第33回 安曇野の一滴「小さな私塾の偉大な教育者 井口喜源治」

第33回 安曇野の清滴「小さな私塾の偉大な教育者 井口喜源治」仁井田義政 牧師

北アルプスの山々に、雪の冠が輝く頃、私はJR大糸線穂高駅の近くの井口喜源治記念館を訪れました。そこに「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリ4章7節)という聖書のことばを思わせるその記念館がありました。普通の民家と見間違う建物と、舗装さえされていない駐車場のこの記念館は、スイスのペスタロッチ、日本の小原國芳らと並ぶ教育者井口喜源治の記念館でした。
★井口喜源治は、明治3年5月2日長野県南安曇郡穂高村に生まれました。1884年(明治17年)旧制松本尋常中学校(現:長野県松本深志高等学校)に入学しました。この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師エルマーよりキリスト教の教えを受け、クリスチャンとなりました。卒業後、東京に出て明治法律学校(現:明治大学)に入学しました。その時代に牛込教会に通い、内村鑑三らと知り合い信仰を強めました。そして喜源治はキリスト者として教育者になることを強く決意しました。その為に明治法律学校を中退し安曇野に帰って行きました。そして地元の数校の小学校の教師を務めました。そのころ同郷の相馬愛蔵(後の新宿中村屋の創業者)は、北海道の札幌農学校(現国立北海道大学)で養蚕学を修めて帰郷していました。クリスチャンの相馬愛蔵らと親交を深め、東穂高禁酒会や風紀が乱れるとして芸姑置屋設置の反対運動をおこしました。

★しかしそれが校長や同僚らの反対を受ける事となり、退職に追い込まれてしまいました。退職後喜源治は直ちに、東穂高村矢原に集会所を借りて、キリストの教えを根本にした「研成義塾」をおこしました。研成義塾の教育理念は、その創立趣意書に次のように掲げられています。文語体で書かれていますので、分かりやすくするために口語体に訳されているものを記しておきます。1.私の塾は苦楽を共にする生活の中で、人間としての立派さを学んでいきます。2.私の塾は感動の出会いを通して、人間が変わっていく。その感化が永遠のものになって行くことを目指します。3.私の塾は天から与えられた才能と持ち味を発揮し、一人ひとりの良さを伸ばすことを目指します。4.私の塾は伝統的な宗教遺産を大事に取り上げ、人の命を大切にし、立派に育て広い心を育てることを目指します。5.私の塾は自然、人、文化に学び、社会に目を開いていくことを目指します。(註・これは「安曇野人間教育の源流-研成義塾に学ぶ」井口喜源治記念館発行に出ていた文を参考に、私訳を加えさせて頂きました)この教育理念のもとに、クリスチャン井口喜源治の教育が始まったのです。
★そのカリキュラムを見ますと、英語・漢文・作文・歴史・地理などの中に「道話」の時間もあります。これが聖書教育の時間でした。後に喜源治は、東穂高村三枚橋に新校舎を建築しました。新校舎と言っても民家のような粗末な建物でした。その間も、安曇野で健康を害して東京に移っていた木村屋創立者の相馬愛蔵やその妻・黒光などからの物心両面の援助があったようです。相馬黒光から日本における当時2台目のオルガンも贈られました。井口喜源治の信仰と教育理念に感動した人々に支えられて、安曇野に開かれた私塾は、創立から33年間続きました。その間の卒業者は、600人を数えました。安曇野の厳しい自然の中に咲いた一輪のタンポポの花は、種となって風に乗り、北アルプスの山々を越えて世界に広がって行きました。今や世界に広がって、日本の歴史にも影響を与えているのです。

★研成義塾の卒業生や、師事した人の中には、次のような方々がおられます。(実業家)銀座ワシントン靴店の創業者の東條たかし。(彫刻家)荻原碌山(おぎわら ろくざん)。(思想家)斎藤茂。(外交評論家)清沢洌(きよさわきよし)。(アメリカ移民)平林俊吾(明治・大正に72名が理想郷設立を目指してシアトルに移住する) 平林俊吾の息子ゴードン平林は、第二次大戦中に日本人強制収容所入所を拒否して収監される。戦後も強制収容所政策はアメリカ憲法に違反すると訴え続け、オバマ大統領の時代に、アメリカが非を認め大統領より文民最高位の勲章「大統領自由勲章」を受けています。「偉い人でなく良き人になれ」この言葉が、クリスチャン井口喜源治の子供達への教えでした。それは「それはあなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」(マタイ20章27節)というイエス様の教えに符合します。塾生たちはその教えに忠実に従って生きたのです。
★私も、中学生の時に井口喜源治のような先生に会いました。喜源治が子供達を野や山に連れ出しては、人間にとって大切なことを教えられたように、その先生も私達を野や山に連れ出して、人生に大切なことを教えて下さいました。その先生は、クリスチャンの渡邊正夫先生です。そのクラスから、私ともう一人の牧師が誕生しました。その先生の告別式を先生の遺言により、深谷春男牧師と私が行ないました。井口喜源治先生に出会った生徒たちは本当に幸せだった思います。私も、渡邊正夫先生に出会ったことは人生の幸せでした。井口喜源治先生と私達の渡邊正夫先生には、共通していることがあります。それは内村鑑三の影響を受けたということです。もちろん井口喜源治は直接内村鑑三の話を聞くことができました。また内村鑑三も研成義塾に数回来て交流を持ったようです。しかし私達の先生は、著書を通して内村鑑三から影響を受けた人でした。牧師になった私達二人も、内村鑑三の著書から強く信仰の影響を受けた者達なのです。内村鑑三が研成義塾を訪れた時の日記には「穂高地に研成義塾なる小さな私塾がある。もしこれを慶應義塾とか、早稲田専門学校とか云うような私塾に較べて見たならば、実に見る影もないものである。・・・しかしこの小義塾の成立を聞いて余は有明の巍々(ぎぎ)たる頂を望んだ時よりも嬉しかった」と記しています。内村鑑三にも教師の体験があり不敬事件を起こして教壇を追われた体験がありました。その内村鑑三にとっても、迫害に負けず、安曇野の小さな村で教壇を追われながらも私塾を開き、子供達の将来を作るために生きている井口喜源治の姿が美しく映ったのだと思います。
★北アルプスの頂きに天から降った一片の雪が、一滴の水となり流れとなって、やがて草木を潤し、大海に至り世界に広がって行くように、井口喜源治の影響は広がって行ったのです。「辛子種のような世界最小のものであっても、信仰があればやがて大きな木になり、鳥が巣を作り、旅人が憩う存在になる」とイエス様は言われました。この言葉を井口喜源治の生涯に添えたいと思います。そして私達も井原喜源治の生涯に学ぶものとなりましょう。

