が聞こえてきます。宮沢賢治は「雨にも負けず」の詩の最後に、「そういう者に私もなりたい」と記しました。イエス様の教えを生き抜いた斉藤宗次郎の生涯に学んで、私達も「そういう者に私もなりたい」と主の前に祈ろうではありませんか。

 「雨にも負けず」  宮沢賢治 作      

雨にも負けず、風にも負けず、     

 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、     

  決して怒らず、いつも静かに笑っている。

  一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ  

らゆることを自分を勘定に入れずに  

 よく見聞きし分かり、そして怒らず    

 野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、

東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、  

 西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、 

 南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、  

 北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、 

 日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、  

苦にもされず そういう者に私はなりたい

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO5「雨にも負けずのモデルか?斉藤宗次郎」 はコメントを受け付けていません。

聖書に触れた人々NO4「作曲家 滝 廉太郎」

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO4「作曲家 滝 廉太郎」2012年1月31 日

                                                                         ヨハネ7章38節            仁井田義政 牧師

    作曲家の滝廉太郎がクリスチャンであったことは、日本のクリスチャン達の中でさえ知られていないことが多いのではないでしょうか。しかし彼は間違いなく、明治期のクリスチャンでありました。今日は「クリスチャン滝廉太郎」をクローズアップしてお話ししましょう。

★彼は15歳で東京音学学校(現・東京芸大)に入学し、1898年(明治31年)本科を首席で卒業しました。その後、研究科に進み、翌年音楽学校嘱託となります。彼にピアノを教えたのは、ロシア人ケーベル博士で、東京帝国大学で哲学を教えるとともに、ピアニストでもあり、彼のピアノの指導はチャイコフスキーだったといいます。東京音楽学校でも教えていました。そこで、滝廉太郎は彼からピアノを学んだのです。 滝廉太郎は1900年10月7日、つまり東京音楽学校の生徒の時代に、当時麹町にあった博愛教会の元田作之進牧師により洗礼を受けました。廉太郎を博愛教会に導いたのは、東京音楽学校の同級生高木チカという女性でした。「日本聖公会」博愛教会は、世田谷の砧に移り、名前も変わって「聖愛教会」という名前で現在も存在しています。

★滝廉太郎の曲で私達に親しみの深い曲のひとつは『荒城の月』でしょう。この曲の歌詞は土井晩翠(つちい ばんすい)によって書かれました。土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、夫人と娘はクリスチャンでした。東京音楽学校が「中学唱歌」のための曲を懸賞募集しました。それに応募した滝廉太郎作曲の『荒城の月』や『箱根八里』『豊大閣』が入賞しました。その時の賞金は1曲5円で、合計15円を得たと言われています。滝廉太郎はその時代、教会で青年会の副部長をし、礼拝の時にはオルガンで賛美歌の伴奏をしていたそうです。

作曲者の滝廉太郎と作詞者の土井晩翠の『荒城の月』にはちょっとした繋がりがあるようです。前にも話しましたが、土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、奥さんと娘さんが熱烈なクリスチャンでした。晩翠の娘、照子は27歳の時に結核で亡くなりました。臨終の時に、照子は自分のことで悲しんでいる父に、テニスンの詩を読んでもらったそうです。その詩の言葉を通して、彼女は父に「お父様、私の死を悲しまないでください。私は天国でイエス様にお会いします。そして、そこでお父様のために祈り続けます」と言いたかったのではないかと、大塚野百合氏は著書に書いています。晩翠の歌詞は無常観のみでなく、この世には変わらないものがあると言うことを、『荒城の月』の歌詞の中に書いています。     (注 なお彼の苗字はもともと「つちい」と読むのだが、頻繁に「どい」と誤読されるため、1934年に自ら「どい」と改名することを宣言した。)

★滝廉太郎はその後、ドイツのライプチヒ王立音楽院に留学しました。しかし二ヶ月後に肺結核を発病してしまいました。1902(明治35)年の11 月下旬に日本に帰国し、大分の父母のもとで療養しました。しかし1903年6月、彼は23歳10ヶ月という若さで召されました。墓地は大分市内の臨済宗万寿寺境内にあります。肺を病んで終わったことで、葬儀は近親者のみで行われました。しかし参列者の中に、聖公会宣教師ブリベ夫妻の姿が見えたといわれています。

★日本の歌の中で、荒城の月は不動の位置を保っている有名な曲です。またそのメロディはロシア正教において認められました。ロシア正教会の修道院の礼拝にふさわしいとされ、修道院は「荒城の月」を聖歌に加えたのです。彼はクリスチャンになってからの生涯が数年だったせいか、一曲の賛美歌も作曲して残してはいません。また彼のクリスチャンとしての記録も、その教会が焼失してしまったので失ってしまいました。また家族が教会員でなかったために、お墓もお寺に作られました。そのようなことが重なって、彼のクリスチャンとしての部分は、歴史から埋もれてしまったように思います。しかしロシアの教会が、彼のメロディは礼拝にふさわしい調べであると、再び彼を教会の祝福の流れに引き戻したのです。彼の感銘を受けた聖書の言葉が何であったのかも、分からなくなっています。

ですから今日は私が彼の生涯を調べながら心に浮かんできた聖書の言葉を、クリスチャン滝廉太郎にまつわる言葉として記させて頂きます。

「 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:38

クリスチャン滝廉太郎の心の奥底からもキリストの生ける水が流れ始め、日本人である私達の心のメロディとなっているだけでなく、ロシアの教会の中にもクリスチャン滝廉太郎のメロディが祈りの歌となって流れ続けています。日本のクリスチャンは滝廉太郎を誇るべきだと思います。

カテゴリー: 未分類 | 聖書に触れた人々NO4「作曲家 滝 廉太郎」 はコメントを受け付けていません。