聖書に触れた人々NO23「日本人最初の聖書の翻訳者ヤジロウ」

聖書に触れた人々NO23「日本人最初の聖書の翻訳者ヤジロウ」2013年1月22日                                                                                                                          仁井田義政 牧師  

 今年も、婦人聖研では聖書に触れた人々をお話ししていきたいと思います。さて、キリスト教を日本に最初に伝えたのがフランシスコ・ザビエルであることは、学校の歴史教科書で誰もが習ったことです。しかし、そのザビエルから最初に洗礼を受けた日本人については、あまり知られていません。その人はヤジロウ(矢次郎)と言う人です。彼はインドのゴアで、ザビエルから洗礼を受けました。今日はこの人のことを取り上げてお話ししましょう。私達が持っている日本語訳の聖書にも、歴史があります。フランシスコ・ザビエルが持ってきたであろうヤジロウ訳の「マタイの福音書」こそ、日本語の最初の聖書でした。彼はインドのゴアで日本人のヤジロウという青年に出会い、日本伝道の決意をしました。そして1549年(天文18年)に、マタイの福音書をもって鹿児島に上陸したのです。

★ヤジロウは薩摩(鹿児島県)の出身です。その彼がなぜインドにいたのでしょうか。彼の日本での職業は商人でした。日本の士農工商という身分制度の中では、一番身分が低い立場でした。彼は、仕事上のトラブルから仲間と喧嘩となり、その人を殺してしまったのです。殺人という罪を犯してしまった者は、刑罰として死刑になる可能性がありました。そこで彼は、家族と家来を連れてインドへと逃亡したのです。

★ヤジロウとザビエルは、1547年の12月にマラッカで出会いました。翌年の1548年5月20日にヤジロウは、家族と家来全員でザビエルから洗礼を受けたのです。その日はペンテコステの日でした。ところはインドのゴア市の大聖堂でした。その後ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院でキリスト神学を学びました。ザビエルはヤジロウにキリスト教を伝え、ヤジロウからは日本の様子を聞きました。その事によって、ザビエルは日本伝道を決意したのです。ヤジロウはザビエルの要請によって和訳聖書の翻訳に協力しました。そうして翻訳されたのは「マタイの福音書」等の部分的なものでした。しかしそのマタイの福音書が、ザビエルの日本伝道に大きく貢献したことは間違いありません。ヤジロウもザビエルと共に帰国し、故郷の薩摩に上陸しました。逃亡から僅か三年後のことでした。ザビエルの日本滞在はわずか2年3カ月でした。しかしその伝道の発展は目覚ましく、山口ではわずか5ヶ月間で500人の信者を得るという驚異的な成果を見たのでした。この様な目覚ましい伝道に、ヤジロウ訳の聖書がどれほど力を発揮したかは計り知れないものだったでしょう。残念なことにヤジロウの訳したその日本語訳聖書は、現在は断片すらも残っておりません。どこかで発見されて欲しいものです。

★日本人最初のクリスチャンは、殺人犯のヤジロウという逃亡者であり、最初の日本語聖書「マタイの福音書」の翻訳者も、ヤジロウという人の訳であったことを知りました。その逃亡犯がキリストの福音によって救われ、帰国の危険を顧みず日本人の救いの為に、ザビエルと共に帰国する決意に至ったことを考えると、人間に及ぼすキリストの福音の力は驚くばかりです。ヤジロウは命を顧みず、ザビエルと共に日本伝道に燃えたのです。

ヤジロウの生涯を学び「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ 15:10)の御言が浮かんできました。ヤジロウはキリストの救いに触れた時に、命の為に逃げ回るという逃亡生活に終止符を打ち、命よりも大切なものに命をかけたのです。私達もクリスチャン・ヤジロウに学びましょう。

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聖書に触れた人々NO22「犯罪者から伝道者になった人、好地由太郎」

聖書に触れた人々NO22「犯罪者から伝道者になった人、好地由太郎」2012年11月20日                                                                                                                               牧師 仁井田義政                            

  聖書に触れた人々NO20で、ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXの創業者、森村市左衛門(6代目)の話をしました。彼は晩年に好地由太郎という巡回伝道者の説教を喜んで聞いて、その人から洗礼を受けクリスチャンになったのでした。その好地由太郎こそキリストを信じて重罪犯から伝道者になったという驚くべき変化を体験した人なのです。

 ★好地由太郎(こうちよしたろう)の幼少時                                   好地由太郎は、慶応元年(1865)5月15日に上総国君津郡(千葉県君津市)金田村に大村八平の三男として生まれました。由太郎の他に兄が2人、姉が1人いました。しかし明治7年(1874)父と母は別れてしまいました。母と由太郎は、住む家も無く物置同然の小屋で雨露をしのぐ生活をしました。その母とも10歳の時に死別してしまいました。育ててくれる人もなく、父親の残していた借金のために同じ村の農家に引き取られ、労働力として4年もの間、奴隷のように働かされました。 

 ★好地由太郎の犯罪                                                           14歳になると好地由太郎は上京し、父親を捜しました。父親を探し出すと、父親は荷物船を所有して貨物の運搬業を営んでいました。その父を手伝い働きました。また父親と別れた時、父親に連れられて行った実姉の家も見つけ出し、同居することになりました。父親が死ぬと、姉の夫で新聞記者・好地重兵衛(芝教会役員)の養子となりました。好地由太郎は都会の悪にだんだんと染まって行き、店の金を持ち逃げしたりして職を転々としました。そして最悪の犯罪を起こしてしまうのです。それは明治15年(1882)18歳の時でした。彼は日本橋蛎殻町の店に雇われたのですが、そこの女主人を強姦し放火したのです。彼は強姦と放火と殺人の罪を犯したのです。牢獄の中でも犯罪者達に恐れられ牢名主となって、房内の囚人全体を仕切りました。