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第32回 『切支丹時代の最後の宣教師』

第32回『切支丹時代の最後の宣教師』 仁井田義政 牧師

最近、菊地章太(のりたか)さんの書いた「日本人とキリスト教の奇妙な関係」(角川新書)と言う本を読みました。本の帯に「信者でないのに十字架のペンダントをつけている」と書いてあったのに好奇心が湧いたからです。現代人がそう言っているというならば、そう興味もわかなかったでしょう。ところが「これは安土桃山時代に日本にやって来た宣教師の言葉である。」と書かれてあったのです。

★戦国時代の1549年、フランシスコ・ザビエルによって、もたらされたキリスト教は、安土桃山時代に拡大し、クリスチャン大名も数多く出ました。最初の宣教師たちは、イエズス会に属していました。当時ヨーロッパは、ルターの宗教改革によってプロテスタントの教会が拡大し、カトリックはヨーロッパの信徒を失いつつありました。そこでカトリックが目指したのが、まだキリスト教が伝わっていなかったアフリカやアジア諸国だったのです。その中に日本も、宣教地として入っていたのです。

★その宣教を担ったのがイエズス会でした。多くの宣教師が来日し、日本宣教は効果を上げたかに見えました。その当時に宣教師が感じたのは、この本の帯に記されていた「信者でないのに十字架のペンダントをつけている」という報告書の一文です。これは、イタリヤ人イエズス会フランチェスコ・バジオの手紙の中にあります。バジオは、1549年にこの手紙を書いています。正しくは「異教徒でもその衣服の上に流木で作った数珠を胸につけ、また十字架を腰に下げたり胸に吊るしたりした」と記されていました。数珠とは、カトリックのロザリオのことです。つまりは、キリスト教の十字架を、異教徒さえも単なる飾りやお守りのように、何のためらいもなくつけているとの報告です。これは宣教師から見れば、日本人の不思議な行動と見えたのでしょう。日本人の中には、その不思議な文化が現代に至るまで、地下の大河のように轟々と流れているのを感じます。クリスチャンではないけれど結婚式は教会で。それも30年前と今では変化してきています。30年前は、本当の教会で結婚式をすることがブームでした。今は、キリスト教式で結婚式をするにしても、教会とは関係のないホテルのチャペルで行なうのが一般的になっています。飾りとしてのキリスト教は好きだけれども、心の変化までは求めたくない。このような宗教に対する姿勢が、日本人の根底に流れ続けているように思えるのです。

★さてキリシタン時代に戻りますが、江戸時代の最後の宣教師シドッディのことを記したいと思います。キリスト教に対しての取り締まりも徹底し、日本にやって来る宣教師もいなくなって久しい頃のこと、イタリヤ人イエズス会のジョバンニ・バッティスタ・シドッティは。江戸時代末期の1708年8月に屋久島に上陸しました。六代将軍徳川家宣の時代の頃です。シドッティは、日本でキリスト教布教の許可を得るために、ローマ教皇庁の命令によって単身で日本にやって来ました。彼はすぐに屋久島で捕えられ、江戸に送られました。現在の東京都文京区小日向にあったキリシタンの取り調べのために建てられた施設において、取り調べを受けることになりました。その取り調べをしたのは、新井白石でした。白石にとって、取り調べと言うよりもシドッティの博識に驚いたと言います。白石はシドッティを通して、世界の地図や世界の情勢、そして最新の科学を学んだのです。シドッティの持ち物も、全て没収され検査されました。その持ち物の中に、前に日本で殉教したイタリヤ人宣教師マストリーリ神父の十字架もあったといいます。それから見ても、殉教覚悟で日本に来たのではと思われます。それと「悲しみの聖母」と言われる絵もありました右側の美しいマリヤの姿の絵です。この絵はいま東京国立博物館にあるそうです。これは是非、観に行きたいです。

★白石はシドッティに最後の尋問をし、「年老いた母を残して日本に来た思い」を聞きました。するとシドッティは、しばしの沈黙の後に声を震わせて話し出しました。「自分には、キリストの教えを日本に伝えたいという思いの他は何もない。この遠い国への布教を教会から命じられた時、母もどんなに喜んでくれたことか。自分のこの体の何処をとっても父母兄弟とつながらないところなどない。この命のある限り、どうしてそれを忘れることが出来るというのか」と言ったのです。その言葉に白石は感動しました。わが身を捨て、肉親とも二度と会えぬ覚悟で布教に来られたこの人の志の一途さ・気高さに心を動かされたといいます。白石は、シドッティの本国送還を幕府に上申しましたが、聞き入れられませんでした。そしてシドッティは、キリシタン屋敷に留め置かれることになりました。扱いは客人として、かなり行動にも自由が許されていたようです。その中で彼を世話する「長助・はる」という老夫婦が、彼の影響によって信仰をもち、洗礼を授けてもらったのです。しかし、それが原因で彼は地下牢に閉じ込められ、そこで病死するに至りました。1714年、シドッティ47歳、日本に潜入して6年目の冬でした。

★シドッティが日本で福音を伝えることが出来たのは、ただこの二人だけでした。この二人の救いの為に、神様はシドッティをイタリヤから遣わされたと見ることも出来ます。シドッティのあまりにも鮮烈で清い日本への愛に比べ、それを受け取る側の日本人の受け止め方の希薄さに、言いようもない断絶を感じるのです。その断絶の間に「「信者でないのに十字架のペンダントをつけている」という日本人の和魂洋才(西洋の優れた技術や学問は受け入れるけれども、心は変えるわけにはいかないの意)の心理的な姿があるのではないでしょうか。捕らわれの身でありながらも、身のまわりの世話をしてくれていた老夫婦を、命がけで信仰に導いたシドッティ宣教師の献身と、命がけで洗礼を受けた老夫婦の心と心の出会いを、私達は決して忘れてはならないと思うのです。。信仰とは飾りではなく、そのような命がけのことなのだということをしっかりと肝に命じておきたいものです。
二〇一四年に文京区の切支丹屋敷跡地から三体の人骨が発掘され、調査により一体はシドッティ、残りの2体の一人は日本人、もう一人はDNAが残っていなかったため分析不能という結果が公表されました。

