聖書に触れた人々NO15 不良少年更生の父「留岡幸助」

聖書に触れた人々NO15 不良少年更生の父「留岡幸助」 2012年7月31日                                                                                                                                    牧師 仁井田義政

留岡幸助(とめおかこうすけ)は、明治元年まであと5年の1864年に、吉田万吉とトメの間に6人兄弟の次男として生まれました。生まれて間もなく幸助は、豪商だった米屋の留岡家に養子として出されました。そこで、武士の子供も町人の子供も一緒に学ぶ寺子屋に通い始めました。ある日の帰り道のことです。武士の子供と口論になり、木刀でひどく撲りつけられました。その時、幸助は相手の手首に噛みついて、相手に怪我をさせてしまったのです。その結果、幸助の父はその武士の屋敷に出入りすることを禁じられ、商いに支障を来たすことになってしまいました。怒った父は、幸助を激しく殴りつけました。そして寺子屋の学校を退学させられ、「商人になるようにと」無理強いされました。そのようなことで嫌気が差し、幸助は家出してしまうのです。

★キリスト教の「人間はみな平等」との教えに触れ、彼は感動しました。            当時はまだ士農工商という階級がしっかりと守られ、幸助は商人の養子でしたから当時の社会の最下層にいました。身分の低い家の彼は、よく武士の子達からいじめを受けていたのです。そのような時代に「人間は皆平等」と説く牧師の話を聞いて、深く感動しました。そして彼は18歳で洗礼を受け、クリスチャンとなったのです。彼は牧師になるために、1885年同志社の神学課程に入学し、その学校の創立者である新島襄の教えを受けました。彼は同志社卒業後の1888年、福知山で教会の牧師となりました。その後1891年、北海道に渡り刑務所の教誨師となります。その時北海道で見たのは、受刑者達のあまりにも過酷な姿でした。網走で受刑者達が重労働を強いられ、死者が続出しました。そして死体は粗末に埋められるだけだったのです。網走刑務所には中央道路工事のため、明治23年1200人もの囚人が送り込まれました。手作業で原生林に道を作るのです。工事中も囚人の逃亡を防ぐために、二人ずつ鉄の鎖でつながれ、鉄球まで付けられたそうです。栄養失調や怪我などで死亡者が続出しました。囚人たちは人間としての扱いを受けていなかったのです。

★1894年から1897年にかけてアメリカに留学。                   彼は理想的監獄の在り方を学ぶために、アメリカに留学しました。そしてコンコールド感化監獄やエルマイラ感化監獄でなどで建学を積みました。彼は留学を終えて帰国後、監獄改善よりもアメリカの福祉を取り入れて、感化教育の活動に力を入れました。まず東京の巣鴨に家庭学校を設立します。次に北海道に男子だけの家庭学校を作りました。広大な農場をもってその教育の場としました。しかし資金においては、いつも苦労の連続だったといいます。

★幼いころの家庭教育が大切という思想で、北海道に家庭学校を作る。                     彼は多くの囚人を見る中で、犯罪の芽は幼少期に発することを知り、幼い頃の家庭教育が大切と気付きました。さらにルソーの著書「エミール」に書かれた『子供を育てるには大自然の中が一番』という説に感銘を受け、北海道に家庭学校を作りました。広大な敷地に農場を作り、罪を犯した子供達と農作業をしながら更生を促したのです。幸助のこの様な働きに献身していったのは、彼の不幸な生い立ちと、聖書の真理に触れたことにあったと思われます。そして神様が彼にこの仕事を与えられたのです。彼の生涯は映画にもなっています。

  イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)        

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