 ★好地由太郎のキリスト教との出会い。                                                  彼のいる刑務所に一人の青年が入って来ました。牢名主の好地由太郎は、新参者への当然な習慣として「娑婆でどんな事をしてここに来たのか」と聞きました。しかし青年は「私は何もしていません」と言うばかりでした。何もしないでここに来るはずがないと、囚人みんなで青年を袋叩きにました。すると青年は「私は死んでも天国に行くから良いが、あなたがたは地獄に行くから可哀想だ」というではありませんか。騒ぎを聞きつけて看守が入って来て、青年を連れ出しました。その時、好地由太郎は彼の袖をつかみ「どうすれば君のような心になれるのかと」と聞きました。すると「キリスト教の聖書を読みなさい」と一言残して出ていきました。実はこの青年は路傍伝道をしていたところ、警察にやめるように注意されたのですが聞き従わなかったので逮捕され、間違って重犯罪者の房に入れられてしまったのです。そのことが分かり、20分か30分の後に釈放されています。その青年の言葉が気になり、好地由太郎は姉に頼んで聖書を差し入れてもらいました。しかし好地由太郎は、文字が読めなかったのです。自然と聖書から遠ざかってしまいました。 

 ★ くりかえした脱獄と脱獄計画                         彼は死刑の日を待つ身でした。後に無期懲役に減刑されたにも関わらず脱獄を繰り返し、逮捕されては刑務所に逆戻りしました。そのような北海道の刑務所暮らしの中で、不思議な同じ夢を三度もみました。明治2年(1889)1月2日の夜のことでした。子供達が現れて「若者よこの本を食せよ」と語りかけました。しかし彼は文字が読めず、その聖書が読めなかったのです。 

 ★文字の勉強と聖書の暗記                                                            彼は文字の勉強をして聖書を読もうと決心しました。すると囚人達の彼に対する迫害が多くなってきました。それでもなんとしても聖書を読もうと勉強を続けました。ついに誰にも邪魔されないように、独房入りを願ったのでした。ついに3年間でほぼ新約聖書を暗記してしまいました。さらに4年間の独房生活で、旧約聖書もほぼ暗記してしまいました。しかし彼には無期懲役に加えて、脱獄等の罪の9年までもある身だったのです。さらに減刑があったようで、出獄の時がやってきました。明治37年(1904)のことです。彼は釈放されました。彼は釈放後、キリスト教伝道者の中田重次らと共に、各地を伝道して回りました。たくさんの人達が彼の伝道によって救われました。その中の一人がノリタケの創業者、森村市左衛門です。彼は好地由太郎のファンでした。洗礼は好地由太郎先生にして頂くと決めて、洗礼を授けて頂いたほどです。 

 ★神様は、文字の読めなかった好地由太郎に聖書を与え、文字を教え、多くの人々の伝道者としました。彼の伝道によって、学者や実業家に至るまで多くの人々が救いに導かれたのです。極悪人・好地由太郎が、聖人・好地由太郎になったのです。人間的に見れば害にしかならないように見える人でも、イエス様は神の人とすることが出来るのです。イエス様の人間を作り変えるお働きは今も続いています。ミッションバラバなどの存在がその良い例でしょう。

 今日の話に相応しい聖書の言葉を挙げておきます。

マタイ 3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

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聖書に触れた人々NO21「パイオニアの創立者 松本望氏」

聖書に触れた人々NO21「パイオニアの創立者 松本望氏」2012年11月6日                                                                                                                                仁井田義政 牧師

松本望は、音響で有名な株式会社パイオニアの創立者です。彼は、1905年(明治38)松本勇治牧師の次男として神戸で生まれました。今日は、そのパイオニアの創立者松本望の生涯をお話し致しましょう。

★松本望の生涯を話すにあたって、彼の父親である松本勇治のことを抜きに話すことはできません。彼の父親の生れた時の名字は片柳でした。つまり彼は栃木の片柳家に生まれたのですが、本家の松本家に子供がいなかった為に養子となり、松本姓になったのです。彼は函館商業卒業後、貿易商を夢みてアメリカに渡りました。そこで熱烈なクリスチャン松岡洋右(後の外務大臣)に会いました。その強い影響を受け、聖書の研究に没入し、クリスチャンとなりました。貿易商になるどころか熱心な牧師になった彼は、アメリカにおいても伝道に命をかけました。その後、養父の家がある栃木に帰ってきましたが、即座に養父から「耶蘇バカ」と反対され勘当されてしまいました。それでも栃木で伝道しました。その時の生活は貧しかったようです。その後、役場の書記をしていた菊池ケイという女性を見染め結婚しました。その新婚旅行でさえ徒歩による伝道旅行だったそうです。その「耶蘇バカ夫婦」の次男として、松本望が生まれました。「私は父の信仰をそのまま受け継いだ」ということを松本望が自ら書いています。

★松本望が生まれた時 (明治38年5月)には、家族は神戸市三ノ宮に移っていました。神戸に移り住んでからは松本牧師の家はそんなに貧しい状態ではなくなったようです。しかし父勇治は、子供達に「幼いときから勤労の精神を養っておかねばならない」と、小学3年生の頃から新聞配達、夜は床屋の見習い、牛乳配達と仕事をするように申し渡したと言います。しかも家の入口には「牛乳配達所」と看板を掲げて、仕事の責任を教えたそうです。やがて望青年はラジオの製作会社に入社し、10年務めました。彼の趣味は、自分手製のラジオで神戸港に入港している外国船からの無線傍受でした。松本望の幼少から青年期は、父の松本勇治牧師の影響が大きかったようです。松本勇治牧師が洗礼を授けた人達の中には、やがて聖書学者となる黒田幸吉や東大総長となる矢内原忠雄がいました。そういう意味でも、日本のキリスト教歴史にも大きく貢献した人物なのです。