(注)このコラムは菊地章太氏の本の情報
を等を元に書かせていただきました。

 

 

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聖書に触れた人々NO31『井上伊之助と愛』

NO31『井上伊之助と愛』   仁井田義政 牧師

 私達の教会のホームページの中には、歴史の中に埋もれていたクリスチャン達を掘り起こした「聖書に触れた人々」というブログがあります。そこにはすでに三十人の人達の名が挙げられています。最近、さらにそこに是非加えるべき人の名が浮かび上がってきました。

その人の名は「井上伊之助」(明治十五年~昭和四十一年)という人物です。彼は高知県の出身ですが、一九〇〇年ごろ、立身出世を願って東京に出て来ました。その東京で内村鑑三の著書を読み、一九〇三年には中田重治から洗礼を受けました。更には伝道者になるために、東洋宣教会の聖書学校に入りました。その二年生の時です。彼の父親が、台湾の花蓮港で樟脳造りの作業中、原住民タイヤル族の襲撃を受け殺されてしまいました。私もタイヤル族の村には七回ほど伝道に行きましたが、非常に勇猛で誇り高い民族です。そのような中、伊之助は聖書学校卒業後、千葉県の佐倉市で伝道しました。しかし一九〇九年の夏のことでした。銚子の犬吠埼で徹夜の祈りをしていると、主から「台湾伝道に行くように」と召命を受けたのです。彼はさっそくその準備に取り掛かりました。その準備とは、伊豆の下田にあった開業医のもとで八カ月間、医学を学ぶというものでした。すでに家族を持っていた伊之助でしたが、単身台湾に渡り原住民伝道を開始したのです。事もあろうに、自分の父親を殺したタイヤル族への伝道です。

★原住民の居住地に入るには、つい最近まで地元警察の許可書がなければ入っていくことが出来ないような危険地帯でした。神様は、父親を殺したタイヤル族への伝道を伊之助に命じられたのです。「目には目を、歯には歯を」という言葉が旧約聖書にあります。それは復讐の勧めではなく、現代の法律につながっている対等法的な考えです。つまり目を突かれたら、仕返しは最大限、目を突き返すまでにしなさい。歯を折られたら、最大限でも歯を折り返すまでにしなさい。それを越えて命まで取ってはならないという教えです。これが現代の「行なった罪の重さに応じて処罰の量を決める」という法律になっているのです。しかしイエス様はさらに 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」(マタイ五章三八~三九節)と教えられました。更に「しかし、わたしはあなたがたに言います。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(五章四十四節)と教えられました。

★伊之助は、イエス様にその実践に遣わされたのです。伊之助が原住民の村に行く直前にも、原住民に日本人が殺されました。伊之助がそのころ書いた物の中に「・・・我も死んだと人に言われん」とあるそうです。死の覚悟で、山深い原住民の村に入って行ったのです。彼は正式な医 者ではありませんでした。僅か八か月、開業医のもとで見習いをしただけの人でした。しかし現地において少しずつ経験を積み、技術も身に着けていきました。ついには、原住民の地域のただ一人の医師として信頼を勝ち取っていったのです。ある時な どは、原住民の家に招かれてそこに泊まることさえありました。ついに、家族を台湾に呼び寄せて活動を続けました。しかし三人の子供たちは、風土病に感染し命を失ってしまいました。しかし伊之助は、原住民の診察を止めずに活動を続けました。ついに、台湾から一九三〇年(昭和三年)に正式な医師免許が与えられました。

★丁度その年に、原住民による日本人襲撃事件(霧社事件)が起きました。それは、タイヤル族の三百人が起こした抗日反乱事件でした。その時に殺された日本人は、一三四名にも及びました。それは、長期にわたる日本の支配と、その中での原住民達への不当な扱いと搾取が原因でした。その後、原住民の抗日運動は、原住民側の多くの犠牲者を出して鎮圧されました。鎮圧された抗日原住民は、川中島に強制移住させられましたが、そこで原住民にマラリヤが蔓延。そこに駆けつけて治療したのが伊之助でした。そのことが、原住民の中で伊之助が神のように崇められるきっかけになりました。彼は伝道者として台湾に来ましたが、政府によってキリスト教の伝道は許されず、ただ原

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住民の病気を見るだけの医療活動しか出来ませんでした。彼は戦後、中国国民党によって台湾を追われ、日本に帰国します。台湾に渡って三十年ほどの活動でした。彼の台湾での活動は、本来の目的であるキリスト教の伝道には失敗したかに見えました。

★しかし伊之助の帰国直後に、大規模な原住民のリバイバル(大勢の人達が一気にキリスト教徒となること)が起こったのです。父親を殺された井上伊之助が、仇に向かって仇で返さずに、キリストの言葉に従い、仇に向かって「愛」で返した生涯が結 んだ実なのです。今も台湾原住民は、日本人に対して非常に友好的です。私も何度も山地のタイヤル族の村々を尋ねましたが、そこには日本文化が根づいていました。最初の訪問の時でしたか、村に近づくと、なんと「東京音頭」が流れ、中には浴衣姿で踊っている人までいるではありませんか。まさに井上伊之助の魂と、キリストの愛が原住民の中に生きているのを感じました。キリスト教の伝道は許されないという不自由な中にあっても、キリストの愛を原住民に示し続けた愛の実践者、井上伊之助を決して忘れてはなりません。彼は帰国後、八十四歳で主に召されました。

(注)この文中には「原住民」という言葉が多数使われていますが、この呼び名は原住民自らが選んだ呼び名です。「先住民」ですと、昔はいたが今はいないという響きがあるので、彼らは誇りの為に原住民という言葉を選んだのです。

 

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聖書に触れた人々NO30「キリストと農業のために生きた津田仙」

