『切支丹時代の最後の宣教師』

『切支丹時代の最後の宣教師』 仁井田義政 牧師

最近、菊地章太(のりたか)さんの書いた「日本人とキリスト教の奇妙な関係」(角川新書)と言う本を読みました。本の帯に「信者でないのに十字架のペンダントをつけている」と書いてあったのに好奇心が湧いたからです。現代人がそう言っているというならば、そう興味もわかなかったでしょう。ところが「これは安土桃山時代に日本にやって来た宣教師の言葉である。」と書かれてあったのです。

★戦国時代の1549年、フランシスコ・ザビエルによって、もたらされたキリスト教は、安土桃山時代に拡大し、クリスチャン大名も数多く出ました。最初の宣教師たちは、イエズス会に属していました。当時ヨーロッパは、ルターの宗教改革によってプロテスタントの教会が拡大し、カトリックはヨーロッパの信徒を失いつつありました。そこでカトリックが目指したのが、まだキリスト教が伝わっていなかったアフリカやアジア諸国だったのです。その中に日本も、宣教地として入っていたのです。

★その宣教を担ったのがイエズス会でした。多くの宣教師が来日し、日本宣教は効果を上げたかに見えました。その当時に宣教師が感じたのは、この本の帯に記されていた「信者でないのに十字架のペンダントをつけている」という報告書の一文です。これは、イタリヤ人イエズス会フランチェスコ・バジオの手紙の中にあります。バジオは、1549年にこの手紙を書いています。正しくは「異教徒でもその衣服の上に流木で作った数珠を胸につけ、また十字架を腰に下げたり胸に吊るしたりした」と記されていました。数珠とは、カトリックのロザリオのことです。つまりは、キリスト教の十字架を、異教徒さえも単なる飾りやお守りのように、何のためらいもなくつけているとの報告です。これは宣教師から見れば、日本人の不思議な行動と見えたのでしょう。日本人の中には、その不思議な文化が現代に至るまで、地下の大河のように轟々と流れているのを感じます。クリスチャンではないけれど結婚式は教会で。それも30年前と今では変化してきています。30年前は、本当の教会で結婚式をすることがブームでした。今は、キリスト教式で結婚式をするにしても、教会とは関係のないホテルのチャペルで行なうのが一般的になっています。飾りとしてのキリスト教は好きだけれども、心の変化までは求めたくない。このような宗教に対する姿勢が、日本人の根底に流れ続けているように思えるのです。

★さてキリシタン時代に戻りますが、江戸時代の最後の宣教師シドッディのことを記したいと思います。キリスト教に対しての取り締まりも徹底し、日本にやって来る宣教師もいなくなって久しい頃のこと、イタリヤ人イエズス会のジョバンニ・バッティスタ・シドッティは。江戸時代末期の1708年8月に屋久島に上陸しました。六代将軍徳川家宣の時代の頃です。シドッティは、日本でキリスト教布教の許可を得るために、ローマ教皇庁の命令によって単身で日本にやって来ました。彼はすぐに屋久島で捕えられ、江戸に送られました。現在の東京都文京区小日向にあったキリシタンの取り調べのために建てられた施設において、取り調べを受けることになりました。その取り調べをしたのは、新井白石でした。白石にとって、取り調べと言うよりもシドッティの博識に驚いたと言います。白石はシドッティを通して、世界の地図や世界の情勢、そして最新の科学を学んだのです。シドッティの持ち物も、全て没収され検査されました。その持ち物の中に、前に日本で殉教したイタリヤ人宣教師マストリーリ神父の十字架もあったといいます。それから見ても、殉教覚悟で日本に来たのではと思われます。それと「悲しみの聖母」と言われる絵もありました右側の美しいマリヤの姿の絵です。この絵はいま東京国立博物館にあるそうです。これは是非、観に行きたいです。

★白石はシドッティに最後の尋問をし、「年老いた母を残して日本に来た思い」を聞きました。するとシドッティは、しばしの沈黙の後に声を震わせて話し出しました。「自分には、キリストの教えを日本に伝えたいという思いの他は何もない。この遠い国への布教を教会から命じられた時、母もどんなに喜んでくれたことか。自分のこの体の何処をとっても父母兄弟とつながらないところなどない。この命のある限り、どうしてそれを忘れることが出来るというのか」と言ったのです。その言葉に白石は感動しました。わが身を捨て、肉親とも二度と会えぬ覚悟で布教に来られたこの人の志の一途さ・気高さに心を動かされたといいます。白石は、シドッティの本国送還を幕府に上申しましたが、聞き入れられませんでした。そしてシドッティは、キリシタン屋敷に留め置かれることになりました。扱いは客人として、かなり行動にも自由が許されていたようです。その中で彼を世話する「長助・はる」という老夫婦が、彼の影響によって信仰をもち、洗礼を授けてもらったのです。しかし、それが原因で彼は地下牢に閉じ込められ、そこで病死するに至りました。1714年、シドッティ47歳、日本に潜入して6年目の冬でした。

★シドッティが日本で福音を伝えることが出来たのは、ただこの二人だけでした。この二人の救いの為に、神様はシドッティをイタリヤから遣わされたと見ることも出来ます。シドッティのあまりにも鮮烈で清い日本への愛に比べ、それを受け取る側の日本人の受け止め方の希薄さに、言いようもない断絶を感じるのです。その断絶の間に「「信者でないのに十字架のペンダントをつけている」という日本人の和魂洋才(西洋の優れた技術や学問は受け入れるけれども、心は変えるわけにはいかないの意)の心理的な姿があるのではないでしょうか。捕らわれの身でありながらも、身のまわりの世話をしてくれていた老夫婦を、命がけで信仰に導いたシドッティ宣教師の献身と、命がけで洗礼を受けた老夫婦の心と心の出会いを、私達は決して忘れてはならないと思うのです。。信仰とは飾りではなく、そのような命がけのことなのだということをしっかりと肝に命じておきたいものです。
二〇一四年に文京区の切支丹屋敷跡地から三体の人骨が発掘され、調査により一体はシドッティ、残りの2体の一人は日本人、もう一人はDNAが残っていなかったため分析不能という結果が公表されました。

(注)このコラムは菊地章太氏の本の情報
を等を元に書かせていただきました。

 

 

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