★ラジオ製作会社に勤めて10年目ぐらいの時なのでしょうか。あるキリスト教関係の団体から「あなたの人柄を見込んで、独立資金を援助しましょう」という話が来ました。彼は独立を決意しました。会社名を「福音電機製作所」と命名し独立しました。昭和12年のことです。福音とは「キリストのよき知らせ」のことであり、私は音を通して世に貢献するという決意が込められていました。さらに昭和14年東京に進出し、音羽に「福音電機製作所」の看板を掲げました。しかし奥さんが機械のコイールを巻くという家内工業的なものでした。昭和22年には、さらに会社は拡大を続け「福音電機製作所」の名前を変え「福音電気会社」となりました。さらに発展を続け、昭和36年に社名を現代の「パイオニア株式会社」と命名しました。

★パイオニアの社名のように、松本望は音の分野の開拓者であることを社訓のひとつとしています。そのことを現すエピソードが残っています。パイオニアがレーザーディスクを世界に先んじて作った時でした。最初その製品は全くと言っていいほど売れなかったそうです。その時の松本望は、弱気になっていた社長や社員に「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。あわてるな!」と言って励ましたと言うのです。今やレーザーディスクの無い家を探すのが難しい程になっていますね。松本望は1994年7月15日、83歳の天寿を全うして召天しました。松本望は、父親のつけてくれた名前がとても気に入っていたようです。「いつも名前の望がどんな時にも一筋の希望を与えた」と言っています。また松本家の墓標には『されど、われわれの国籍は、天にあり』という聖書の御言が刻まれています。

今日の御言は、松本望の名に入っている聖書の御言「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハ 15:7)をあげておきましょう。この御言のように、どんな時にも希望を持って生きましょう。

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聖書に触れた人々NO20「ノリタケの創業者森村市左衛門」

聖書に触れた人々NO20「ノリタケ創業者森村市左衛門」 2012年10月30日                                                                        仁井田義政 牧師 天保10年(1839.12.2)10月27日~大正8年(1919)9月11日     (6代目)森村市左衛門と聞いて、わかる人は少ないのでしょう。しかし彼の起こした企業名の、ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXなどの社名を聞いて知らない人は少ないでしょう。さらにその起業者である森村市左衛門が熱心なクリスチャンであったということは、クリスチャン達にもあまり知られていないのではないではないでしょうか。私は陶器のオールドノリタケが大好きです。大好きですが、それをひとつも持ってはいません。その理由は高額だからです。でもパソコンなどでオールドノリタケの美しい絵皿などを見ては「何と美しいのだろう」とうっとりしていました。そのノリタケの創業者がクリスチャンであったとは。さて、今日はその森村市左衛門の事をお話し致しましよう。

★彼がクリスチャンとしてあまり知られていない理由の一つは、彼がクリスチャンになったのが、召される僅か2年前のことであったからかもしれません。彼は好地由太郎という巡回伝道者の話を好んで聴き、洗礼を受けました。77歳頃のことです。

★クリスチャンになる以前の森村市左衛門は、出家を考えたほどの仏教徒だったといわれています。彼は様々な企業を設立し、それで得た多額な利益を用いて、日本の社会に貢献すべく活躍していました。慶応大学校舎建築の為にも、日本女子大学校舎建築の為にも、多額の寄付を行ないました。特に彼は、当時遅れていた女子教育に協力し、多額の寄付をしたようです。ただ企業家として利益を追求するだけでなく、社会貢献を大きな目的としていたようです。

★彼は、陶磁器の貿易で海外と接し、アメリカでも販売しました。真偽のほどはわかりませんが、その時のひとつのエピソードが伝わっています。それによると、彼がニューヨーク支店へ出張した時のことでした。そこの支店を視察中に、薄暗い地下室で一生懸命働いている青年社員がいました。荷造りや発送の仕事を一生懸命しているのです。それから一年後、またその支店を訪れると同じ地下室で、その青年社員が同じ仕事を熱心にしていました。感心してその青年社員に話しかけてみると、京都の同志社大卒のクリスチャン青年であることがわかりました。どんな仕事も進んでやるという模範的な青年社員でした。それまで森村社長は仏教の信者でしたが、この青年社員の仕事振りに感動して教会に通うようになったといいます。およそ70歳の時でした。そして77歳の時に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

★森村市左衛門は、クリスチャンになってからひたすら伝道活動をしました。日本基督教団西千葉教会の記録には「1918年(大正7年)1月。前年の東京湾台風によって倒壊した建築中の新会堂の献堂式。新渡戸稲造、森村市左衛門、内村鑑三各師、講演」と記されています。またホーリネス教団の創立者である中田重次らと伝道して各地を回りました。そして短いクリスチャン生涯でしたが、世の成功を収めた者がクリスチャンとなり伝道者となったと言うことは、日本のキリスト教史にとって、とても価値のあることであったと思います。人生の目的を追求した森村市左衛門の人生の完成に、キリスト教があったのです。イエス様の言葉に「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハ 3:21)と言う言葉があります。森村市左衛門の真理を求めた人生の先で、光であられるイエス様に到達したのです。誰でも真理を求め続ける人は、イエス様に到達するのです。そういう意味で今日の御言葉として記します。