聖書に触れた人々NO30「キリストと農業のために生きた津田 仙」2013年5月21日 

                                          仁井田義政 牧師

 今日が、聖書に触れた人々シリーズの30回目です。30回を区切りに最終回に致します。今日、紹介するのは明治の農学者「津田 仙」です。

★津田仙は、天保8年(1837年)に佐倉藩士(千葉県佐倉市)小島家に生まれました。嘉永4年(1851年)元服して桜井家の養子となりました。14歳の時でした。さらに文久元年(1861年)に24歳で津田家の「初子」と結婚し、婿養子となり津田姓となりました。彼は幕府の命令によって様々な学問を学び、語学に長けていました。慶応3年(1867年)には、アメリカへ軍艦引取り交渉のために、通訳として派遣された程です。その時、かの福澤諭吉らも一緒でした。

★明治8年(1875年)1月には、米国メソジスト教会のジュリアス・ソーバー宣教師により、妻の初子と共に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。津田仙は日本の農学者であり、学農社の創立者であり、青山学院大学の創立に関わり、筑波大学付属盲学校の設立に関わりました。当時は同志社大学の新島襄、東京帝国大学の中村正直らと共に、キリスト教界の三傑と言われたそうです。

★津田仙の農学者としての働きは、近代日本の農業に大きな影響を与えました。福澤諭吉らと共に渡米した時、彼は西洋農法に強い感銘を受けて帰国しました。さらには明治6年(1873年)に、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席した時、オランダ人の農学者、ダニエル・ホイブレイクの考えに深く共感しました。そして彼は、日本を西洋式の農業にしようと活躍しました。またウイーン万博から持ち帰ったニセアカシヤの種を発芽させ、その苗を明治8年(1875年)に東京の大手町に植えました。これが東京初の街路樹となりました。また明治9年(1876年)には、アメリカ産のトウモロコシの種を、日本の農家に通信販売を始めました。それが日本での通信販売の最初と言われています。

★クリスチャンとしての津田仙の働きは、日本の農業を変えるために設立した農業学校の学農社において、日曜学校を開校し、日曜学校の教師にフルベッキ―(宣教師・法学者・神学者・聖書翻訳者・教育者)やクリスチャンで農学者でもあった内村鑑三を招いたりして、学生達にキリスト教を土台とした教育を授けました。彼はミッションスクールの設立にも協力し、盲人の教育にも力を注ぎました。日本最初の公害問題と言われている足尾銅山の鉱毒問題の田中正造を助け、農民運動にも力を注ぎました。

★その他にも彼の活動はたくさんありますが、時間の都合上ここまでにしておきましょう。津田仙には、津田塾大学の創立者である娘の梅子がいます。この人もまた素晴らしい働きをしたクリスチャンで、1871年に僅か6歳で渡米留学しました。翌1872年には、自ら申し出てアメリカでクリスチャンになりました。1882年に18歳で日本に帰国し、皇族立の女学校の教師となりましたが、当時の日本の女子に対する考え方に失望し、再度渡米し学問を積みました。その後、激変する明治の日本において、女性の近代化教育が急務であるとの大きな夢をもって帰国し、「女子英学塾」を設立しました。それが津田塾大学となりました。まさに親子に亘るキリスト者としての働きでした。

津田仙は明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため召されました。71歳でした。青山学院講堂で行なわれた告別式には、内村鑑三や新渡戸稲造の姿もありました。

★津田仙の生涯には「日本で最初の・・・」と言う言葉が幾つもつけられる偉大な生涯でした。その生涯にふさわしい御言葉として、伝道の書11章6節の朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」を上げておきたいと思います。

 

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聖書に触れた人々NO29「慶長遣欧使節団」 

聖書に触れた人々NO29慶長遣欧使節団 2013年4月16日 

  今年と来年にかけて日本とスペインは、2010年9月の日本スペイン首脳会談における合意を踏まえ、「日本スペイン交流400周年事業」を行なうことになっています。それは今年が慶長遣欧使節団派遣からちょうど400周年に当たるからです。400年前の1613年は伊達政宗の時代です。その年の10月28日、仙台藩内で造った木帆船の「サン・フアン・バウティスタ号」(洗礼者聖ヨハネという意味)が、宮城県牡鹿郡月ノ浦を出帆しました。それは伊達政宗の命による慶長遣欧使節団でした。団長は支倉常長(はせくら つねなが)。案内役はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロでした。総勢180名の大人数でした。目指すは、スペイン領のメキシコを経由してスペインとローマです。

★伊達政宗が慶長遣欧使節団を遣わした目的は何だったのでしょうか。その目的は、スペイン国王に会い、当時スペイン領であったメキシコとの直接貿易の許可を得るためでした。またローマ法王に会い、仙台領内での布教のために宣教師の派遣をお願いするためでした。それは策略でもあったという説もあります。その策略とは、伊達政宗がスペインと手を組んで、徳川の支配から独立し欧州国を作ろうと考えていたという説です。当時徳川幕府も、メキシコとの貿易を望んでいました。ですから伊達政宗は、表向きは幕府公認の行動として使節団派遣を送ったのです。しかし事態は急変しました。彼らが3ヶ月後にメキシコに着いた頃には、日本で家康は切支丹禁教令を布いたのです。

★日本における切支丹弾圧が開始されたことに起因してか、多くの日本人はメキシコに留まりました。メキシコからスペインまで行った人は僅か30名程にすぎませんでした。メキシコを出てスペインに着いた使節団は、スペインの国を挙げての大歓迎を受けました。スペインにとっても、黄金の国とのうわさの日本と交易することは願ってもないことだったのです。1615年2月17日、団長の常長は、王立女子修道院付属教会において、スペイン国王やフランス王妃たちの列席のもと、洗礼を受けました。またローマ教皇パウロ五世にも会いました。その時の伊達政宗からの親書が、今バチカンにあります。そのローマ訪問の時に、8名の日本人にローマの市公民権が授与されました。

★しかし、日本の状況はキリスト教弾圧へと向かっていました。それがスペインにも伝わると、大歓迎だったスペインの熱が冷め始めました。また日本はどうも黄金の国ではないらしいと言う情報も伝わり、通商条約も成立しませんでした。スペインに行った日本人武士たちも、祖国でキリスト教弾圧が始まったことを知らされ、帰国を断念する者も起こりました。幕府の方針に押されて、伊達政宗の率いる仙台藩も、常長の帰国直前に領内にキリシタン禁令を出しました。仙台藩領内でも、1624年にはカルバリオ神父(ポルトガル人宣教師)と仙台のキリシタンが捕えられ処刑されました。広瀬川での水責めによる殉教でした。宣教師を呼ぶために使節団を派遣した政宗も、幕府には従わざるをえない状態となったのです。

