聖書に触れた人々NO7「野口英世博士」

人物による婦人聖研 聖書に触れた人々NO7「野口英世博士」2012年3月6日

詩 119:71                仁井田義政 牧師                                     

   野口英世博士は福島県の生まれです。私も福島県の生まれですが、彼がクリスチャンだったとは全く知りませんでした。今日はそのクリスチャン野口英世のことをお話しいたしましょう。

  ★1876年(明治9年11月)に野口英世(清作)は父・野口佐代助と、母・シカの長男として生まれました。しかし父の佐代助は、酒と博打が好きであまり働きませんでした。 清作が1歳の時でした。母親が裏の畑で仕事をしている時、寝ていたはずの清作が起き出して、火のある囲炉裏に右手を入れてしまったのです。その結果、右手の指が握った形で全部くっついてしまいました。母親は、清作がこのようになったのは自分のせいだと罪責を感じ、「手が利かないのでこの子には農業は出来ない、この子には学問しかない」と、清作を学校に通わせました。当時は小学校にも全員が行けるわけではなかった時代です。貧しい家の子で学校に行っていたのは清作一人でした。その為に母親は働き尽くめで、生活を支えました。そのような母親の姿を見て、清作は猛勉強をしました。清作は、やけどでいじめに遭うことがありました。ある時はその様な自分を悲しみ、指をナイフで切り離そうとした事があったといいます。しかし15歳の時でした。学校の先生や級友が集めてくれたお金で、左手の手術を受け成功したのです。成功したと言っても自由に動くようになったわけではありませんでした。

  ★そのような時、彼の村に牧師の藤生金六が英語塾を開きました。1894年のことです。清作もその英語塾に通うようになりました。そして18歳の4月7日に、キリストを信じ洗礼を受けました。その教会の二人目の洗礼者として、当時の洗礼帳に野口清作の名が記され、今も残っています。その教会は現在の日本基督教団若松栄町教会です。当時、清作はクリスマスの手伝いや、日曜学校のカードを配る奉仕を熱心にしていたという話が伝わっています。彼は医学の道を目指していました。自分の手を手術した医学の力に感動したからです。まず自分の手を手術してくれた医院に住み込みで修業しました。そして1896年(明治29年)19歳の時に医師の資格を修得するために上京を決意しました。その時自分の家の柱に「志を得ざれば、再び此地を踏まず」と刻みました。そこから強い決心の程が読み取れます。東北本線の駅まで40kmの道を歩いて行ったそうです。

  ★東京に来た清作は、いじめに遭いながらも猛烈に勉強し、僅か一年で一回の試験で合格しました。1897年の清作20歳の時です。その後、順天堂医院に勤務。さらに北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務しました。その年22歳で英世と改名しました。23歳でアメリカに渡りました。そこで、フィラデルフィアに住んでいた熱心なクリスチャンのモリス夫妻と出会いました。この夫妻は、日本人留学生の面倒を熱心に見ておられる方で、明治のクリスチャン青年達の内村鑑三、新渡戸稲造、津田梅子らも大変お世話になった夫妻です。人種を越え親切にして下さるクリスチャンの姿を、モリス夫妻の姿から学んだのではないでしょうか。彼はペンシルベニア大学医学部、ロックフェラー医学研究所研究員、細菌学者として、数々の論文を発表し有名になっていきました。ノーベル生理学医学賞候補に3度も選ばれる程でした。そのような時、南米に黄熱病がはやりました。黄熱病は蚊によってウィルスが体の中に入り、高い熱が発生し体が黄色く変色し、やがて死亡する病気でした。野口英世はその黄熱病研究の為に南米のエクアドルに行きました。そこに行ったわずか9日目に、病原体を発見するという偉業を成し遂げました。その後、メキシコ、ペルー、ブラジルへと黄熱病の研究の為に渡りました。

  ★南米で終息した黄熱病は、次にアフリカで猛威を振るうようになりました。野口英世はアフリカ行きを決意します。しかしその時に体調を崩していた彼に、多くの友人がアフリカ行きを反対しました。そのとき野口英世は「人間は、どこで死んでも同じです」という言葉を残して、アフリカのガーナへと向かったのです。そして研究のさなかの翌年、彼自身が黄熱病にかかり、53才で召されました。

  ★1928年のことです。彼の遺体はアメリカに運ばれ葬られました。この時代に伝染病で死んだ者の遺体が、国外に運ばれ葬られることは考えられませんでした。しかし彼の遺体は、アメリカの強い要請によってアメリカに運ばれたのです。彼は日本の誇りであっただけでなく、アメリカの誇りでもあったことが解かります。彼は自分の人生を振り返って「自分が手の火傷をしなかったら、今の自分はなかっただろう」と言っていたそうです。彼の生涯は、青年時にイエス様に出会ったことに裏打ちされているように思います。私は彼の心を表わす聖書の言葉として、次の言葉を記しておきたいと思います。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

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