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聖書に触れた人々NO19 「会津っぽ 新島八重の生涯」

聖書に触れた人々NO19「会津っぽ 新島八重の生涯」2012年10月16日仁井田義政牧師 

 福島県人が会津の人の気質を表わす言葉に「会津っぽ」という言葉があります。それは会津人の一徹さ、頑固さ、一度決めたら揺るがない、そのような気質を一言で表わす言葉です。最近、にわかに新島八重の人気が高まってきました。2013年の大河ドラマの主人公に選ばれたからです。時は江戸末期となった頃の1845年、会津藩の砲術師範、山本権八(ごんぱち)・佐久夫妻の子として、会津若松市に生を受けます。八重は、やがて同志社大学創立者の新島襄と結婚し、新島八重となります。しかし新島襄と結婚する前の事ですが、あの白虎隊で有名な戊辰戦争に、何と男として戦いに加わっていたのです。その新島八重はやがてクリスチャンとなりました。その生涯は会津魂に貫かれた波乱万丈の人生でした。                                   

 ★10数年前、私達夫婦は会津を訪ねたことがあります。そこには、会津の武士の子供達を教育した学校がありました。その子供達への当時の訓戒が残っていました。「女・子供の言うことを聞いてはなりませぬ。」等と言う、現代人がギョッとするような言葉もありました。そのような訓戒の終わりだったと思いますが「ならぬことはならぬものです」とありました。「問答無用。やっていけない事はやっていけないのだ」とでも訳すべきでしょうか。これが会津魂です。そのような風土に八重は生まれたのです。

 ★八重が9歳の頃、1853年アメリカの軍艦「黒船」が開港を迫って浦賀に来ました。そのような激変する日本の1865年(慶応元年)、19歳か20歳の時に川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)と結婚しましたが、その三年後に離婚しています。その時は戊辰戦争真っ只中でした。1867年大政奉還が行なわれ、江戸城を徳川が明け渡すという日本史の大激変が起こりました。しかし会津藩は最後まで徳川幕府に着き、次の年に戊辰戦争を起こして新政府軍と戦いました。その戊辰戦争には、女性も子供も新政府軍と戦いました。女性は薙刀で戦うのが普通でしたが、山本八重は髪を切り、男装し刀を差し、スペンサー銃を手に戦ったのです。しかし、少年達で編制された白虎隊も飯盛山で自害し、会津藩はついに新政府軍に敗れました。戦いに敗れた山本八重が、城を去る時に詠んだという歌があります。「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影」。戦いに敗れて城を去る八重の無念な思いがこもっています。徳川幕府に仕える幕臣として、最後まで自分を変えないで戦った、それが会津魂を表わしています。

 ★山本八重は失意の中に生き残った家族と共に、京都にいる兄の山本覚馬を頼り、明治4年に京都へと向かいました。八重は、兄の影響で今度は勉学に一生懸命励みました。特に西洋の思想を学ぼうと、英語の学びに力を注いだのです。その英語の学びの為に行っていた医療宣教師ゴードンの家で、最愛の人・新島襄と出会ました。ゴードン宣教師は新島襄がアメリカで学んだ神学校、アーモストカレッジの先輩だったのです。新島襄は、まだ日本が鎖国であった時、日本から密出国してアメリカ留学に行った人です。彼は聖書の創世記を読んで感動し、天地万物の創造者である神を日本の若者達に教えたいとの思いに満ちて帰ってきました。襄と八重は魅かれ合っていきました。明治8年10月15日八重は新島襄と婚約しました。そして翌年の明治9年1月2日京都で洗礼を受け、最初の人となりました。そして洗礼式の翌日に、デビス宣教師の司式で結婚式を挙げました。襄32歳、八重30歳でした。この二人が、京都初のプロテスタントのキリスト教式で結婚式を挙げた人となったのです。二人は力を合わせ、京都の仏教会の猛反対の中、同志社を設立しました。八重の兄、山本覚馬はそのために6000坪の土地を提供しました。

 ★その新島襄も明治23年1月23日、八重に「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」と最期の言葉を残して、47歳の生涯を終えたのでした。わずか14年の結婚生活でした。八重は襄の死後、また新しい分野へと乗り出しました。日本赤十字社の社員となったのです。そして日清戦争が起こると、従軍看護士となって救護活動を開始しました。また日露戦争が起こると、すぐに従軍看護士として活動しました。58歳の頃でした。

 また、同志社の学生達を愛し、社会活動も活発にしていました。しかし昭和7年7月15日のこと、急性胆嚢炎がもとで八重は87歳の生涯を終え、天に召されたのでした。このとき八重は全ての財産を同志社に寄付しました。新島襄は、男勝りの八重をクリスチャンとして心から愛おしみ、また八重も新島襄の下でクリスチャンとして会津魂を貫き通した生涯を生きたのでした。会津の武士の子を育てる訓戒の中に、前に話した「ならぬことはならぬものです」という会津人の一徹さを表す言葉があります。それはクリスチャン魂ともそのまま寄り添う言葉でもあります。そこで今日は、Ⅱ歴代 34:2の「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」という御言葉をあげておきたいと思います。まっすぐな生き方を八重の生き方と共に、しっかりと心に止めようではありませんか。

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聖書に触れた人々NO18 「林歌子の生涯」

聖書に触れた人々NO18 「林歌子の生涯 2012年10月2日                                                                                                                      仁井田義政

日本の歴史は、自然と現代まで流れて来たと思ってはなりません。特に古い考え方から、現代の日本となる過程においては、多くの人々の血と涙の戦いがあったのです。歴史を変えた人々と言うと、女性達の働きが取り上げられることはあまりありませんでした。しかし日本の歴史を変えた人々の中には、多くの女性達もいたのです今日はその女性の一人、林歌子の生涯を掘り起こしてお話し致します。