★1620年9月 常長ら使節団は、同航してくれた宣教師ルイス ソテロをマニラに残し、船便で帰国しました。帰国したのち仙台藩においても冷たく扱われ、2年後には52歳で死去ました。その後、ルイス ソテロ宣教師はマニラから薩摩に密入国しましたが、見つかり逮捕されてしまいました。そして2年後の1624年火炙りの刑が宣告され殉教しました。使節団の中にいたクリスチャンの数名は、キリスト教迫害に舵を切った祖国を捨て、スペインに留まることを決意しました。おそらく6~8名だったと言われています。スペインには「私は慶長遣欧使節団の子孫」と名乗っている人々の住む村があります。その人達は名字を「ハポン=日本」と呼び、現在約830名がいます。その村では昔から日本式の稲作を行なっています。スペイン人は、出身地を苗字にすることがよくあります。たとえば画家のエル・グレコの名前は、ギリシャ人と言う意味です。そのような習慣で慶長遣欧使節団の子孫として「ハポン=日本」という名前の人がいてもおかしくはないのです。徳川家康も伊達政宗も、自分の領土と繁栄を守るために必死でした。そのためのスペインとの交易交渉でした。しかし両方とも今は過去の人となりました。今日は「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハ 2章17節)という御言を心に留めましょう。徳川家康も伊達政宗も、巨大な力を背景にしてキリスト教徒を迫害しましたが、しかし徳川幕府は倒れ、伊達政宗の権力も現在は微塵も見当たりません。しかし日本においてキリストの教会は、今も生き続けています。最後にもう一つ御言を挙げておきましょう。それは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅱコリント4章8~9節)という御言です。私達一人ひとりは弱いように見えますが、神様を信じる者は実は強いのです。たとえ「倒されても滅びない」のです。

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聖書に触れた人々NO28「貧しい人々と共に 賀川豊彦」 

聖書に触れた人々NO28「貧しい人々と共に 賀川豊彦」 2013年4月2日 

         仁井田義政 牧師

 賀川 豊彦(かがわ とよひこ)1888年7月10日(明治21年)-1960年4月23日(昭和35年)は、大正・昭和におけるキリスト教社会主義運動家でした。彼は海の運送業を営む家に生まれるも、幼少の時に父母とは死別してしまいました。5歳の時に、姉と共に徳島の本家に引き取られました。しかしその本家も、彼が15歳の時に破産してしまい、今度は叔父の森六兵衛の家に引き取られました。彼の幼少期は、そのように大変な体験の時代でありました。

★彼は、徳島中学校時代の1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションのH・W・マヤス宣教師より洗礼を受けてクリスチャンとなりました。この頃、様々な本を読みキリスト教社会主義に強く共感しました。またある時はトルストイの反戦論に共鳴し、軍事訓練サボタージュ事件を起こした事もありました。その後、彼はキリスト教の伝道者になろうと、明治学院高等部神学予科と神戸神学校へと進みました。

★クリスチャンとしての社会活動を開始するきっかけとなったのは、神戸神学校の時代に「イエス様の精神を発揮してみたい」と神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始したことに始まります。1911(明治44年)に神戸神学校を卒業し、翌年の1912(大正元年)にその新川のスラム街で、一膳飯屋「天国屋」を開業しました。それもその町の人々を助けるためでした。まもなく女工のハルとスラムで出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはスラムの人々を招待し、御馳走をふるまいました。また集まったスラムの人々に、新妻ハルを「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなたがたの家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります。」と言ったそうです。

★彼は1914年(大正3年)に渡米し、プリストン大学・プリストン神学校に学びました。1919年(大正8年)日本基督教会で牧師の資格を得ました。その次の年1920年に、自伝的小説『死線を越えて』を出版しました。それがベストセラーとなり、賀川豊彦の名を世間に広めるきっかけとなりました。その時の本の印税は全て社会運動のために充てました。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(現在のコープこうべ)を設立し、生活協同組合運動にも取り組んだのです。生協は今日本中に広まっています。

★彼はさらに日本農民運動にも取り組みました。1922年(大正11年)に日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組みました。組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には、組合員数はあっという間に7万人を超えた程でした。その運動は地主から小作人を守るための組合活動でした。

★また1923年(大正12年)に関東大震災が起こると、急きょ関東に移って救済活動を行ない、被災者の救済とその子供達を集めて世話をしました。その事がきっかけとなって、社会福祉法人「雲柱社」が創立されました。その法人名になった雲柱とは、イスラエルがエジプトの奴隷から解放されて祖国イスラエルに荒野を通って帰ってくる時、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって守って下さったという聖書の記事から取られたものです。雲柱社は現在、障害児・障害者支援施設。保育施設。子ども家庭支援センター。児童館・学童クラブなど数多くの施設を運営して、賀川豊彦の意思を実践しています。賀川豊彦の生涯は、キリスト者として貧しい人達に愛と情熱を注いだ生涯でした。ここには書くことが出来なかった彼の働きは、まだまだ多くあるのです。賀川豊彦の生涯を見て、心に浮かんだ聖書の言葉は「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。(箴言16章19節)です。私達も賀川豊彦先生にならって、貧しい者や弱い者への配慮を忘れないようにしましょう。

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聖書に触れた人々NO27「細川ガラシャ夫人の一途な信仰」 

聖書に触れた人々NO27「細川ガラシャ夫人の一途な信仰」2013年3月19日

                                                                        仁井田義政 牧師   

  細川ガラシャは、1563(永禄6年)明智光秀の三女として生まれました。名は玉といいました。ガラシャの父は織田信長に仕えていましたが、1582年突然、信長に反旗を翻し、信長が宿泊していた本能寺を襲撃しました。その結果、信長はそこで自殺に追い込まれました。それが「本能寺の変」と言われる事件です。その後、明智光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との山崎の合戦で敗れ戦死すると、その一族も衰退していきました。一方ガラシャは、父の光秀が織田信長に謀反を起こす前、つまり信長に仕えていた時、信長の勧めによって戦国武将の勝龍寺城主細川(ほそかわ)藤(ふじ)孝(たか)の長男、細川(ほそかわ)忠(ただ)興(おき)と結婚しました。ガラシャが16歳の時でした。

