聖書に触れた人々NO14「(日本のヨセフ):おたあ・ジュリア」

聖書に触れた人々NO14「(日本のヨセフ):おたあ・ジュリア」2012年7月17日                                                                                                牧師 仁井田義政

前回は戦国の世に生まれ、クリスチャンとして壮絶な人生を生きた高山右近について話しましたが、その時代に重なるようにして、クリスチャン生涯を生きた「日本のヨセフ」ともいうべき「おたあ・ジュリア」という女性がいました。日本のヨセフと命名したのは、この人のことを調べていて私の心に浮かび上がってきた人物が、旧約聖書のヨセフであったことによるものです。実は「おたあ」とは朝鮮名です。「ジュリア」は彼女の洗礼名です。

★ 豊臣秀吉は、1592~93年に朝鮮出兵(朝鮮侵略)を行ないました。その時、現在の北朝鮮の平壌近郊で、両親が日本人に殺され、身寄りをなくした朝鮮の少女を見つけました。キリシタン大名の小西行長が不憫に思い連れ帰り、養女として行長の奥さんに育てさせました。連れて来られた時はわずか5歳だったと言われています。この幼女は後に洗礼を受け「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになりました。やがて豊臣の世が終わり、徳川の世となる頃、彼女は大人となり絶世の美女となったのです。この頃、ジュリアは徳川の大奥の侍女として家康に仕えていました。家康はどこに行くにもジュリアを同伴させました。そして家康から何度も側室になるよう求められますが、彼女は断り続けたそうです。

★このように徳川の時代も、最初の頃はキリスト教に対して寛容であったようです。その中でジュリアは一日の仕事を終えると祈り、聖書を読んでは同じ仲間達を信仰に導いていたと言います。しかし1612年(慶長17年)のこと突然、家康はキリシタン禁教令を出し、ジュリアも投獄されてしまうのです。投獄中にジュリアは信仰を捨てるよう迫られました。しかし「信仰を捨てるよりも死を選ぶ」と宣教師に手紙を書いています。

★家康は、改宗に応じないジュリアを1612年に伊豆大島に流刑としました。その一ヶ月後、南方の新島に異動させ、さらには神津島へと島流しにしました。そのような度重なる島流しは、家康のジュリアに対して棄教による赦免の姿勢と、それに対してジュリアの拒否という図式が浮かび上がってきます。家康はジュリアの美しさに未練があったのでしょう。ジュリアは3つの島に流されました。しかし、どの島においても不平を言わず、その島の人々や同じ流刑にあった人々に徹底して仕えました。小西行長は、和泉国堺で薬を扱う商家の次男として生まれた、キリシタン大名でした。ジュリアは行長の影響で、薬草の知識を深めたと言われています。ジュリアはその薬草の知識を用いて病気の人々に献身的に奉仕したと言われています。その結果、禁教時における島にもかかわらず、多くの人々がジュリアを通してクリスチャンになったのです。ジュリアのことは、日本に来たマウチス・コーロス宣教師の1613年1月12日の報告書に詳しく報告されているそうです。

★現代は不平の多い時代です。私達はこの「おたあ・ジュリア」から、学ばなければなりません。両親を日本人によって殺され、日本に五歳で連れて来られ、挙句の果てには島流しにされたのです。信仰さえ捨てれば、家康の側室になることさえ出来たのです。家康は何度もそのチャンスを彼女に与えたようです。しかし彼女は信仰の道を選択したのです。そればかりか不平ひとつ言わず、流されて行った島々で人々に仕えたのです。その生き方は、旧約聖書に出てくるエジプトに奴隷として売られて行ったあのヨセフをほうふつとさせるものでした。最後の地となった神津島には彼女の墓があり、5月には今も日韓のクリスチャン達によって、合同の慰霊祭「ジュリア祭」が行なわれています。私達も自分の不運に嘆くのではなく、置かれた場所で感謝して神様にお仕えしましょう。

ヨセフが自分の生涯を振り返って、自分を奴隷として売った兄弟達を前にして言った言葉を今日の御言葉としてあげておきます。

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」                                                                                                創世記45章8節

 

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