★林歌子は、元治元年(1864年)福井県大野市の大野藩士の家に生まれました。藩士の家と言っても下級武士の家だったそうで、経済的にはそう豊かではなかったようです。歌子は、まだ3歳の時に母を失ってしまいました。その後は、義理の母に育てられました。父親は歌子をことのほか可愛がり、歌子がやがて学者になるようにと、貧しいながらも学問に進むようにと教育を与えました。歌子も父の願い通りに福井女子師範学校に進み、師範学校を卒業し、16歳で小学校教師となりました。その後20歳で結婚し一児をもうけましたが、すぐに離婚してしまいました。その後すぐに愛児も失い、失意の中に上京しました。そこで牧師ウィリアムズと出会い、彼の話によって「人権尊重の思想」に触れて、まさに目から鱗が落ちる体験をしました。また歌子は立教女学院教師となり、さらにキリスト教に接し洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

 ★歌子は礼拝に通っていた東京神田教会で、信仰の友となる小橋勝之助・実之助兄弟と出会いました。そしてその二人の兄弟の熱い夢に心が動かされました。その夢とは、小橋の故郷に孤児院を創るという夢でした。当時、貧しさゆえに親から捨てられる子供たちがいたのです。林歌子はその小橋兄弟の要請を受けて、明治25年(1892)に、兵庫県の矢野村に行って、孤児院「博愛社」を助けました。「立教女学院教師」の立場を投げうって、孤児達の為に働く仕事を始めるという歌子に、父親は猛烈に反対しました。しかしその決意は変わらず、矢野村で「博愛社」の活動を続けました。しかしまわりの人々からは変人扱いされ、何か隠された思惑があるのだろうと噂を立てられました。その村の小橋兄弟の実家からも反対され、活動は困難を極めました。そのような中で、小橋勝之助が病死してしまいました。間もなく矢野村での活動に終止をうって、大阪に出ました。そこで昼間は畑仕事をし、夜は夜学の教員をして孤児達を育てる活動を開始しました。そして明治32年(1899)大阪の淀川区に博愛社を設立し、多くの孤児達を育てました。

★大阪の博愛社の活動が軌道に乗ってきた頃、小橋実之介に嫁さんを迎えました。その夫婦に博愛社をゆだねて歌子は渡米しました。明治38年(1905)のことです。そのアメリカで、歌子はキリスト教の「万国矯風会大会」に参加し、愕然とするのです。それは、アメリカの女性達と日本の女性達の立場が全く異なっていたからです。日本の婦人の立場は、「子供の時は父親に従え、結婚したら夫に従え、歳をとったら子供に従え」と言うものだったからです。夫のどんな暴力にも耐えて従うというのが、当時の女性の姿でした。そのような古い日本の女性観に怒りを感じました。また当時は、政府承認の遊郭が日本中にあり、女性達は親の借金の為にそこに売られたりしたのです。女性はそのような仕打ちを受け、男達は遊郭で遊び、何人もの妾を持つことが男の甲斐性のように言われていた時代なのです。そのような男中心の社会で、女性達はじっと我慢を強いられるような状況に、歌子は納得できませんでした。そのように女性が我慢するしかないのは、女性達に経済力がないからだと考えました。そのような女性達に経済力をつけるために「大阪婦人ホーム」を作り、夫の暴力や、遊郭から逃げてきた女性達をかくまい、職業訓練を与え、職業斡旋まで行ないました。

★また歌子は「大阪矯風会」設立しました。そして遊郭廃止運動を開始しました。明治42年7月31日の事です。大阪北部地区に大火がありました。その大火はその地域にあった「曽根崎遊郭」を全焼したのです。その数日後、林歌子は遊郭再建反対運動を立ち上げました。その公演には1000人、2000人と聴衆が集まりました。歌子は売春の非人間性と遊郭業者の非道ぶりを徹底して訴え、人々の共感を得ました。その甲斐もあって、その年の9月1日、ついに大阪府知事は曽根崎遊郭の廃止を発表したのです。歌子達は運動の勝利を喜びました。しかし、裏ではその代替地として、大阪市西成区の「飛田新地」に遊郭が作られることになっていたのです。林歌子達は再び反対運動を展開しました。そして多くの人々の賛同を得たのです。今度も勝利するかに見えました。しかし大阪府知事は遊郭建設を認可し、直ちに辞職してしましました。逃げたのです。その土地は、曽根崎遊郭の三倍もありました。完成直後も、林歌子達はハンドマイクをもって「遊郭ハンタイ、絶対ハンタイ」と叫び、遊郭の周りを回りました。しかしその声は、華やかな遊郭にむなしく響くばかりでした。

★林歌子は「飛田新地遊郭反対運動」が失敗に終わったのは、大阪府の議員に遊郭の利権者が多数いたことに原因があると知りました。これではいくら反対運動をしても、どんなに市民の署名を集めても、無駄であることがわかりました。この事を打破するためには、男だけの議会では解決が出来ない事を痛感し、自分達女性が政治と関わらなければならない事に気付きました。そこで今までの戦略を変え、婦人参政権獲得運動へと向かったのです。「遊郭」の「郭」とは高い塀に囲まれた場所を意味する文字で、その文字通りに遊郭は遊女達が逃げられないように、高い塀で囲まれ、厳重な門が設けられ監視されていたのです。そこに入ったら最後、決してそこから出られなかったのです。大正12年に起こった関東大震災の時、東京にあった吉原遊郭の遊女達は、大火に追われて弁天池に飛び込み490人が溺死しました。遊女達が逃げるのを防ぐために、遊郭の門を閉じてしまったからです。また、吉原遊郭の近くの浄閑寺は、投げ込み寺と呼ばれていました。死んだ遊女達が裸で投げ入れられたからです。1664年から遊郭廃止までに、2万人以上の人達が投げ込まれました。遊女達の平均寿命は21.7才であったと言われています。そのことから見ても、そこでの生活は心身共に想像を絶するものであったと思います。

