聖書に触れた人々NO8「知的障害児教育の母 石井筆子」 

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO8

「知的障害児教育の母 石井筆子」2012年3月27日   第一コリント13章4節-7節                                                                                     仁井田義政 牧師    

人物による婦人聖書研究を開始して8回目になります。今まで7回は男性を取り上げました。日本 のクリスチャンには男性だけでなく、女性にも多くの素晴らしい人がいます。知的障害児教育の創始者となった石井筆子(文久元年(1861年)4月27日~昭和19年(1944年)1月24 日もそのひとりです。その働きは「滝野川学園」となって続いています。この人は、クリスチャンとして「世の光。地の塩」となって日本の近代化に大きく貢献した人です。その美しい生涯を知って頂きたいと思います。

★石井筆子の幼少と勉学                                                                                                                   石井筆子は備前国大村藩士の渡辺清・ゲン夫婦の長女として生まれました。現在の岡山県あたりでしょうか。父親は幕末から明治維新にかけての志士で、後に明治政府から男爵にの称号を与えられた人です。非常に裕福で、明治時代においても位の高い家でした。筆子さんは明治4年11歳の時に上京し、翌5年に開設された東京女学校に入学しました。彼女は英語、フランス語、オランダ語が堪能だったと言われています。

★石井筆子の留学と結婚                                                                                                                 明治13年、皇后の命により、石井筆子は津田梅子や山川捨松らと共に、日本初の女子海外留学生としてヨロッパに渡り、約2年間留学しました。その留学中に「日本女性には教育が必要」と確信するに至りました。日本は男性優位時代であり、女性の教育と言っても「良妻賢母教育」と言うものしかなかったばかりか、むしろ女性が教育を受けることに対して否定的社会だったのです。明治18年に帰国後、津田梅子と共に開いた華族女学校の教授となりました。またその容姿の美しさから、舞踏会等では鹿鳴館の花と言われるほどの華やかな出発でした。その後、明治17年に親の決めたいいなづけと結婚し、その2年後の25歳の時に待望の長女が与えられました。幸せを祈り幸子と命名しました。しかしその長女が知的障害児だったのです。その頃に筆子は子供と一緒に洗礼をうけました。また次女も三女も体が弱く、次女は間もなく死んでしまいました。また夫までも35歳で死んでしまいました。夫も体が弱かったのです。彼女は31歳で未亡人となってしまいました。

★石井筆子の障害児教育の目覚め                                                                                                  その頃、愛知県と岐阜県にわたって大地震が起こりました。死者7千人、倒壊家屋28万戸の大惨事となりました。するとその大地震に乗じて、孤児となった少女を女郎部屋に売り払う者がいるという噂が起こりました。その震災孤児を救う為に活動していたのがクリスチャンの石井亮一でした。彼は親を失った少女達を集め、親代わりとなって育てていたのです。筆子はその働きに共鳴し、その活動に協力するようになりました。そのようなある時、石井亮一から障害児教育を打ち明けられました。震災孤児の中に一人、知的障害児童いたからでした。筆子には「自分には知的障害児が二人いる」ことを初めて打ち明けました。すると亮一は「私にその子を預けて貰えませんか」と言ったのです。

★石井筆子の障害児教育と絶望                                                                                                      その後、知的障害で身体も弱かった三女も7歳で死んでしまいました。筆子は知的障害のある長女と二人だけとなってしまいました。筆子は知的障害のある子を守ろうと、必死で亮一の働きを手伝いました。そして筆子はその亮一と42歳で再婚し、ますます施設の活動に力をこめて行きました。しかし1920年3月24日のことでした。施設に大火災が起り、生徒6人が焼死してしまったのです。それは生徒の火遊びによる火事でした。燃え尽きてしまった施設を前に石井亮一は「神は私達を見放されたのだ、この試練に耐えるだけの信仰の力は私にはない」と叫び、二人は絶望してしまいました。

★石井筆子と施設の復活                                                                                                                  二人が燃え尽きた施設を前に絶望したその時でした。その時の新聞に施設の焼失の記事が載ったのです。新聞にこの記事が出ると、全国から多くの寄付や励ましの手紙が寄せられてきました。そのことによって、半年後に財団法人の認可を受けて施設の再開が出来たのです。それでも戦争中は「国に役立たないものに食わせるものはない」と言われて差別され、配給の食料を後回しにされたこともありました。戦争も終わりの時期1944年1月24日、石井筆子は82歳で数人の職員に見守られる中、この世を去ったのです。告別式には一人の血縁者もなかったそうです。しかしその一生は、障害児達を愛したクリスチャン石井筆子の素晴らしい生涯でした。次に記す聖書の言葉は、夫の石井亮一のものですが、筆子も同じ使命に生きたクリスチャンですので、筆子の言葉として記します。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」 第一コリント13章4節~7節

石井筆子らの創立した知的障害児教育施設は、社会福祉法人滝野川学園として、その信仰から湧き出た創立の精神を受け継ぎ大きくなって現代に続いています。

私達も、石井筆子らが目指した差別のない社会を作り続けて行きましょう。

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