    ★主君を本能寺で自殺に追い込んだ明智光秀の娘ガラシャは、丹後(兵庫県北東部)の山奥に幽閉されてしまいました。2年後に豊臣秀吉に赦され、細川忠興家に帰ったのですが、忠興に監禁同然の生活を強いられ、外部との接触を禁止されてしまいました。そのような中で、どのようにしてガラシャはクリスチャンになることが出来たのでしょうか。ガラシャがクリスチャンになるきっかけになったのは、千利休の茶室が一役買っているのではないかと言われています。それは、千利休に選ばれた7哲と言われた7人の弟子の中に、熱心なクリスチャンがいたのです。それは切支丹大名で有名な高山右近でした。また細川忠興もその7人の中の一人だったのです。おそらく高山右近の何らかの影響があったのではないかと言われています。またガラシャにはマリヤという侍女頭がいました。マリヤはクリスチャンで、そのマリヤという名は洗礼名でした。その影響が強くあったと思われます。

   ★ガラシャは監禁同然の生活が続く中、意を決して教会に行ったことがあります。それは1587年のことでした。それは、夫の忠興が秀吉の九州征伐に伴って出陣していた時で夫が留守だったのです。彼女は密かに裏門から出て教会に行きました。初めて教会に行ったその日、教会ではちょうど復活祭の礼拝が行なわれていました。ガラシャは「自分は二度と教会に来られないから、今日洗礼を授けてほしい」と願いました。しかし洗礼は認められませんでした。素性を明かさず洗礼を願い出たガラシャに、教会は洗礼を授けるのをためらったようです。ガラシャが教会に行けたのは、その時一回限りでした。しかし侍女達には、理由を作っては外出させ、教会に行かせました。帰って来た侍女達に教会で聞いた話を、今度はガラシャが聞くという方法で、信仰を培って行ったようです。ガラシャが侍女達を教会に行かせた結果、侍女達16名が洗礼を受けてクリスチャンになりました。ガラシャは、その侍女達と屋敷で神に祈りを捧げていたといいます。

   ★ガラシャが教会に初めて行ったその1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されました。 ガラシャは、宣教師が帰国する前に洗礼を授けてほしいと侍女を通じて願い続けました。しかし、もはや宣教師がガラシャに洗礼を授ける状況ではなくなっていました。宣教師は一案を講じました。それは、ガラシャの侍女の一人に洗礼の仕方を教えたのです。ガラシャはその侍女から洗礼を受けたのです。その時の洗礼名が「ガラシャ」でした。その意味はスペイン語の”gracia”あるいはラテン語の”gratia”であり「恵み」という言葉でした。この頃、先週話した26聖人が長崎で殉教しているのです。

   ★そのようなガラシャにも、この世での最期を迎える時が迫っていました。夫が東軍の徳川方につき、上杉討伐のため戦いに出ている時でした。その隙に敵である西軍の石田三成が細川屋敷を取り囲み、そこにいたガラシャを人質に取ろうとしました。ガラシャは自害しようと決意しますが、自害は神の御心に反するという宣教師の教えに従い、家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて果てたのです。その時、辞世の句としてガラシャが詠んだ「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という歌があります。何と覚悟に満ちた美しい言葉でしょう。その後、家老の小笠原秀清はガラシャの体が残らないように、屋敷に爆薬を使って火を放ちました。 聖書には女性の名で呼ばれている書が二冊あります。ルツ記とエステル記です。ガラシャの生涯を見て旧約聖書のエステルを思い起こしました。エステルはユダヤ人を虐殺から救うために立ち上がります。その時のエステルの決意が、エステル記4章16節に「私は死ななければならないのでしたら死にます」と記されています。ユダヤ人を虐殺から救うために、信仰によって命をかけた女性なのです。ガラシャも、エステルのように信仰を一途に求め生きたクリスチャンでした。私達も細川ガラシャにならって、信仰に一途さを持ちましょう。

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NO26 「殉教者日本二十六聖人の中の二人」

NO26 「殉教者日本二十六聖人の中の二人」201335日 仁井田義政 牧師

      長崎には殉教したキリシタン時代の26聖人の像があります。この時代のクリスチャンに、この様な偉大な信仰者たちがいたことを、私は驚きと共に日本人クリスチャンとしての誇りさえ感じました。今日は長崎で殉教した26聖人についてお話致しましょう。

★1549年(天文18年)に、フランシスコ・ザビエルによってキリスト信仰が日本に伝えられました。それから48年後、この事件が起こりました。時は西暦1597年2月5日のことです。豊臣秀吉の命令によって、長崎で26人のクリスチャンが処刑されました。日本の最高権力者の命令によってキリシタンが処刑されたのは、初めてのことでした。豊臣秀吉は、宣教師はもちろん国内のすべてのキリシタンを処刑するように命じました。ところが、いざキリシタンの名簿を作り始めると、キリシタンのあまりの数の多さに驚きました。当時のキリシタン人口は30万人を超えていたのです。ちなみにその当時の日本の人口は2000万人くらいでしたから、その人口から見て30万のクリスチャン人口は相当な数だったのです。秀吉は方法を変えました。宣教師と日本人信者を何人か捕らえて処刑し、他の信徒達への見せしめにし、信仰を捨てさせようとしたのです。

★豊臣秀吉は、最初キリスト教の伝道を容認していました。しかし突然、禁教へと豹変しました。ついに1596年(慶長元年)12月8日「キリシタン逮捕令」を出しました。その逮捕令によって、京都で24名のキリシタンが逮捕されました。逮捕の目的である人々への見せしめのために、鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛車に乗せられ、引き回わされました。人々はその姿をこぞって見学しました。その後24人は京都から堺・大阪へ、そして長崎の処刑場まで歩かされ、沿道の人々の目にさらされました。人々に「キリスト教を信じたら、お前達も同じ目にあうぞ」という恐怖を植え付けようとしたのです。