★その遊女達は、自分から欲して遊女になった人は一人もいません。貧しい東北の農家からの出身者が多かったのです。借金などで、親に売られてきた人達なのです。そこでひたすら管理され、男のお客を取らなければなりませんでした。なんと残酷なことでしょう。その遊郭での売買春は、昭和32年(1957)まで認められていました。遊郭は政府公認の売春の町だったのです。それは、遠い昔の話ではありません。今からわずか50年あまり前のことであり、戦後12年も続いていたのです。貧しさゆえに孤児にされた子供達の救済と、貧しさゆえに遊郭に売られて来た女性達の救済のために、そして女性達の地位向上のために、命を懸けた女性がいたのです。その人の名が林歌子だったと言うことを覚えておきましょう。そしてそのように林歌子の心に熱い愛を与えたのは、20歳の時に信じたイエス・キリストなのだということも覚えておきましょう。林歌子の自筆で「涙と汗」という字があります。それにちなんで、今日の御言葉はローマ書12章15節の「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」にしましょう。

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聖書に触れた人々NO17「福澤諭吉とその家族」

聖書に触れた人々NO17「福澤諭吉とその家族」2012年9月4日     

                                天年(1835年-1901年)明治34年 

 福沢諭吉と言えば慶応義塾大学の創立者として有名であり、現一万円札に肖像画としても有名です。また彼の言葉としては、彼の著書「学問のすすめ」の中に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が有名でしょう。福沢諭吉はクリスチャンであった事実はなく、むしろキリスト教に対しての排撃者としての方が有名かもしれません。しかし私は数年に亘って慶応大学生達への聖書研究会に、毎週一度三田校舎に通ったことがありますが、中央口を登りきった左側の林の中に、教会と見間違う建造物があるのを奇異に感じていました。それは福沢諭吉が建てた演説会堂なのですが、明らかに教会の礼拝堂の影響を受けたであろうと思えるものでした。それからしばらくして、今度は慶応義塾日吉校には教会があるということを知りました。そのようなことから、福沢諭吉とキリスト教という関心が強まってきました。

★  福沢諭吉は、最初キリスト教を排撃する立場にあった。                彼は、天保5年(1835年1月10日)現・大阪府大阪市に生まれました。まだキリスト教禁教の時代です。彼は最初幕府の方針に沿った思想を持ち、キリスト教に対して反対の立場を取っていました。キリスト教伝道者の内村鑑三からは「宗教の大敵」と呼ばれた程でした。最初はそうであったのだと思われます。 

★  福沢諭吉と宣教師たちの交流                                                           しかしその福沢諭吉が39歳頃から晩年に至るまで、宣教師達との強い交流があったことも明らかになっています。特に英国国教会宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーとの交流は、深く強いものがありました。彼は、構内にあった福沢家の隣に西洋風の牧師館を建ててあげ、彼を住まわせました。そして自分の子供達の家庭教師となって頂いたのです。その交流は強く、お互いにいつでも行き来できるようにと、両家の間には「友の橋」という名の橋が架けられた程なのです。福沢諭吉と宣教師との交流は、ショー宣教師だけにとどまらず、彼の生涯で交流のあった宣教師は19名にも及ぶことが分かっています。

★  福沢諭吉の周りのキリスト教                                                             そのような福沢諭吉と宣教師達の交流の中で、彼の家族達はキリスト教に触れていきました。姉の中上川婉(えん)も、クリスチャンになりました。末姉の服部鐘も、熱心なクリスチャンになりました。さらに福沢諭吉の長男の太一郎も、クリスチャンとなりました。三女清岡俊(とし)も、クリスチャンになりました。四女の志立滝も、クリスチャンになったのです。特に志立滝は、東京YWCAの会長を20年間も務める熱心なクリスチャンでした。その関係か日吉キャンパス関係には、YMCAの教会があるのです。福沢諭吉は、最初キリスト教排撃論者と言われていましたが、姉達も子ども達もクリスチャンになったのです。さらには慶応義塾の敷地内のショー宣教師館では、明治8年に8人の青年が洗礼を受けました。宣教師ショーといえば、あの長野県軽井沢の名を世界中に有名にした宣教師でもあります。

★  福沢諭吉の3回にわたる海外視察                                   第一回目は、25歳の安政6年(1859年)咸臨丸でアメリカに行きました。この咸臨丸には勝海舟も乗っていました。第二回目は、27歳の文久2年(1862年)に英艦・オーディン号で欧州各国へ視察に行きました。福澤も通訳者としてこれに同行したのです。第三回目は、32歳の慶応3年(1867年)に再度アメリカへ行きました。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪問しました。その船には熱心なクリスチャン津田仙も同乗していました。これらのことから、福沢諭吉はキリスト教に否応なく触れていったに違いありません。欧州視察の途中にでは、イギリス聖書協会出版の聖書を一冊ずつプレゼントされたといいます。しかし当時の幕府はキリスト教をまだ禁教としていたため、一行は驚きあわてて、イギリス聖書協会に聖書を返却したといわれています。やがてキリスト教の禁教令が解かれ、福沢諭吉もキリスト教に対して柔軟な姿勢を持つようになったというのが事実のようです。その柔らかくなった福沢諭吉が宣教師達と交流を持つようになり、その寛容の上に、彼の家族達がクリスチャンになっていったのです。

今日の御言葉は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」マタ 10:42 をあげておきしょう。

 

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聖書に触れた人々NO16「台湾人に尊敬されている人 八田與一」

聖書に触れた人々NO16「台湾人に尊敬されている人 八田與一」2012年8月21日 

                石川県出身 1886年〰1942年     

八田與一(はったよいち)は、1886年石川県に生まれました。日本ではその名があまり知られていませんが、台湾においてはとても有名な日本人なのです。彼がクリスチャンであったかどうかは両論あり定かではありません。しかし「聖書に触れた人々」という、この婦人聖研のタイトルからは決して遠く離れている人物ではありません。

