聖書に触れた人々NO30「キリストと農業のために生きた津田仙」

聖書に触れた人々NO30「キリストと農業のために生きた津田 仙」2013年5月21日 

                                          仁井田義政 牧師

 今日が、聖書に触れた人々シリーズの30回目です。30回を区切りに最終回に致します。今日、紹介するのは明治の農学者「津田 仙」です。

★津田仙は、天保8年(1837年)に佐倉藩士(千葉県佐倉市)小島家に生まれました。嘉永4年(1851年)元服して桜井家の養子となりました。14歳の時でした。さらに文久元年(1861年)に24歳で津田家の「初子」と結婚し、婿養子となり津田姓となりました。彼は幕府の命令によって様々な学問を学び、語学に長けていました。慶応3年(1867年)には、アメリカへ軍艦引取り交渉のために、通訳として派遣された程です。その時、かの福澤諭吉らも一緒でした。

★明治8年(1875年)1月には、米国メソジスト教会のジュリアス・ソーバー宣教師により、妻の初子と共に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。津田仙は日本の農学者であり、学農社の創立者であり、青山学院大学の創立に関わり、筑波大学付属盲学校の設立に関わりました。当時は同志社大学の新島襄、東京帝国大学の中村正直らと共に、キリスト教界の三傑と言われたそうです。

★津田仙の農学者としての働きは、近代日本の農業に大きな影響を与えました。福澤諭吉らと共に渡米した時、彼は西洋農法に強い感銘を受けて帰国しました。さらには明治6年(1873年)に、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席した時、オランダ人の農学者、ダニエル・ホイブレイクの考えに深く共感しました。そして彼は、日本を西洋式の農業にしようと活躍しました。またウイーン万博から持ち帰ったニセアカシヤの種を発芽させ、その苗を明治8年(1875年)に東京の大手町に植えました。これが東京初の街路樹となりました。また明治9年(1876年)には、アメリカ産のトウモロコシの種を、日本の農家に通信販売を始めました。それが日本での通信販売の最初と言われています。

★クリスチャンとしての津田仙の働きは、日本の農業を変えるために設立した農業学校の学農社において、日曜学校を開校し、日曜学校の教師にフルベッキ―(宣教師・法学者・神学者・聖書翻訳者・教育者)やクリスチャンで農学者でもあった内村鑑三を招いたりして、学生達にキリスト教を土台とした教育を授けました。彼はミッションスクールの設立にも協力し、盲人の教育にも力を注ぎました。日本最初の公害問題と言われている足尾銅山の鉱毒問題の田中正造を助け、農民運動にも力を注ぎました。

★その他にも彼の活動はたくさんありますが、時間の都合上ここまでにしておきましょう。津田仙には、津田塾大学の創立者である娘の梅子がいます。この人もまた素晴らしい働きをしたクリスチャンで、1871年に僅か6歳で渡米留学しました。翌1872年には、自ら申し出てアメリカでクリスチャンになりました。1882年に18歳で日本に帰国し、皇族立の女学校の教師となりましたが、当時の日本の女子に対する考え方に失望し、再度渡米し学問を積みました。その後、激変する明治の日本において、女性の近代化教育が急務であるとの大きな夢をもって帰国し、「女子英学塾」を設立しました。それが津田塾大学となりました。まさに親子に亘るキリスト者としての働きでした。

津田仙は明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため召されました。71歳でした。青山学院講堂で行なわれた告別式には、内村鑑三や新渡戸稲造の姿もありました。

★津田仙の生涯には「日本で最初の・・・」と言う言葉が幾つもつけられる偉大な生涯でした。その生涯にふさわしい御言葉として、伝道の書11章6節の朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」を上げておきたいと思います。

 

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