聖書に触れた人々NO18 「林歌子の生涯」

聖書に触れた人々NO18 「林歌子の生涯 2012年10月2日                                                                                                                      仁井田義政

日本の歴史は、自然と現代まで流れて来たと思ってはなりません。特に古い考え方から、現代の日本となる過程においては、多くの人々の血と涙の戦いがあったのです。歴史を変えた人々と言うと、女性達の働きが取り上げられることはあまりありませんでした。しかし日本の歴史を変えた人々の中には、多くの女性達もいたのです今日はその女性の一人、林歌子の生涯を掘り起こしてお話し致します。

★林歌子は、元治元年(1864年)福井県大野市の大野藩士の家に生まれました。藩士の家と言っても下級武士の家だったそうで、経済的にはそう豊かではなかったようです。歌子は、まだ3歳の時に母を失ってしまいました。その後は、義理の母に育てられました。父親は歌子をことのほか可愛がり、歌子がやがて学者になるようにと、貧しいながらも学問に進むようにと教育を与えました。歌子も父の願い通りに福井女子師範学校に進み、師範学校を卒業し、16歳で小学校教師となりました。その後20歳で結婚し一児をもうけましたが、すぐに離婚してしまいました。その後すぐに愛児も失い、失意の中に上京しました。そこで牧師ウィリアムズと出会い、彼の話によって「人権尊重の思想」に触れて、まさに目から鱗が落ちる体験をしました。また歌子は立教女学院教師となり、さらにキリスト教に接し洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

 ★歌子は礼拝に通っていた東京神田教会で、信仰の友となる小橋勝之助・実之助兄弟と出会いました。そしてその二人の兄弟の熱い夢に心が動かされました。その夢とは、小橋の故郷に孤児院を創るという夢でした。当時、貧しさゆえに親から捨てられる子供たちがいたのです。林歌子はその小橋兄弟の要請を受けて、明治25年(1892)に、兵庫県の矢野村に行って、孤児院「博愛社」を助けました。「立教女学院教師」の立場を投げうって、孤児達の為に働く仕事を始めるという歌子に、父親は猛烈に反対しました。しかしその決意は変わらず、矢野村で「博愛社」の活動を続けました。しかしまわりの人々からは変人扱いされ、何か隠された思惑があるのだろうと噂を立てられました。その村の小橋兄弟の実家からも反対され、活動は困難を極めました。そのような中で、小橋勝之助が病死してしまいました。間もなく矢野村での活動に終止をうって、大阪に出ました。そこで昼間は畑仕事をし、夜は夜学の教員をして孤児達を育てる活動を開始しました。そして明治32年(1899)大阪の淀川区に博愛社を設立し、多くの孤児達を育てました。

★大阪の博愛社の活動が軌道に乗ってきた頃、小橋実之介に嫁さんを迎えました。その夫婦に博愛社をゆだねて歌子は渡米しました。明治38年(1905)のことです。そのアメリカで、歌子はキリスト教の「万国矯風会大会」に参加し、愕然とするのです。それは、アメリカの女性達と日本の女性達の立場が全く異なっていたからです。日本の婦人の立場は、「子供の時は父親に従え、結婚したら夫に従え、歳をとったら子供に従え」と言うものだったからです。夫のどんな暴力にも耐えて従うというのが、当時の女性の姿でした。そのような古い日本の女性観に怒りを感じました。また当時は、政府承認の遊郭が日本中にあり、女性達は親の借金の為にそこに売られたりしたのです。女性はそのような仕打ちを受け、男達は遊郭で遊び、何人もの妾を持つことが男の甲斐性のように言われていた時代なのです。そのような男中心の社会で、女性達はじっと我慢を強いられるような状況に、歌子は納得できませんでした。そのように女性が我慢するしかないのは、女性達に経済力がないからだと考えました。そのような女性達に経済力をつけるために「大阪婦人ホーム」を作り、夫の暴力や、遊郭から逃げてきた女性達をかくまい、職業訓練を与え、職業斡旋まで行ないました。

★また歌子は「大阪矯風会」設立しました。そして遊郭廃止運動を開始しました。明治42年7月31日の事です。大阪北部地区に大火がありました。その大火はその地域にあった「曽根崎遊郭」を全焼したのです。その数日後、林歌子は遊郭再建反対運動を立ち上げました。その公演には1000人、2000人と聴衆が集まりました。歌子は売春の非人間性と遊郭業者の非道ぶりを徹底して訴え、人々の共感を得ました。その甲斐もあって、その年の9月1日、ついに大阪府知事は曽根崎遊郭の廃止を発表したのです。歌子達は運動の勝利を喜びました。しかし、裏ではその代替地として、大阪市西成区の「飛田新地」に遊郭が作られることになっていたのです。林歌子達は再び反対運動を展開しました。そして多くの人々の賛同を得たのです。今度も勝利するかに見えました。しかし大阪府知事は遊郭建設を認可し、直ちに辞職してしましました。逃げたのです。その土地は、曽根崎遊郭の三倍もありました。完成直後も、林歌子達はハンドマイクをもって「遊郭ハンタイ、絶対ハンタイ」と叫び、遊郭の周りを回りました。しかしその声は、華やかな遊郭にむなしく響くばかりでした。

★林歌子は「飛田新地遊郭反対運動」が失敗に終わったのは、大阪府の議員に遊郭の利権者が多数いたことに原因があると知りました。これではいくら反対運動をしても、どんなに市民の署名を集めても、無駄であることがわかりました。この事を打破するためには、男だけの議会では解決が出来ない事を痛感し、自分達女性が政治と関わらなければならない事に気付きました。そこで今までの戦略を変え、婦人参政権獲得運動へと向かったのです。「遊郭」の「郭」とは高い塀に囲まれた場所を意味する文字で、その文字通りに遊郭は遊女達が逃げられないように、高い塀で囲まれ、厳重な門が設けられ監視されていたのです。そこに入ったら最後、決してそこから出られなかったのです。大正12年に起こった関東大震災の時、東京にあった吉原遊郭の遊女達は、大火に追われて弁天池に飛び込み490人が溺死しました。遊女達が逃げるのを防ぐために、遊郭の門を閉じてしまったからです。また、吉原遊郭の近くの浄閑寺は、投げ込み寺と呼ばれていました。死んだ遊女達が裸で投げ入れられたからです。1664年から遊郭廃止までに、2万人以上の人達が投げ込まれました。遊女達の平均寿命は21.7才であったと言われています。そのことから見ても、そこでの生活は心身共に想像を絶するものであったと思います。

★その遊女達は、自分から欲して遊女になった人は一人もいません。貧しい東北の農家からの出身者が多かったのです。借金などで、親に売られてきた人達なのです。そこでひたすら管理され、男のお客を取らなければなりませんでした。なんと残酷なことでしょう。その遊郭での売買春は、昭和32年(1957)まで認められていました。遊郭は政府公認の売春の町だったのです。それは、遠い昔の話ではありません。今からわずか50年あまり前のことであり、戦後12年も続いていたのです。貧しさゆえに孤児にされた子供達の救済と、貧しさゆえに遊郭に売られて来た女性達の救済のために、そして女性達の地位向上のために、命を懸けた女性がいたのです。その人の名が林歌子だったと言うことを覚えておきましょう。そしてそのように林歌子の心に熱い愛を与えたのは、20歳の時に信じたイエス・キリストなのだということも覚えておきましょう。林歌子の自筆で「涙と汗」という字があります。それにちなんで、今日の御言葉はローマ書12章15節の「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」にしましょう。

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