★私は台湾に7回ほど行っていると思います。今年も行ってきました。台湾の歴史を見ますと、今までに数回他国の支配を受けた歴史を持っています。16世紀初頭、オランダの植民地になってから、明朝、清朝、イギリス、日本と外国の支配を受けました。日本の支配は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)の終戦まで50年に及んだのです。支配された国民は、支配した者への憎悪が続くのが常です。しかし台湾は今もなお親日派が多数なのです。その理由は、日本の台湾支配時代に八田與一さんのような日本人が台湾で活躍したからに他ならないのです。

★さて八田與一さんですが、彼は広井勇から土木工学を学びました。広田勇と言えば、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾らと共に札幌農学校の二期生として学んだクリスチャンです。つまり札幌農学校(現在の北海道大学)の学生達による二期生として、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らと共に「イエスを信じる者の契約」に署名しているのです。その署名には、一期生と二期生合わせて31名が署名しています。広井勇は、クリスチャンとして土木工学の道に進みました。後にアメリカやドイツに留学し、東京帝国大学(現在の東大)の教授として働きました。彼自身「もし工学が唯に人生を煩雑(はんざつ)にするのみのものならば、何の意味もない。工学によって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間にとどめ、人をして静かに人生を思惟(しい)せしめ、反省せしめ、神に帰る余裕を与えないものであるならば、われらの工学は全く意味を見出すことはできない」と記しています。少なくとも八田與一は、熱心なクリスチャン土木工学博士の広井勇の弟子なのです。彼は広井教授から土木工学を学びました。

★台湾を日本が統治していた時代、台南の北方に塩害で農作には全く適さない荒れ地が広がっていました。塩害でトウモロコシすら育たない土地でした。八田與一は、24歳の時(1910年)その台湾に行きました。そして28歳からその荒れ地を農作地にするために、ダムの建造に取り掛かりました。そして10年の歳月を要し、ダムが完成したのです。そのことにより、ダムの水を利用してその一帯は一変し、台湾随一の大農業地帯となったのです。人々は八田與一の献身的な働きに感動しました。

★農民たちは八田與一の功績をたたえて、昭和5年に銅像を作る計画を立てました。しかし彼は嫌がったと言います。それを無理やり説き伏せて、銅像の型作りのために来てもらったそうです。八田は1942年(昭和17年)、第二次世界大戦で徴兵され、フィリピンに向かう途中、アメリカ軍の潜水艦の攻撃により戦死しました。戦争が終わって、蒋介石が中国から台湾に逃げてくると、人々は銅像を蒋介石から隠して保管し続けたと言います。1981年(昭和56年)その銅像は隠しておいた所から出されて、農民たちによって再度建てられました。さらに2001年には現地の人々によって、ダムの放水口のすぐ近くに素晴らしい「八田與一記念室」が完成しました。2011年5月8日には彼の住居が復元され、記念公園がオープンしました。烏山頭水庫入り口から公園に続く道路は「八田路」と改名されたそうです。私は台湾に何度も行っていますが、台南に行ったのは今年が初めてでした。しかしこのダムには行くことができませんでした。是非機会を作って、行ってみたいと思っています。

★台湾人は日本人が大好きです。それは日本が台湾を統治した時代であるにも関わらず、台湾のために命をかけて土木事業を行なった八田與一さんのような人がいたからだと思います。日本ではあまり馴染みのない人ですが、私達はこの様な人が台湾と日本の現代に至る架け橋となっていることを覚えておきましょう。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くしました。

彼がクリスチャンであったかどうかは定かではありません。しかし彼の生涯には、クリスチャンの恩師、広田勇を通して、聖書の真理である「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ 6:38)という御言葉が流れていたと思われます。

今日の聖研の御言葉として「与えなさい、そうすれば与えられます」という御言葉を心に刻んでおきましょう。

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聖書に触れた人々NO15 不良少年更生の父「留岡幸助」

聖書に触れた人々NO15 不良少年更生の父「留岡幸助」 2012年7月31日                                                                                                                                    牧師 仁井田義政

留岡幸助(とめおかこうすけ)は、明治元年まであと5年の1864年に、吉田万吉とトメの間に6人兄弟の次男として生まれました。生まれて間もなく幸助は、豪商だった米屋の留岡家に養子として出されました。そこで、武士の子供も町人の子供も一緒に学ぶ寺子屋に通い始めました。ある日の帰り道のことです。武士の子供と口論になり、木刀でひどく撲りつけられました。その時、幸助は相手の手首に噛みついて、相手に怪我をさせてしまったのです。その結果、幸助の父はその武士の屋敷に出入りすることを禁じられ、商いに支障を来たすことになってしまいました。怒った父は、幸助を激しく殴りつけました。そして寺子屋の学校を退学させられ、「商人になるようにと」無理強いされました。そのようなことで嫌気が差し、幸助は家出してしまうのです。

★キリスト教の「人間はみな平等」との教えに触れ、彼は感動しました。            当時はまだ士農工商という階級がしっかりと守られ、幸助は商人の養子でしたから当時の社会の最下層にいました。身分の低い家の彼は、よく武士の子達からいじめを受けていたのです。そのような時代に「人間は皆平等」と説く牧師の話を聞いて、深く感動しました。そして彼は18歳で洗礼を受け、クリスチャンとなったのです。彼は牧師になるために、1885年同志社の神学課程に入学し、その学校の創立者である新島襄の教えを受けました。彼は同志社卒業後の1888年、福知山で教会の牧師となりました。その後1891年、北海道に渡り刑務所の教誨師となります。その時北海道で見たのは、受刑者達のあまりにも過酷な姿でした。網走で受刑者達が重労働を強いられ、死者が続出しました。そして死体は粗末に埋められるだけだったのです。網走刑務所には中央道路工事のため、明治23年1200人もの囚人が送り込まれました。手作業で原生林に道を作るのです。工事中も囚人の逃亡を防ぐために、二人ずつ鉄の鎖でつながれ、鉄球まで付けられたそうです。栄養失調や怪我などで死亡者が続出しました。囚人たちは人間としての扱いを受けていなかったのです。

