聖書に触れた人々NO25「祖国を失った音吉と和訳聖書」

聖書に触れた人々NO25「祖国を失った音吉と和訳聖書」2013年2月19日 仁井田義政 牧師

 聖書に触れた人々について、3回にわたって海外でクリスチャンになった人々のことを話しました。ひとりは、殺人の罪を犯して海外逃亡したヤジロウでした。彼は1547年の12月に、マラッカで中国伝道を目指していたザビエルに会い、翌年に洗礼を受けました。ヤジロウから日本の状況を聞いたザビエルは、日本伝道を夢見てヤジロウの協力によって和訳のマタイの福音書を完成しました。ザビエルは、それを持って1549年(天文18年)鹿児島に上陸したのです。その時、ヤジロウも一緒でした。

次に話したのが江戸から明治に変わろうとする時代1841年1月5日に、足摺岬でのアジ・サバ漁中に漂流民となってアメリカに渡り、洗礼を受けた漁師ジョン万次郎でした。さらに外国でクリスチャンになった人物で忘れてならない人は、現存する最古の日本語訳聖書翻訳に貢献した岩吉・久吉・音吉の船乗り達のことです。彼らもまた、1832(天保3)年10月11日の航海中に船が操縦不能となり、漂流民となってアメリカに流れ着いた人達でした。

★当時、大阪から江戸へ船で物資を輸送することが盛んでした。音吉らの乗る千石船「宝順丸」も、14名の船員を乗せて江戸に向けて出港しました。積み荷は米と陶器類でした。しかし途中で嵐に遭い、舵を失い操縦不能となってしまいました。太平洋を14ヶ月も漂流し、アメリカの西海岸の北方(カナダとの国境付近、フラッタリー岬付近)に漂着しました。漂着した時には、岩吉・久吉・音吉の3人になってしまいました。みな漂流中の船中で病死してしまったのです。そこはインディアンの居住区であり、彼らは原住民の奴隷となってしまいました。そこで1年間程過ごすうち、積み荷の陶器がアメリカで出回り始め、日本の陶器が評判になりました。その事がきっかけで、音吉達の漂着のうわさがハドソン湾会社の支配人のイギリス人ジョン・マクラフリンの耳に入りました。彼は、この人達を助け送り届けることによって、日本との通商の道も開けるのではないかと考えました。彼ら日本人をインディアンの奴隷から救い出し、その地の学校に入学させ、英語とキリスト教を学ばせました。

★その後、日本との通商の道を切り開くため日本へと向かいました。まずワシントン州からハワイを経て、イギリスのロンドンへと向かいました。イギリス政府と日本政府との通商の許可を得ようとしたのだと思います。しかし当時のイギリス政府は、日本との交渉に熱心ではありませんでした。やむなくマカオに音吉達を送りました。音吉達にとって、日本を出てから既に三年が経っていました。

★彼らは、マカオでドイツ生まれの宣教師、カール・ギュツラフに会いました。ギュツラフは日本の宣教を目指しており、日本語の聖書が必要でした。そのために音吉達は、ヨハネの福音書の翻訳を手伝うことになりました。翻訳している一年の間に、九州の難破船からの4人も送られてきて合流しました。ついに1837年7月30日漂流してから5年ぶりに、音吉達を乗せたモリソン号が江戸湾の浦賀港に近づいたのです。すると幕府軍による問答無用の砲撃を受け、上陸が出来ませんでした。そこでモリソン号は、鹿児島湾に回り上陸しようとしました。しかしそこでも砲撃を受け、上陸できずに祖国を諦め上海へと引き返しました。その後、音吉は結婚して家庭を持ちました。音吉の生涯はそこで終わるわけではありません。1849年には、通訳として中国人(リン・アトウ)と名乗り、イギリスマリナー号で浦賀に上陸しています。また1854年には、日英和親条約締結のためイギリスのスターリング艦隊の通訳として長崎へきました。 

★さて彼らの翻訳したヨハネの福音書ですが、翻訳完成の23年後つまり1859年に、プロテスタントの宣教師ヘボンが、その聖書を持って宣教の為に上陸しました。音吉達の協力によって、初めて翻訳された「ヨハネの福音書」を持ってきたのです。このヘボンこそ「ヘボン式ローマ字」を考案した人です。

★音吉達の話に戻りますが、彼らは懐かしい日本に帰って来たのに、自分の国の日本からは大砲によって追い返されました。日本の国籍を失ったのです。しかし彼らには、聖書の教える国籍がありました。その御言葉を心に留めましょう。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリ 3:20)。

私達にも天に本当の国籍があるのです。そのことを忘れず、天国を目指しましょう。そこには、大歓迎してくださる神様がおられるからです。

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