聖書に触れた人々NO28「貧しい人々と共に 賀川豊彦」 

聖書に触れた人々NO28「貧しい人々と共に 賀川豊彦」 2013年4月2日 

         仁井田義政 牧師

 賀川 豊彦(かがわ とよひこ)1888年7月10日(明治21年)-1960年4月23日(昭和35年)は、大正・昭和におけるキリスト教社会主義運動家でした。彼は海の運送業を営む家に生まれるも、幼少の時に父母とは死別してしまいました。5歳の時に、姉と共に徳島の本家に引き取られました。しかしその本家も、彼が15歳の時に破産してしまい、今度は叔父の森六兵衛の家に引き取られました。彼の幼少期は、そのように大変な体験の時代でありました。

★彼は、徳島中学校時代の1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションのH・W・マヤス宣教師より洗礼を受けてクリスチャンとなりました。この頃、様々な本を読みキリスト教社会主義に強く共感しました。またある時はトルストイの反戦論に共鳴し、軍事訓練サボタージュ事件を起こした事もありました。その後、彼はキリスト教の伝道者になろうと、明治学院高等部神学予科と神戸神学校へと進みました。

★クリスチャンとしての社会活動を開始するきっかけとなったのは、神戸神学校の時代に「イエス様の精神を発揮してみたい」と神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始したことに始まります。1911(明治44年)に神戸神学校を卒業し、翌年の1912(大正元年)にその新川のスラム街で、一膳飯屋「天国屋」を開業しました。それもその町の人々を助けるためでした。まもなく女工のハルとスラムで出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはスラムの人々を招待し、御馳走をふるまいました。また集まったスラムの人々に、新妻ハルを「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなたがたの家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります。」と言ったそうです。

★彼は1914年(大正3年)に渡米し、プリストン大学・プリストン神学校に学びました。1919年(大正8年)日本基督教会で牧師の資格を得ました。その次の年1920年に、自伝的小説『死線を越えて』を出版しました。それがベストセラーとなり、賀川豊彦の名を世間に広めるきっかけとなりました。その時の本の印税は全て社会運動のために充てました。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(現在のコープこうべ)を設立し、生活協同組合運動にも取り組んだのです。生協は今日本中に広まっています。

★彼はさらに日本農民運動にも取り組みました。1922年(大正11年)に日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組みました。組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には、組合員数はあっという間に7万人を超えた程でした。その運動は地主から小作人を守るための組合活動でした。

★また1923年(大正12年)に関東大震災が起こると、急きょ関東に移って救済活動を行ない、被災者の救済とその子供達を集めて世話をしました。その事がきっかけとなって、社会福祉法人「雲柱社」が創立されました。その法人名になった雲柱とは、イスラエルがエジプトの奴隷から解放されて祖国イスラエルに荒野を通って帰ってくる時、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって守って下さったという聖書の記事から取られたものです。雲柱社は現在、障害児・障害者支援施設。保育施設。子ども家庭支援センター。児童館・学童クラブなど数多くの施設を運営して、賀川豊彦の意思を実践しています。賀川豊彦の生涯は、キリスト者として貧しい人達に愛と情熱を注いだ生涯でした。ここには書くことが出来なかった彼の働きは、まだまだ多くあるのです。賀川豊彦の生涯を見て、心に浮かんだ聖書の言葉は「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。(箴言16章19節)です。私達も賀川豊彦先生にならって、貧しい者や弱い者への配慮を忘れないようにしましょう。

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