★1894年から1897年にかけてアメリカに留学。                   彼は理想的監獄の在り方を学ぶために、アメリカに留学しました。そしてコンコールド感化監獄やエルマイラ感化監獄でなどで建学を積みました。彼は留学を終えて帰国後、監獄改善よりもアメリカの福祉を取り入れて、感化教育の活動に力を入れました。まず東京の巣鴨に家庭学校を設立します。次に北海道に男子だけの家庭学校を作りました。広大な農場をもってその教育の場としました。しかし資金においては、いつも苦労の連続だったといいます。

★幼いころの家庭教育が大切という思想で、北海道に家庭学校を作る。                     彼は多くの囚人を見る中で、犯罪の芽は幼少期に発することを知り、幼い頃の家庭教育が大切と気付きました。さらにルソーの著書「エミール」に書かれた『子供を育てるには大自然の中が一番』という説に感銘を受け、北海道に家庭学校を作りました。広大な敷地に農場を作り、罪を犯した子供達と農作業をしながら更生を促したのです。幸助のこの様な働きに献身していったのは、彼の不幸な生い立ちと、聖書の真理に触れたことにあったと思われます。そして神様が彼にこの仕事を与えられたのです。彼の生涯は映画にもなっています。

  イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)        

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聖書に触れた人々NO14「(日本のヨセフ):おたあ・ジュリア」

聖書に触れた人々NO14「(日本のヨセフ):おたあ・ジュリア」2012年7月17日                                                                                                牧師 仁井田義政

前回は戦国の世に生まれ、クリスチャンとして壮絶な人生を生きた高山右近について話しましたが、その時代に重なるようにして、クリスチャン生涯を生きた「日本のヨセフ」ともいうべき「おたあ・ジュリア」という女性がいました。日本のヨセフと命名したのは、この人のことを調べていて私の心に浮かび上がってきた人物が、旧約聖書のヨセフであったことによるものです。実は「おたあ」とは朝鮮名です。「ジュリア」は彼女の洗礼名です。

★ 豊臣秀吉は、1592~93年に朝鮮出兵(朝鮮侵略)を行ないました。その時、現在の北朝鮮の平壌近郊で、両親が日本人に殺され、身寄りをなくした朝鮮の少女を見つけました。キリシタン大名の小西行長が不憫に思い連れ帰り、養女として行長の奥さんに育てさせました。連れて来られた時はわずか5歳だったと言われています。この幼女は後に洗礼を受け「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになりました。やがて豊臣の世が終わり、徳川の世となる頃、彼女は大人となり絶世の美女となったのです。この頃、ジュリアは徳川の大奥の侍女として家康に仕えていました。家康はどこに行くにもジュリアを同伴させました。そして家康から何度も側室になるよう求められますが、彼女は断り続けたそうです。

★このように徳川の時代も、最初の頃はキリスト教に対して寛容であったようです。その中でジュリアは一日の仕事を終えると祈り、聖書を読んでは同じ仲間達を信仰に導いていたと言います。しかし1612年(慶長17年)のこと突然、家康はキリシタン禁教令を出し、ジュリアも投獄されてしまうのです。投獄中にジュリアは信仰を捨てるよう迫られました。しかし「信仰を捨てるよりも死を選ぶ」と宣教師に手紙を書いています。

★家康は、改宗に応じないジュリアを1612年に伊豆大島に流刑としました。その一ヶ月後、南方の新島に異動させ、さらには神津島へと島流しにしました。そのような度重なる島流しは、家康のジュリアに対して棄教による赦免の姿勢と、それに対してジュリアの拒否という図式が浮かび上がってきます。家康はジュリアの美しさに未練があったのでしょう。ジュリアは3つの島に流されました。しかし、どの島においても不平を言わず、その島の人々や同じ流刑にあった人々に徹底して仕えました。小西行長は、和泉国堺で薬を扱う商家の次男として生まれた、キリシタン大名でした。ジュリアは行長の影響で、薬草の知識を深めたと言われています。ジュリアはその薬草の知識を用いて病気の人々に献身的に奉仕したと言われています。その結果、禁教時における島にもかかわらず、多くの人々がジュリアを通してクリスチャンになったのです。ジュリアのことは、日本に来たマウチス・コーロス宣教師の1613年1月12日の報告書に詳しく報告されているそうです。

★現代は不平の多い時代です。私達はこの「おたあ・ジュリア」から、学ばなければなりません。両親を日本人によって殺され、日本に五歳で連れて来られ、挙句の果てには島流しにされたのです。信仰さえ捨てれば、家康の側室になることさえ出来たのです。家康は何度もそのチャンスを彼女に与えたようです。しかし彼女は信仰の道を選択したのです。そればかりか不平ひとつ言わず、流されて行った島々で人々に仕えたのです。その生き方は、旧約聖書に出てくるエジプトに奴隷として売られて行ったあのヨセフをほうふつとさせるものでした。最後の地となった神津島には彼女の墓があり、5月には今も日韓のクリスチャン達によって、合同の慰霊祭「ジュリア祭」が行なわれています。私達も自分の不運に嘆くのではなく、置かれた場所で感謝して神様にお仕えしましょう。

ヨセフが自分の生涯を振り返って、自分を奴隷として売った兄弟達を前にして言った言葉を今日の御言葉としてあげておきます。

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」                                                                                                創世記45章8節

 

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