★しかし殉教者は24人でなく26人でなかったでしょうか。京都で捕えられたのは確かに24人でした。あとの2人は逮捕された人ではなく、途中で自分から願い出て殉教者の隊列に加わった人なのです。ペトロ助四郎とフランシスコ吉の2人でした。フランシスコ吉は、7ヵ月前に洗礼を受けたばかりの大工でした。彼らは約一カ月以上素足で歩かされ、処刑場の長崎にたどり着きました。季節は12月~2月の真冬でした。そして2月5日に、長崎の西坂の丘で次々に処刑されたのです。その丘には十字架が26本一列に立てられたと言われています。その日は、キリシタンたちの処刑の様子を見ようと多くの人々が集まりました。その中には大の見せしめのために、鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛車に乗せられ、引き回わされました。人々はその姿をこぞって見学しました。その後24人は京都から堺・大阪へ、そして長崎の処刑場まで歩かされ、沿道の人々の目にさらされました。人々に「キリスト教を信じたら、お前達も同じ目にあうぞ」という恐怖を植え付けようとしたのです。その中には大勢のクリスチャンもいました。クリスチャン達は、ある者は賛美歌を歌い、ある者は聖書の言葉を語りながら殺戮されていったと言われています。その時の殉教者は、日本人20名、スペイン人5名、ポルトガル人1名の合計26名でした。

★その後も長崎の西坂の丘は、キリシタン処刑の地として続きました。そこで殺害されたクリスチャンは約600人と言われています。まさにキリストの十字架が立てられたゴルゴタの丘のようです。日本のゴルゴタの丘と言うことが出来るでしょう。今そこには(長崎県長崎市西坂町7)、26聖人の碑が立てられています。私はまだそこに行ったことはないのですが、そこと五島列島は是非行ってみたい所です。それにしてもこの事件で衝撃的なのは、26人が信仰のゆえに殺害されたことは勿論のこと、捕らえられていなかった二人が、自分から願い出て殺害される隊列に加わったということです。同じ神様を信じていながら、24人の人達は耳も鼻もそぎ落とされ見せしめの為に人々にさらされているのに、自分だけが難を逃れているのが許せなかったのでしょう。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(1コリ12:26) と言う聖書の言葉が浮かんできます。それともう1ヶ所「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙2:10)を今日の御言葉としてあげておきます。 私達は「あの人に躓いた」とか、「あの人と気が合わない」などと言って信仰に躓くことがあります。何と小さな信仰でしょう。私達の先輩である日本人クリスチャン達にも、信仰を捨てるよりも死を選んだ偉大な人達がいたのだと言うことを誇りに思いましょう。そして私達もその信仰に習って、強い信仰者になりましょう。

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聖書に触れた人々NO25「祖国を失った音吉と和訳聖書」

聖書に触れた人々NO25「祖国を失った音吉と和訳聖書」2013年2月19日 仁井田義政 牧師

 聖書に触れた人々について、3回にわたって海外でクリスチャンになった人々のことを話しました。ひとりは、殺人の罪を犯して海外逃亡したヤジロウでした。彼は1547年の12月に、マラッカで中国伝道を目指していたザビエルに会い、翌年に洗礼を受けました。ヤジロウから日本の状況を聞いたザビエルは、日本伝道を夢見てヤジロウの協力によって和訳のマタイの福音書を完成しました。ザビエルは、それを持って1549年(天文18年)鹿児島に上陸したのです。その時、ヤジロウも一緒でした。

次に話したのが江戸から明治に変わろうとする時代1841年1月5日に、足摺岬でのアジ・サバ漁中に漂流民となってアメリカに渡り、洗礼を受けた漁師ジョン万次郎でした。さらに外国でクリスチャンになった人物で忘れてならない人は、現存する最古の日本語訳聖書翻訳に貢献した岩吉・久吉・音吉の船乗り達のことです。彼らもまた、1832(天保3)年10月11日の航海中に船が操縦不能となり、漂流民となってアメリカに流れ着いた人達でした。

★当時、大阪から江戸へ船で物資を輸送することが盛んでした。音吉らの乗る千石船「宝順丸」も、14名の船員を乗せて江戸に向けて出港しました。積み荷は米と陶器類でした。しかし途中で嵐に遭い、舵を失い操縦不能となってしまいました。太平洋を14ヶ月も漂流し、アメリカの西海岸の北方(カナダとの国境付近、フラッタリー岬付近)に漂着しました。漂着した時には、岩吉・久吉・音吉の3人になってしまいました。みな漂流中の船中で病死してしまったのです。そこはインディアンの居住区であり、彼らは原住民の奴隷となってしまいました。そこで1年間程過ごすうち、積み荷の陶器がアメリカで出回り始め、日本の陶器が評判になりました。その事がきっかけで、音吉達の漂着のうわさがハドソン湾会社の支配人のイギリス人ジョン・マクラフリンの耳に入りました。彼は、この人達を助け送り届けることによって、日本との通商の道も開けるのではないかと考えました。彼ら日本人をインディアンの奴隷から救い出し、その地の学校に入学させ、英語とキリスト教を学ばせました。

★その後、日本との通商の道を切り開くため日本へと向かいました。まずワシントン州からハワイを経て、イギリスのロンドンへと向かいました。イギリス政府と日本政府との通商の許可を得ようとしたのだと思います。しかし当時のイギリス政府は、日本との交渉に熱心ではありませんでした。やむなくマカオに音吉達を送りました。音吉達にとって、日本を出てから既に三年が経っていました。

★彼らは、マカオでドイツ生まれの宣教師、カール・ギュツラフに会いました。ギュツラフは日本の宣教を目指しており、日本語の聖書が必要でした。そのために音吉達は、ヨハネの福音書の翻訳を手伝うことになりました。翻訳している一年の間に、九州の難破船からの4人も送られてきて合流しました。ついに1837年7月30日漂流してから5年ぶりに、音吉達を乗せたモリソン号が江戸湾の浦賀港に近づいたのです。すると幕府軍による問答無用の砲撃を受け、上陸が出来ませんでした。そこでモリソン号は、鹿児島湾に回り上陸しようとしました。しかしそこでも砲撃を受け、上陸できずに祖国を諦め上海へと引き返しました。その後、音吉は結婚して家庭を持ちました。音吉の生涯はそこで終わるわけではありません。1849年には、通訳として中国人(リン・アトウ)と名乗り、イギリスマリナー号で浦賀に上陸しています。また1854年には、日英和親条約締結のためイギリスのスターリング艦隊の通訳として長崎へきました。 

★さて彼らの翻訳したヨハネの福音書ですが、翻訳完成の23年後つまり1859年に、プロテスタントの宣教師ヘボンが、その聖書を持って宣教の為に上陸しました。音吉達の協力によって、初めて翻訳された「ヨハネの福音書」を持ってきたのです。このヘボンこそ「ヘボン式ローマ字」を考案した人です。

★音吉達の話に戻りますが、彼らは懐かしい日本に帰って来たのに、自分の国の日本からは大砲によって追い返されました。日本の国籍を失ったのです。しかし彼らには、聖書の教える国籍がありました。その御言葉を心に留めましょう。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリ 3:20)。

私達にも天に本当の国籍があるのです。そのことを忘れず、天国を目指しましょう。そこには、大歓迎してくださる神様がおられるからです。

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聖書に触れた人々NO24 「ジョン万次郎」

聖書に触れた人々NO24「ジョン万次郎」 2013年2月5日  仁井田義政 牧師

昨年の11月に、四国の土佐清水に聖会の奉仕の為に訪れました。その土佐清水には、わが教団の名物竹中通雄牧師がいます。その牧師は、よく郷土の歴史を知っている方で、聖会会場に向かう車の中で行きも帰りも四国や土佐清水の歴史を話して下さいました。四国は坂本竜馬の出身地でもあり、日本の近代化にはなくてはならない人々がたくさん出た所だからです。竜馬があまりにも有名な人物だったために、その陰に隠れてしまっているのがジョン万次郎です。近代日本の夜明けを語るのに、彼のことを話さないわけにはいきません。

★中浜万次郎は、土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、文政10年(1827年)の 1月1日に2男3女の次男として生まれました。9歳の時に父親を亡くし、14歳の時には出稼ぎに行っていました。故郷から徒歩一週間もかかる高知の宇佐で漁師として働き、家を支えていたのです。それは、1841年1月5日のことでした。仲間と一緒に足摺岬でアジ、サバの漁中に船が漂流し、万次郎達は遭難してしまったのです。数日間漂流した後、無人島(鳥島)に漂着しました。その島で143日間、過酷な生活をすることになりました。しかしその近くまでクジラを求めてきたアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に発見され、救助されました。

★しかし、鎖国であった当時のことです。アメリカの船は日本に近寄れずに、万次郎達は帰国することはできませんでした。彼らはやむなくアメリカへと向かいました。仲間は途中のハワイで降りましたが、万次郎はアメリカ本土へと向かいました。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を大変気に入って、自分の家のあるマサチューセッツ州のフェアヘーブンに連れて行きました。船長は、万次郎を船名にちなんでジョン・マンと名付けました。アメリカで万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、アメリカで学校教育を受けることになりました。日本では寺子屋にさえ行ったことがなく、当時の漁師が皆そうだったように無学でした。しかし彼はアメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術を学びました。しかも主席に近い成績だったと言います。ジョン万次郎は、アメリカの教会で洗礼を受けクリスチャンとなりました。その後一時は、捕鯨船に乗ってクジラ漁にも出たことがあります。

★しかし彼の心には、募る思いがありました。それは日本への思いであり、故郷土佐清水中浜への思いでした。彼はその旅費を作るために、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアへ移り、金鉱山で働き資金を得ました。それで船を購入し、日本へ向かったのです。途中ハワイに寄り、仲間達と一緒に船に乗り込み日本を目指しました。嘉永4年(1851年)のことです。万次郎達は、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に上陸しました。その後、沖縄・薩摩藩・長崎奉行所などで長期に渡って取り調べを受けることになりました。その取り調べの資料を用いて、河田小龍によりまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。この書を通して坂本龍馬や多くの幕末志士達がアメリカの様子を知り、海外に目が開かれていったに違いないと言われています。その後スパイの嫌疑がはれて、高知城下の藩校「教授館」の教授になりました。その教授館で岩崎弥太郎等が彼から直接指導を受けたのです。嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、幕府に条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約が締結されることとなります。

★時代は万延元年(1860年)となり、幕府は日米修好通商条約の締結の為に、アメリカに海外使節団を送りました。万次郎はその通訳として任命されました。その軍艦咸臨丸には、勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物が乗っていたのです。勝海舟は、咸臨丸の艦長でした。しかし酷い船酔いに苦しみ、実質的には万次郎が艦長であったと竹中師は言っていました。アメリカで航海術を学んでいた彼ですからそうだったのではと思います。アメリカに着いた勝海舟や福澤諭吉は、礼儀正しく日本式に頭を下げて挨拶しました。しかし万次郎は、握手とハグで挨拶しました。それを見て勝海舟や福沢諭吉達が「漁民の分際で生意気だ」と、機嫌を悪くしたとのエピソードもあります。時は明治となり、明治政府の命を受け万次郎は開成学校(現東京大学)教師となり、明治3年には教授となりました。しかしその後、彼は世の中の表舞台には出ることなく、71才の生涯を東京で終えました。彼の生涯のある時期には、板垣退助と一緒に四国の村を、万次郎は聖書の話をして、板垣退助は自由民権運動の話をして回ったそうです。 

   ★ジョン万次郎がいなかったならば、坂本竜馬も、勝海舟も、福沢諭吉も、板垣退助も、岩崎弥太郎も歴史的な人物となりえなかったかも知れません。ひいては鎖国を続けて来た日本の夜明けはなかったかもしれません。彼こそ日本の最初の国際人でとなった人でした。遭難と漂流という苦難で始まったジョン万次郎の数奇な人生。しかし近代日本の夜明けの為に、土佐清水の漁師にすぎない万次郎を神様が用いられたのです。

創世記には、自分の兄弟達にエジプトに奴隷として売られるという悲劇的な人が出てきます。エジプトで総理大臣にまでなったヨセフです。数奇な人生をたどりました。しかし彼は後に自分を売った兄弟達と会った時に「私を遣わしたのはあなたがたではなく、実に神なのです。」(創45章8節)と言いました。神様の計画を知ったのです。

私達にも、自分の意に反するような数奇さが人生にはあるのです。しかし神様がそうして下さったと知ることの出来る人は幸いです。私達も神様の計画を感じる人生を生きようではありませんか。

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